「明治初期、軽井沢はワイナリーだった」知られざる観光戦略とは

「明治初期、軽井沢はワイナリーだった」知られざる観光戦略とは

  • Forbes JAPAN
  • 更新日:2021/02/22
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軽井沢は人口2万人(別荘は16000軒以上)の小さなまちだ。そこに年間860万もの観光客が訪れている。観光客は春から夏に集中し、冬は閑散としている。そのような季節変動の多い軽井沢で、最近移住者が急増、テレワーカーも増えている。

今までは最近の移住者の方々に新しいライフスタイルのインタビューをしてきたが、これからは移住者に加え、新たに軽井沢の団体・企業のトップ、さらには周辺自治体の首長にも広げ、コロナ禍以降何が変わったのか、新しい移住者から読み取る次世代ライフスタイルやワークスタイルや、今後の地方創生戦略など幅広い視点でインタビューしていく。

第7回は、年間860万人もの観光客が訪れる軽井沢の観光戦略トップのお立場であり、ご先祖は江戸時代からずっと軽井沢にお住まいで、一昨年70周年を迎えた一般社団法人軽井沢観光協会の土屋芳春会長に、軽井沢の観光戦略についてお聞きした。

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軽井沢白糸の滝。信濃路自然歩道は、旧軽井沢三笠〜峰の茶屋まで「白糸の滝」「竜返しの滝」を通り、緑の中を谷川のせせらぎを聞きながら森林浴を楽しみながら散策する、延長11kmのトレッキングコース。春から秋にかけて、軽井沢駅から旧軽井沢三笠を経て白糸の滝まで、トレッキングする人も多い。

サロン文化・別荘文化から始まった軽井沢コミュニティの歴史

鈴木幹一(以下、鈴木):軽井沢は江戸時代の参勤交代で栄えていましたが、明治に入り参勤交代がなくなり一気にすたれました。

明治19年に宣教師ACショーが、布教活動の途中で軽井沢に立ち寄り、自然豊かな高原の気候を気に入り、多くの宣教師たちにその魅力を伝えた。その後外国人宣教師たちが多数訪れ別荘を構え、同時に万平ホテル、旧三笠ホテルなど本格的西洋建築のホテルの開業、日本の政財界の方々の別荘の建築などを通じ、サロン文化・別荘文化が定着、多様な人たちが軽井沢で交流をするといったライフスタイルが根付いていきました。

また明治・大正時代にかけ、偉大な開拓者が当時荒地で森がなかった軽井沢を開拓して、現在の自然豊かな軽井沢の礎を築き、高級リゾート地と言われている現在の軽井沢が形成されました。開拓の歴史的ポイントをお話頂けますでしょうか?

土屋芳春(以下、土屋):軽井沢の歴史で重要な人物の一人は、生糸、製粉、鉄道会社事業を興し、その規模の大きさとアイデアで実業界を牽引した雨宮敬次郎です。彼は肺病を病み転地療養のため軽井沢を訪れ、1883年(明治16年)には300万坪にも及ぶ土地を購入し、その目的は米国的な農場経営で、ワイン用ブドウ栽培、家畜育成などを試みでした。しかし地理的条件の研究不足などから失敗に終わります。

その後植林事業に転換し、大正期には700万本にも及ぶ広大な森林景観を誕生させました。草原の大地は森林に変貌し、その風景に感銘を受けた北原白秋をはじめとする文学者たちは多くの名作に残しています。このことからも雨宮敬次郎は絶大な功績を残したと評価できるでしょう。

鈴木:雨宮敬次郎は、最初ドイツからブドウの苗木を取り寄せてブドウ栽培を始め、夏は育ったが冬の寒さで皆枯れてしまった。翌年はアメリカ品種の「イサベラコンコルド」なら寒さに強いだろうとの考えで植えたが、3年位ですべて枯れてしまったと軽井沢の歴史本で読んだことが有ります。

そのような先人の苦労があって、今の千曲川ワインバレーの繁栄につながっているという意味でも、雨宮敬次郎は大変大きな成果を残された方なんですね。それにしても明治時代、現在の軽井沢駅周辺から旧軽井沢周辺が牧場やワイナリーだったなんて、今からは全く想像は出来ませんね。とてもロマンがあって面白いと思います。

