自衛隊の前身「警察予備隊」の創設から70年...その知られざる誕生秘話

自衛隊の前身「警察予備隊」の創設から70年...その知られざる誕生秘話

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/08/01
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今年は終戦75年だが、自衛隊の前身のひとつである警察予備隊の創設から70年の節目でもある。警察予備隊は、1950年8月10日に発足し、12月29日に編成を完了した。

よく知られるように、その直接的な契機は朝鮮戦争だった。マッカーサーはその勃発を受けて、7月8日、「日本政府に対し、75000人の国家警察予備隊の創設と海上保安庁定員の8000名増加に必要な措置をとることを許可する」(大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集』より。引用にあたっては一部表記を改めた。以下同じ)との書簡を吉田茂首相に出したのである。事実上の指令だった。

軍隊の復活なのか? 憲法9条との兼ね合いは? そのような問題を脇において、警察予備隊の編成は超特急で進められた。そのため、現在の秩序だった自衛隊からは想像もできないほど、さまざまな混乱や問題が立て続けに起こることになった。

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警察予備隊の朝礼(毎日新聞社「サン写真新聞(1950年8月26日版)」)

大尉→中将級→大尉…役職が激しく乱高下

警察予備隊の編成は当初、旧軍の幹部を排除して行われた。背広組トップの増原恵吉長官も、制服組トップの林敬三総隊総監も、元内務官僚だった。そのため、上級指揮官の不足が悩みのタネだった。

NHKの記者を辞めて入隊した坂本力という人物は、東大卒で、戦時中に見習士官だったことを買われてか、いきなり一等警察士(大尉)に。しかも、中間司令部A司令官にも任命された。これは、現在の北部方面総監にあたる、中将級のポストであった。

詳しくない人のために書いておくと、将校クラスはおおむねつぎの順で偉くなっていく。

少尉<中尉<大尉<少佐<中佐<大佐<少将<中将<大将

坂本はいきなり下から3番目の階級に任命されただけではなく、さらにその5つ上の階級に相当する職務を任されたということになる。

もっとも、このような状態は長く続かなかった。新しい指揮官がやってくると、つぎつぎに「格下げ」を食らったという。

「それから1ヶ月ぐらいしたら正式な司令官が任命されてきて私は師団長に、4日ほどするとまた正式な師団長が来て連隊長に格下げ。そこで部隊移駐の命令で12月初めに約1000人の連隊を連れて宇都宮へ行った。そこへ本物の連隊長が赴任してきて、私は連隊の情報幕僚に。その連隊長と顔を合わせたら、私を追い出した仙台の師団長。彼も正式ではなかった。

とにかく一夜にしてなった中将から元の一尉(引用者注、大尉)に下がるまで約3ヶ月、その後、一尉から陸将(中将)になるまで25年かかった」(読売新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』)

このような役職の乱高下は、まさに草創期ならでは。今後、お目にかかることはないだろう。

そんな坂本力も、本人の言うとおり陸将まで昇進。第9師団長、陸上自衛隊幹部学校長などを務めて退官した。

余談ながら、坂本は、こんなエピソードも残しているので紹介しておこう。タイの駐在武官を務めたときのこと。そこに明仁皇太子(現・上皇)が親善訪問でやってきた。皇太子は色黒の坂本を見つけて、「あの色の黒い日本語のうまい人はダレ」と言ったという(篠原宏「官界人脈地理 防衛庁の巻」『月刊官界』1975年12月号)。

号令は「みなさん、前へ進みましょう」?

閑話休題。警察予備隊の訓練は、米軍の軍事顧問団によって行われた。そのため、敬礼の仕方ひとつ取っても米軍式となった。

すなわち、旧軍では、屋内の脱帽時、お辞儀をしたが、警察予備隊では、帽子のあるなしにかかわらず、挙手の礼となったのである(この方式は、保安隊の発足時に、旧軍式に改められ、現在に継承されている)。

実力組織に欠かせない号令もその例に漏れなかったが、なにせ米軍の教範を急いで訳したものだから、珍訳のオンパレードだった。

たとえば、右に頭を向けよという「eyes, right!」。日本語ならば「頭、右!」だが、それを「まなこ、右!」と直訳。その結果、号令された隊員たちは、目の玉だけギョロッと右側に流し目してしまったという。これには敬礼を受けるものもびっくり。

