ある日突然、大津波が襲った...「行方不明の母」の存在を証明したもの

ある日突然、大津波が襲った...「行方不明の母」の存在を証明したもの

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/09/17
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「1分で泣ける」「1分で勇気が湧く」……ネットで2000万超の閲覧数を記録、現代ビジネスで連載中の『柴ばあと豆柴太』第1巻が発売されました。その刊行を記念して、フォトジャーナリスト佐藤慧さんの解説を特別掲載します。

「私には生意気な孫がいる」。そんなセリフから始まる何気ない日常の物語は、そのページをめくったとたん、東日本大震災による死別という形で突然途切れることとなる。娘と、そして孫を失った「柴ばあ」は、失意の中、瓦礫の中から震えながら這いだしてくる豆柴の子犬と出会った。それから8年後、ゴムまりのように元気に跳ねる豆柴は「豆柴太」と名付けられ、柴ばあのお弁当屋を手伝っている(つもりになっている)。巨大な防潮堤、いきかうダンプカー。復興工事の終わらない沿岸の小さな町で、豊かな海の幸をふんだんに使った柴ばあのお弁当は、たくさんの人々を笑顔にしていた。この漫画では、そんな日常を描きながら、大切なものを失い、心の内で少しずつその傷と向き合うそれぞれの物語を、豆柴太の小さな目線から語っていく。

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柴ばあに寄り添う豆柴太

失われた命は戻って来ない。物語の登場人物たちは、その現実と向き合いながらも、返事のない相手に向かって声をかけつづける。柴ばあは震災前、犬が苦手だったらしい。子どもの頃に犬に噛まれて以来、「猫派」と称していた。そのため、娘や孫から「犬を飼いたい」と頼まれたときも、「オライは弁当屋だ!!飼えるわけねえだろ!?」と断ってきた。

そんな柴ばあが「豆柴太」とともに暮らそうと思ったのは、「それくらいしかもう、してやれることがないと気づいたから」だという。亡くなったふたりを喜ばせたい。陽気な豆柴太の姿を、彼岸からでも見てほしいと。しかしいつしか豆柴太は、そんな柴ばあの心の空白に、そっと寄り添い温もりを伝えてくれる存在となっていく。

その空白は、決して他の何かで埋められるものではない。けれど、ふとした瞬間に「孤独」が吹き荒ぶとき、豆柴太のような小さな温もりが、そっとその空白を、冷たい風から守ってくれるのだ。その温もりは人それぞれで、手作りの「雁月(東北の素朴な郷土菓子)」だったり、誰かの役に立てる瞬間や、時折思い出す何気ない日常の思い出だったりする。

愛くるしい豆柴太の姿を見ていると、思い出す姿がある。僕の両親は、東日本大震災発災時、岩手県沿岸の陸前高田市という街に住んでいた。取材で海外を飛び回っていることの多い僕が、その一報を耳にしたのはアフリカ南部、ザンビア共和国にいるときだった。「日本で大きな地震があったらしい」。地震列島と言われる日本では、それこそ毎月のように地震速報を耳にする。きっと今回の地震もあまり大きな被害は出ないだろう。そう高をくくっていた。

しかし、直後に世界中のニュースチャンネルで配信された津波の映像に、背筋が凍り付いた。続く東京電力福島第一原発の事故。いったい日本はどうなってしまうのだろう。なにより、両親は無事なのだろうか。緊急帰国し、岩手県へとたどり着いたのは発災から1週間後。4階建ての病院の屋上で一命を取り留めた父から聞いたのは、「母の行方がわからない」ということだった。

その後聞き込みを続ける中で、どうやら母は、実家で飼っていた2匹の犬を連れて避難所に向かう途中で、津波に呑まれたらしいことがわかった。ミニチュアダックスフンドの「ミミ」と「チョビ」は、僕と弟が実家を出てから、両親にとっては子どものような存在だった。僕も実家に帰るたびに、2匹を連れて松の並ぶ海岸線を散歩したことを覚えている。その時の穏やかな海が、1日にして街を瓦礫の荒野と変えてしまうとは、想像だにできなかった。

