少女マンガは、現実から飛び立つための装置なんだ はらだ有彩×大串尚代トークイベントレポート

少女マンガは、現実から飛び立つための装置なんだ はらだ有彩×大串尚代トークイベントレポート

  • カドブン
  • 更新日:2022/05/14
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『日本のヤバい女の子』著者と慶應義塾大教授が少女マンガを徹底議論! オンライントークイベント「わたしたちが少女だった頃、世界は」レポート

『立ちどまらない少女たち 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』を刊行し、少女マンガの魅力の源泉には英米文学があると論じた慶應義塾大学教授の大串尚代さん。その大串さんが以前から著書を読んでいたというはらだ有彩さんは、デビュー作『日本のヤバい女の子』や、新刊『ダメじゃないんじゃないんじゃない』などのエッセイで、フィクションを読む目を通して現代の私たちの生きづらさに向き合ってきました。
お二人とも幼い頃から少女マンガの大ファンということで、オンライントークイベント「わたしたちが少女だった頃、世界は」が実現。少女マンガの〈少女〉という言葉に押し付けられてきたイメージについて、また、逆にイメージの呪縛から解き放ってくれたマンガについて話していただきました。
今回は特別に、お二人の魅力的な対談を「カドブン」がレポート! 一部ではありますが、少女マンガを巡る思索をぜひお楽しみください。

トークイベントの全貌は、6/2まで配信中のアーカイブ配信をぜひご覧ください!
https://yorunoyohaku.com/items/6229ab209a706231005ae6bc

少女マンガのおもしろさは「なんでもアリアリの突拍子のなさ」

はらだ:私は元々少女マンガが大好きなんですが、子供の頃はどうして世の中で〈マンガ〉と〈少女マンガ〉が分けて語られるのか全く分かりませんでした。なぜ「これは女の子らしい/らしくない」と決まっているのかと考えるとき、きっと歴史的な成り立ちを知らなければならないと思うんですね。
なので、大串さんの『立ちどまらない少女たち』を読んで、少女マンガには英米文学の影響があるというお話にとても興味を持ちました。“女の子らしさ”の表象がどこから生まれたのか、ぜひ色々と伺いたいです。

大串:私ははらださんの『ダメじゃないんじゃないんじゃない』を読んで、私たちの社会の常識を疑って別の選択肢を考えつつも、読む人にその“別の道”を強要しないことがすごいと思いました。オルタナティブをいくつも提示してくれて、すごく自由。
はらださんの本を読むと思考の形跡が分かっておもしろいのですが、そういった選択肢の多い考え方をするようになったきっかけはあるんでしょうか。

はらだ:本を書くとき、できるだけ常識のタガを外して「普通はありえないこと」だと思われていることを考えるようにしているかなと思います。実は、大串さんの本を読んで、その発想の常識はずれなところは、少女マンガの影響を受けているかもしれないと思ったんです。

大串:私も著書の中で引用したのですが、マンガ家の吉田秋生さんが、少女マンガの特徴は「なんでもアリアリの突拍子のなさ」にあると述べられていますよね。

はらだ:そうなんです。私は少女マンガの中でも川原泉先生が特に好きなんですが、話の展開の飛び方がすごくおもしろいんですよね。
たとえば『笑う大天使』という作品では、母を亡くして天涯孤独になった女子高生・司城史緒が、突然現れたお金持ちのお兄さんに指示されてお嬢様学校に入学しなければならなくなる。そこまではありそうな展開なんですが、主人公はそこで急に特殊な能力に目覚めるんですよね。力持ちになって誘拐事件を解決したりする。一度〈少女マンガ〉が描くものとして決めつけられた“少女らしさ”を壊していく感じがして、とても好きなんです。

大串:私も川原さんの作品がとても好きです! 川原さんは、ただ少女マンガのセオリーを壊すのではなくて、スタンダードを踏まえながらずらしていくところがあると思うんです。
そもそもジャンルが確立するときは定番のフォーミュラ(形式)があって、そこからどうずらしていくかに作家の個性が出ると考えているのですが、川原さんは、ずらしつつきちんとしたところに着地するうまさがあると思います。
「少女マンガは“なんでもアリアリ”」と言うと、少年マンガだってそうだと言われることもあって説明しづらいんですが、「少女とはこうあるべき」という目線から自由になる創作の力があるところがおもしろいと思いますね。

恋愛マンガじゃないと少女マンガじゃない?