それ以外にも「斜めに右向け前へ進め」が「縦隊半ば右に傾いて進め」に。これには「モダンダンスの振付けではあるまいし……」と、前出の坂本も苦笑いした。

また、軍事に精通しない通訳が「前に進め!」を「みなさん、前へ進みましょう」と“民主的”に訳出。やむなく小隊長などが「前へ進め!」と再通訳する珍事も発生したという。

それなのに、物資のほうは米軍のように豊富とはいかなかった。「バケツもほうきもない、報告する用紙もない部隊が多かった。ほとんどそうであったろうと思います」と、総隊総監を務めた林敬三は振り返っている。

「そうすると隊員がみんなで10円とか20円とそのつど出しあってバケツを買い、ほうきを買い、報告する用紙をとじるんですね。そういう点はまたいいところがありましたね。私はよく忍んで実行してくれたと思います」(「警察予備隊創設の思い出」『自衛隊十年史』)。

このような警察予備隊も、組織の拡大にともなって、旧軍の幹部を徐々に採用するようになり、実力組織としての体裁を整えていったのである。

「愛国心、愛民族心」を根本精神に定める

総隊総監の林敬三が心を砕いたのは、物質面だけにとどまらなかった。

旧軍の「軍人勅諭」にも、「其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし」とある。表向き軍隊ではないとはいえ、実力組織たるもの、精神的な支柱がなくてはいざというとき役に立たない。といっても、旧軍のように天皇というわけにはいかない。では、警察予備隊ではそれを何に求めるべきか――。

林は、父親が陸軍中将まで進んだ高級将校だったこともあり、この問題に熱心に取り組んだ。そしてたどりついたのが、「愛国心、愛民族心」だった。

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〔PHOTO〕iStock

1950年10月に行われた訓示には、林の問題意識が端的にあらわれている。

「第一に新しい日本に新しく生れた警察予備隊は、その根本的理念を何に求めるか。私はこれを愛国心、愛民族心に求めたい。平易に言えば、われわれの父母、兄弟、姉妹、妻子、この人たちが平和に生活し、成長して行くことを同胞として願う同胞愛の精神に求めたい。今やわが国は国際的にまた国内的に波乱万丈の中にある。この間に処して国内の平和と秩序の維持なくしては、決してその上に政治・経済・文化の発展も見られず、国家の再建もこれを望むことはできない。国民の平和な生活、正しい秩序の維持こそ、国家再建の最も重要な基ソというべきだろう」(「総監就任に際しての訓話」『戦後日本防衛問題資料集』)

「なにを当たり前のことを」と思うかもしれない。だが、「天皇を前面に出さない愛国心」は、当時きわめて新しいものだった。

それと同時に林は、国民に愛される存在であれとも説いた。同年12月には、江田島幹部教育学校の第1回卒業生を前に、つぎのように具体的に述べている。

「乗物の乗降は老幼婦女子に先を譲れ。雨のときは、濡れた合羽は裏返しにたたんで乗りたまえ。もし山中に潜んでなお戦わなければならなくなったとき、辺地の老婆が一掬の水を汲んでくれ、近道を教えてくれるようでなければならない。郷里に戻ったとき、道にくぼみを見つければ、ショベルをふるってふさげ。どんなささいなことでも、国民と心が通うことなら、怠ってはならない」(村上薫『防衛庁』)

「国民に愛される存在であれ」。このような訓示も今では珍しくない。ただ、それまでは「天皇の軍隊」というだけで、どんな高圧的な態度を取っても「天皇の臣民」は協力してくれたし、協力せざるをえなかった。それに比べ、「国民の警察予備隊」は、思考の大転換だったのである。

今後は「神代時代」にも注目を

警察予備隊は、1952年保安隊に改編され、1954年陸上自衛隊となった。

昭和の間は、違憲だとしてさんざん批判された自衛隊も、平成に入ると、災害派遣などを通じて、国民からの絶大な支持を集める存在になった。まさに日本の実力組織は、「天皇の軍隊」から「国民の自衛隊」へみごと転換を遂げたのである。

その結節点にあったものこそ、ほかならぬ警察予備隊であった。同隊のOBは、その草創期を冗談めかして「神代時代」と呼ぶ。たしかにその時代はいまだ混沌としていて、未解明の部分も多い。戦後75年。いつものように旧軍の歴史に関心高まるが、今後はこの「神代時代」にもますます注目が集まりそうである。

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