明治中期、宣教師は軽井沢の発展に大いに寄与したと思いますが、そのあたりのお話をお願いいたします。

土屋:軽井沢の歴史を語るうえで最も知られている転機は、1886年(明治19年)に来軽した、宣教師A.C.ショーで、軽井沢の恩父とも称賛されています。ここから軽井沢が避暑地・近代リゾート地としての新しいスタートが切られました。

当時の東京の湿度やインフラの未整備による匂い等に悩んでいた彼は、布教の途中に立ち寄った軽井沢の自然、景色、気候に魅了され、「屋根のない病院」と称し、二年後、別荘第一号を建て、併せて軽井沢を布教の拠点とするために1895年(明治28年)には軽井沢初の教会、「ショー記念礼拝堂」を建てました。

その後、知人・友人にその軽井沢の素晴らしい環境を紹介したため、外国人中心の別荘が立ち並んでいきます。明治政府も西洋に習い「静養」の概念を取り入れたため、国の重鎮や文化人等も追随したことから軽井沢は和洋交わる文化村として確立して行きました。

鈴木:日本人で初めて軽井沢に別荘を建てた人はどなたですか?

土屋:明治26年八田裕二郎(福井県福井市出身、英国グリニッジ海軍大学卒、元海軍大佐、元衆議院議員、一般財団法人軽井沢会の前身である軽井沢避暑団初代理事)です。彼は旧海軍大佐として海外へ派遣され生活と文化を学びましたが、日本社会との違いを感じ心身の療養のため現安中市の霧積温泉に滞在します。

その際、峠の先にある外国人の多い軽井沢を気に入り、高原の気候を楽しみました。一方、彼は政財界の重鎮にも知己が多く、軽井沢に別荘を持つよう勧めたようです。明治から大正時代にかけ、現在の軽井沢の秩序ある生活の基礎をつくった歴史上重要な方です。

現在八田別荘は、八田家から軽井沢町の所有となり、旧軽井沢の軽井沢会テニスコートの近くに現存、大切に維持管理されています。

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旧軽井沢に現存する八田別荘(夏には一般公開されている)

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旧軽井沢三笠に現存する田辺別荘(あめりか屋が建築)。今でも旧軽井沢エリアには、大正時代に建てられたあめりか屋による西洋建築の別荘が点在している。

鈴木:軽井沢にはかつて危機の時期があったと聞いていますが。

土屋:あまり一般には知られてませんが、戦後1953年に米軍の演習地を浅間山山麓につくる計画が持ち上がり、理想郷からの変容、浅間山火山活動への影響、軽井沢国際親善文化観光都市建設法との相違性などの懸念から、別荘民含め官民挙げて大規模な反対運動を展開し、計画を中止させたという歴史もあります。

鈴木:軽井沢は良くブランド力があると言われてます。軽井沢が今日のブランドを築き上げた歴史的経緯をお話頂けますでしょうか?

土屋:軽井沢は宣教師により近代リゾートの基礎がつくられたことからキリスト教的風潮が浸透し、教会も20以上存在します。初期の別荘は、清貧な生活を過ごすため自然保護と景観を一義と考え、別荘は目立たない簡素なバンガロースタイルが一般的でした。

その後、皇族・華族、政治、経済、文化人等の別荘が増え、中には荘厳な別荘も建ち、三笠ホテルや万平ホテルのような社交会向けの施設も建ってきます。しかし、皆一様に永遠に明るく清潔で住みよい場所、つまり避暑地・別荘地の理想像を描き、住民とともに厳格なルールをつくります。

今日、軽井沢ブランドを形成する要因として、東京から北陸新幹線で最短62分という交通利便性もさることながら、雄大な自然とウェルネス気候、伝統・歴史、国際性、落ち着き・気品、サロン文化などがあり、それが相まって、あこがれ感や静謐で清潔、安全で安心な特別な「まち」として認知が深まったと考えます。

「軽井沢町民憲章(町是)」は「国際親善文化観光都市」にふさわしい緑豊かな町で、世界に誇る清らかな環境と風俗を守り、来訪する方々を心あたたかく迎える、と宣言しています。今日では、主にサービス業が支えてきたまちであることから、上質なサービスとホスピタリティーが全域で醸成されています。

つまり、今日の軽井沢ブランドは、別荘民、住民、行政の共有するコンセンサスから生まれた理想郷と言えます。

鈴木:軽井沢のブランドは、先人たちの知恵と苦労によって、大切に守られて来たからこそ今の軽井沢の確固たる地位があるんだと思います。

最近の軽井沢の移住者、別荘所有者などのライススタイルから、将来の別荘での過ごし方はどのようになっていくとお考えでしょうか?