はらだ:私は中高と神戸の女子校に通っていたんですが、とても雑なまとめ方をすると、“ギャル”と“オタク“の2種類しかいなかったんです。“ギャル”のグループは恋愛少女マンガを好んで回し読みしていました。
一方、“オタク”のグループの間では、『摩利と新吾』が流行っていました。明治末期、名門旧制高校に入学した幼馴染の男の子同士の感情の動きを描いた、木原敏江さんの作品です。
今振り返ると、その世界観の中では「女性と恋愛」の結びつきが前提条件ではなく、女性である自分自身と、特に男性との恋愛の関わりを脇へ置いて読むことができるんですよね。
当時は「少女マンガ=恋愛を扱っている」という固定観念があり、恋愛ものを読むことがなんとなく恥ずかしかったと記憶しています。

大串:いま思えば恋愛を扱わない少女マンガはたくさんあるんですけど、たしかにそれに気づけたのは私も大人になってからでした。私の記憶では、『動物のお医者さん』の佐々木倫子さんが登場したのが高校生のころで、恋愛をメインに扱わないことに衝撃を受けた覚えがあります。
同じ時期に『キャプテン翼』の同人誌を読んでいる友人もいて、やはり自分(女性)と関係のないところで展開される恋愛物語に安心感を覚える人も多かったと思いますね。

はらだ:一方で、恋愛が主題の少女マンガにエロティックな表現が登場したころは、ワイドショーで「けしからん!」みたいな特番が組まれていた覚えがあります。それまで禁止されていたものが解放されたころだったんでしょうか。

大串:レディースコミックとは別の文脈でのエロティックな表現というと、「Cheese!」という少女マンガ雑誌が印象的でした。私自身は大人になってから読んだんですが、村上春樹の小説に露骨な表現があってもなんともないのに、少女マンガでの表現には耐性がなかった。「キャーッ!」と目を覆ってしまうような(笑)。そういう意味で、私も「エロティックなことは“少女”らしくない」という常識にとらわれていたと思います。

「少女」という名前がついたとき、生まれた変化

はらだ:そもそも“少女”ってなんだろう、と考えると「少年=年(齢)のゲージが少ない者」と読めるのに対し、「少女=女としてのゲージが少ない者」ということになりますよね。

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なので、「女(という性別に生まれた者)はこういうもの」という決めつけに基づいて少女マンガが規定されてしまうと、私はとても苦しい気持ちになります。

大串:たしかに、“少女”が可視化されると、次第に「少女とはこういうもの」という決めつけが発生してしまってもどかしいのですが、定義がない頃は男の子も女の子もみんな「少年(=年(齢)のゲージが少ない者)」だったんですよね。
では両方が含まれていたころの「少年」という言葉が性別と無関係だったのかというとそうではなく、中心には男の子が置かれています。たとえば「帰国子女」という言葉は、「帰国子」ではなく、わざわざ「女」が付いていますよね。“子”というジェネラルな概念の外に少女が置かれている。

はらだ:そう考えると、「少年=一般的に男の子」と考えられてしまっている中で、「少女」という名がつくジャンルが登場したことにはとても価値があるのも事実ですね。

大串:私が〈少女マンガ〉に海外文学からの影響があると考えたのは、ジャンルの確立という点が、アメリカで女子教育が発達した歴史に重なるというのもあるんです。
元々女性には教育は必要ないとされていたところから、「よい子(この場合、男の子)を育てるには母親にも教育がなくては」という考えから女子に教育が施されることになりました。でも、教育を受けるにつれ、「私たちが得られるもの、これだけ?」と思う女性が増えて実際の活動に繋がり、自由を獲得できるようになりました。
〈少女マンガ〉も、その登場によって「女の子=恋愛」という決めつけが発生したことで、その外に出る人が出てきたのだと思うんです。

はらだ:当時の権力者は「ここまで賢くなってほしい、だけどこの先には行かなくていいよ」と思ったのかもしれませんけど、教育を受けた方は決められたラインでは止まりませんよね。

「女の子は夢見がち」なのは、世界が少女を裏切っているから

はらだ:「少女」であることは「少年」であることとは違うと思いますか?