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全壊した実家から出てきた2匹の犬の写真

1か月後、川の上流9キロ地点の瓦礫と泥土の下から、母の遺体が見つかった。実は母の遺体は、発見当初は「身元不明遺体」だった。自らを証明するものを何も持っていなかったのだ。そんな母の身元がわかったのは、その手に2匹の犬の散歩用のリードが固く握られていたからだ。それはまるで2匹の愛犬が、母の遺体が見つかるようにと導いてくれたかのようだった。小さな体で精いっぱい人に寄り添う豆柴太を見ていると、そんな2匹のことを思い出す。

「もう、10年近くになりますね」という言葉をよく耳にするようになった。巨大な防潮堤が築かれ、嵩上げされた土地には真新しい建物が並ぶ。多くの仮設住宅が解体され、復興住宅が立ち並ぶ。それぞれが、それぞれの想いを抱えながら、「あの日以後」の日常を精いっぱい生きている。

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2020年3月の陸前高田市。土木工事が続いている

「復興とは何だろうか」ということを、あれからずっと考えている。なぜ、「復旧」ではいけないのか。壊れた何かを元通りに戻すことを「復旧」と呼ぶのなら、それは決して叶うことはない。なぜならそこにはもう、決して取り戻すことのできないものがあるからだ。それぞれの失ったものの重さは、客観的な物差しで測ることのできるものではなく、その痛みを和らげていく時間の流れも、一様ではない。

そんな個々人の抱える空白を、何かの代替物で埋めるわけではなく、「抱えていてもいいんだよ」と温かく寄り添う何か……その何かが社会に備わったとき、それを「復興」と呼ぶのではないだろうか。心の秒針を急かすことなく、その人の呼吸に合った季節の循環を、そっと待つこと。それは被災地に限らず、多種多様な不条理や悲しみに見舞われる世界のあらゆるところで、必要とされている感性ではないだろうか。

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毎年陸前高田市で行われる灯篭流し。彼岸と此岸の境界線が溶けていくよう

戦争の世紀と呼ばれた20世紀を跨ぎ、未だに世界各地では理不尽な争いにより多くの人が傷つき、命を奪われている。気候変動による災害も次々と発生し、収まる気配がない。そうした不安感に重なり、世界全体で猛威を振るうコロナ禍は、その目に見えない恐怖ゆえに、それぞれの健康や経済状況だけではなく、他者に対する寛容性をも奪いつつあるように思う。

しかしそんなときこそ、「見知らぬ誰か」にも、自分と同じく唯一無二の人生があり、大切にする日常があることを思い出したい。〇〇人や〇〇教徒、〇〇主義者という大きなレッテルで他者を判断するのではなく、同時代を生きるひとつの命があることに思いを馳せたい。

「東北は~」「被災者は~」といった言葉は便利だが、そうした言葉からは見えてこないひとつひとつの大切な物語を、『柴ばあと豆柴太』は教えてくれる。なんてことのない些細なものが、他の誰かにとってはかけがえのないものである可能性に、気づかせてくれる。柴ばあと豆柴太が紡ぐ日々のように、それぞれの内にある世界にそっと心を寄せていくこと、その淡い重なり合いが、豊かで優しい社会を築いていくために必要なものだと思う。

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2011年3月……ボクと柴ばあは出会った。東日本大震災で家族をなくしたひとりと一匹が
よりそうながら暮らす東北のある港町。お弁当屋さんを営む柴ばあと、小さな豆柴犬の二人暮らしをめぐる四季の物語。東北の温かさと、せつなさが伝わるストーリーと4ページのそれぞれの心象風景できりとった、新しい形のコミックス。たのしい4コマをはじめとした描きおろしもいっぱい!

『柴ばあと豆柴太』(ヤマモトヨウコ著、講談社)

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