土屋:よく国内の他別荘地との比較を問われますが、箱根は商談や接待向きの比較的閉鎖された迎賓館的重厚感ある別荘を想像します。一方、軽井沢は条例により敷地面積が広く開放的で、自然と同化した環境があります。また、滞在中に隣人たちと接する時間にコミュニティやクラブが成立していきます。

現在、町内には別荘団体が一般財団法人軽井沢会はじめ5団体がありますが、他にも学閥系や小規模の地域系コミュニティが多数あり、特に夏季には交歓会・文化イベント・勉強会などが盛んにおこなわれています。

今日の国際会議都市を目指している軽井沢の背景には、この空間、時間、仲間が揃い、現代ではイノベーションやインキュベーションの創出にもつながる人が交わる環境が整っています。今後ますます知のコミュニケーションが活発になると思っております。

鈴木:軽井沢には地元の方々、別荘所有者、移住者、二拠点居住者など様々な方が住んでます。地元の方から見て、外から来られた方をどのような感じで見られていますか?

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出典:長崎大学付属図書館。明治初期の軽井沢。現プリンスショッピングプラザと旧中山道(現国道18号、現軽井沢駅周辺)から旧軽井沢越しに離山と浅間山を臨む。木はほとんどなく荒地だった。開拓者雨宮敬次郎はここにワイナリーと牧場をつくった。雨宮敬次郎がカラマツを植栽したのは明治16年以降と言われている。

土屋:軽井沢は、外から来たパイオニアたちによって国際的な避暑地として発展した歴史があります、彼らのアイデアや技術は、食や産業や生活に様々な影響を与えています。

高原野菜の栽培は浅間高原の清涼な気候や風土がマッチし、それまでヒエ、アワなどの雑穀類しか生産出来なかった農業から転換させ、今では軽井沢野菜の独特な風味と品質はブランドと化しています。また、西洋人からジャムやパンの製造も伝授されたため、軽井沢にはそれに類する店舗も多数あります。

このように住民は、宿場の歴史から交流人口や関係人口を積極的に求める潜在意識があり、異文化を含め新たなものを吸収する好奇心と探求心の土壌が自然と根付いていたのです。

重要戦略は、心身ともに美しい、健康的なリゾートスタイルの提供

鈴木:外から来た方々を温かく迎え入れ、お互いに吸収しあいながら成長していく風土、そこが軽井沢の魅力の素晴らしさですね。

軽井沢に来ると体調がよくなったとか、アレルギーが少なくなったとかよく聞きますが、そのあたりウェルネス的視点から軽井沢の魅力をお話頂けますか?

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軽井沢駅北口の矢ケ崎公園から浅間山を臨む(手前は離山)。離山は軽井沢駅からも近いので、年間を通じて駅からウオーキングで訪れる人が多い。

土屋:人が軽井沢を目指す理由の中にウェルネス気候が寄与し、避暑地、別荘地としての価値も高めたと考えています。成熟社会では物欲より豊かな生活や健康への志向が強まります。健康で長寿は人類共通の願いであり、質の高い生活スタイルを欲する人々の意識に合致します。

近年ではテクノロジーの発達や企業の参入と同時に自己管理能力と意識向上もあり、コロナ禍の生活スタイルで盛んに語られているニューノーマルは、ウェルネス・免疫力強化志向においても適用されると思います。

軽井沢は、高原であったことから1924年(大正13年)にサナトリウムが誕生します。当時は結核療養を目的の一つとしていましたが、今日では健康全体の改善効果にも寄与した場所であったとの評価もみられます。

「屋根のない病院」と先人が称えた軽井沢の気候・風土の感覚は、現在様々な研究者により科学的に解き明かされつつあります。ヘルスとウェルネスの概念も分かれ、ヘルスは医療的判断による心身の病気の改善。ウェルネスは健康に配慮する行動により、心身や精神に良好な健康状態を得る最善の健康、と主張されている方も多くいます。