大串:「少年の心を持った大人」というフレーズから考えると、「少年」って無責任かもしれませんね(笑)。一方、「少女」は、大人になる前からいろんなしがらみを持っていて、少女マンガの登場人物が突飛な行動をするのはそこから逃れるためかもしれません。

はらだ:大串さんも著書で取り上げられている萩尾望都さんの『ここではない★どこか』というシリーズでは、日常がふとした瞬間に非日常に変わる様が描かれますが、タイトルがとても示唆的ですよね。そもそも「ここ(日常)」がどこなのかによって、「どこ(非日常)」も変わる。「なんでもアリアリ」の「なんでも」も、そもそもの常識がどんなものかによって変わると思うんです。
私としては、少女マンガが「なんでもアリアリ」なのは、この世界がそもそも逃げ出したくなるような場所だからだと思うんです。なぜこの世の法則から脱却しないといけないかというと、この世の法則が既に少女を裏切っているから。世界が押し付けてくる“女らしさ”から少女が逃げるとき、物語がものすごく飛躍しているように見えるんじゃないでしょうか。それが、常識を押し付けている世界の側からすると「女の子は突飛で夢見がち」というふうにしか読み取れなくて、その狭い読み取りの範囲の中で“女らしさ”の決めつけがより強化されるように思えます。

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大串:残念ながら、社会における性別の捉え方は非対称的なんですよね。
たとえば大学でミスコンへの反対意見が出ると、「わかったわかった、ミスターコンテストを作って男性も品評されるようにすればいいのでしょう」と言われるんですが、2つのコンテストを同時開催したからといって、見た目で評価されてきた歴史の長さや文化的なコンテクストの違いはまったく同等ではない。少女マンガの自由さと少年マンガの自由さも、まったく対称的なものとして語ることはできないんです。

はらだ:2015年放送のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の視聴率が振るわなかったとき(ちなみにこの作品のキャッチコピーは「幕末男子の育て方」でしたが)、「少女マンガみたい」と言われていました。これが悪口として成立してしまうことに、やはり偏見があると思います。
大串さんが書かれているように、少女小説、少女マンガが少女の生活に根差したところから作られているとすると、「少女マンガみたい」が悪口とされている現状は、少女らしいとされる生活が軽んじられているということなんですよね。

大串:そうなんです。文学の研究をしていても、「文学とは人間を描くものなので、男も女もない」と言われることが多いのですが、そこでは性差が無視されがちです。でも文学史を振り返ると、「人間=Man」、つまり男性の在り方こそが人間の在り方とされてきた。それは日本のマンガ文化にも共通していて、マンガといって最初に思い浮かべられるのは少年・青年マンガなんですよね。アメリカ文学ではずっと軽視されてきた少女小説がようやく見直されるようになってきました。少女マンガも、同じようにその在り方にライトを当てていきたいと思います。

※イベントで話された内容に、一部編集を加えました。

プロフィール

はらだ有彩(はらだ・ありさ)
関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを組み合わせて手掛ける「テキストレーター」。2018年に刊行した初の著書『日本のヤバい女の子』が大きく話題を呼び、2019年には続編『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』を刊行(文庫化にあたりそれぞれ『日本のヤバい女の子 覚醒編』『日本のヤバい女の子 抵抗編』と改題)。そのほかの著書に『百女百様 街で見かけた女性たち』『女ともだち ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』がある。数多くの雑誌やwebメディアに、エッセイやコラム、小説等を執筆する。

大串尚代(おおぐし・ひさよ)
1971年、滋賀県生まれ。慶應義塾大学 文学部 人文社会学科教授。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科後期博士課程修了、博士(文学)。専門分野はアメリカ女性文学、ジェンダー研究、フェミニズム、日本少女文化。著書に『ハイブリッド・ロマンス アメリカ文学にみる捕囚と混淆の伝統』(松柏社)、『『ガラスの仮面』の舞台裏 連載40周年記念・秘蔵トーク集 』(分担執筆、中央公論新社)、翻訳にフェリシア・ミラー・フランク 『機械仕掛けの歌姫 19世紀フランスにおける女性・声・人造性』(東洋書林)、ルイザ・メイ・オルコット『仮面の陰に あるいは女の力』〈ルリユール叢書〉(幻戯書房)。

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カドブン編集部

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