軽井沢の気候効果は、体力の向上と免疫システムの改善、母体の同等圧力による精神安定や快眠、アレルゲンの低下、身体保護、有酸素運動による心肺機能強化、代謝活発化を促し、低地の首都圏からの来訪者が1000mの高原へ転地することは、気候効果の倍増と疲労感や解放感の改善、五感を研ぎ澄ます効果があります。

また、同様の準高地との違いは、気候がぶつかる霧下気候、山林・原野率、多樹種であり三大野鳥宝庫のような多様な生態系や美観形成などが、ウェルネス・リゾートとしてのクオリティーを高めてると考えられています。

この気候効果は各地でも多くの専門家により研究されていますが、軽井沢についてもウェルネス効果の研究を進めるため、研究機関や企業、学術機関と連携を深め、軽井沢の資源や環境を生かした健康の科学的研究法と実践を通し成果を導きだして行こうとしています。

特に、「信州大学社会基盤研究センター、東京大学先端科学技術研究センター、軽井沢町プロジェクト」がAIやITを活用し新たなイノベーションを起こす研究を始めました。今後の連携は欠かせません。

いずれにしても、軽井沢観光協会は今日のリゾート成立の根底に「ウェルネス環境」が寄与していることを第一に考え、「心身ともに美しい、健康的なリゾートスタイルを提供する」として、ウェルネス・リゾート推進戦略を掲げています。

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旧軽井沢ロータリー。多くの観光客が訪れる場所。ここから旧軽井沢愛宕・三笠別荘エリア、白糸の滝方面と、旧軽井沢銀座通りを経て見晴台(碓氷峠)に分かれる。

量より質を高める軽井沢の観光戦略

鈴木:最後に年間860万人もの観光客が訪れる軽井沢の観光戦略をお聞かせいただけますか?

土屋:軽井沢の観光を区分けすると、一般観光、目的観光、スポーツ、文化・芸術、ビジネスを目的に来軽していることがわかります。観光協会ではそれらのニーズに合わせ様々なアプローチをしていますが、ウェルネス環境と軽井沢ブランドの上質感を念頭に、選ばれるサスティナブルなリゾートとしての価値を発信してまいります。

鈴木:軽井沢の観光戦略の課題は何かありますか?

土屋:国内外対象の長期滞在型リゾート地にふさわしい魅力・再訪したくなる魅力の創出、観光客・別荘所有者などのデータ分析、軽井沢をゲートウェイとした広域観光連携、GWや夏季・連休に集中する渋滞や季節の平準化は大きな課題です。軽井沢はダボス、アスペンを合言葉に世界に通じる高級リゾート、ナレッジ・ハブを目指してまいります。

インタビューを通じて

土屋会長と初めてお会いしたのは、今から20年位前にさかのぼります。当時土屋会長は軽井沢町議会議員をされておりました。以来軽井沢の将来を一番多く語り合っている間柄です。軽井沢を心から愛し、幅広いアンテナを張り常に新しい情報を受け入れて、軽井沢を世界に通じる長期滞在型ウェルネス・リゾートにすべく日々ご活躍されています。現在は、軽井沢の数多くの団体、委員会のトップを務められてます。

特に、2018年7月には軽井沢リゾートテレワーク協会を設立され、会長として軽井沢リゾートテレワークの黎明期から啓発活動にご尽力されてこられました。結果、この2年間で軽井沢ではコワーキングスペース、サテライトオフィス、オンライン会議専用の貸切スペースなど20か所以上ものワークスペースのオープンに至りました。

古き良き時代の軽井沢を知り尽くされ、軽井沢の将来を見据えて常に活動されており、まさに「軽井沢のイノベーター」と言っても全く過言ではありません。

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軽井沢のワークスペース一覧。軽井沢駅、中軽井沢駅周辺を中心に、様々なタイプのワークスペースが町内に点在している。

土屋芳春◎1956年軽井沢生まれ、日本大学文理学部卒、軽井沢青年会議所・理事長、日本青年会議所・芸術部会長等を経て、軽井沢町教育委員、軽井沢町議会議員を歴任。現在、軽井沢観光協会長、軽井沢リゾート会議都市推進協議会長、軽井沢リゾートテレワーク協会長、軽井沢ウェディング協会代表と共に、ミュージアムパーク「ムーゼの森(軽井沢絵本の森美術館・エルツおもちゃ博物館)」代表(館長)を務める。

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