「生き延びるために心を殺す」を伝える『FUNAN フナン』の力。現実を扱うアニメーションは<物語化>と戦っている

「生き延びるために心を殺す」を伝える『FUNAN フナン』の力。現実を扱うアニメーションは<物語化>と戦っている

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  • 更新日:2021/01/14
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現実を扱ったアニメーションを観るときに意識したいことがある。クメール・ルージュ支配下のカンボジアを描いた傑作『FUNAN フナン』を端緒に、アニメ評論家・藤津亮太が考える。

圧政に翻弄される個人

新型コロナウイルス感染症の流行が第3波を迎え、緊急事態宣言が再び発出された。未曾有の感染症流行により世界が混沌としていくこの時代は、のちにどのように語られるのか。それは誰からの視点で、どのように語られるのか。そんなことを考えながら1本の映画を観た。

現在公開中の『FUNAN フナン』は、1970年代後半のクメール・ルージュ支配下のカンボジアを描いた長編アニメーションだ。昨年のアヌシー国際アニメーション映画祭でグランプリを獲得。監督・脚本のドゥニ・ドーは、カンボジアにルーツを持つフランス人。ドー監督は、その時代のカンボジアに生きた自分の母に取材し、その壮絶な体験に基づいて映画を制作したという。10年ほど前から、アニメーションによるドキュメンタリーが注目を集めている。本作は純然たるアニメーション・ドキュメンタリーではないが、取り上げられている題材やアプローチは、ドキュメンタリーにかなり接近している。

12月25日(金)公開『FUNAN フナン』予告編

発端は1975年のこと。ポル・ポト率いるクメール・ルージュが首都プノンペンを制圧し権力を掌握したのだ。クメール・ルージュは、原始共産主義に基づいた過激な思想を持っており、知識階級や都市住民を敵視。都市住民に私有財産を放棄させ、農村に移住させて過酷な労働に従事させた。その後、クメール・ルージュはさらに過激化し、理不尽な理由でさまざまな人々が虐殺されるようになる。1979年に政権は崩壊するが、医療などの社会的インフラの崩壊と大量粛清により170万人以上が犠牲になったといわれる。

プノンペンに住むクンとチョウの夫婦には、ソヴァンという息子がいた。クメール・ルージュにより農村へと歩いて移動する間にソヴァンははぐれてしまう。クンとチョウはそのままクメール・ルージュの監視下で農村で強制的に労働をさせられることになる。このチョウがドー監督の母をモデルにしたキャラクターで、その息子ソヴァンはドー監督の兄に当たるという。

ドー監督とアートディレクターのミッシェル・クルーザは共に、パリにある世界有数のアニメーションスクールであるゴブラン・レコール・デュ・リマージュの出身。ドーはレミ・シャイエ監督の『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』『カラミティ』に主要スタッフとして参加しており、クルーザも『アヴリルと奇妙な世界』などで腕を振るったアニメーターである。だから本作はアニメーションとして非常に丁寧でき上がっている。シンプルな線で描かれたキャラクターは、表情が的確で、目の動きなどの小さな動きから「生き延びるために心を殺していること」や「ささやかな出来事に喜びを感じていること」などが的確に伝わってくる。また巧みな編集で、虐殺などを直接的には描かないものの、強く心に残るかたちで描いているところも見事だ。

『FUNAN』のポイントは、物語は基本的にチョウの状況を追っているという点だ。カットバックではぐれたソヴァンの様子はインサートされるが、クメール・ルージュの政治思想や政治的な大状況などは一切語られない。その代わりフォーカスされるのは極限状態の中で浮かび上がる人間の弱さ。

チョウは自分と子供を引き裂いたクメール・ルージュを許していない。夫クンが、井戸に落ちたクメール・ルージュの娘を助けたことにも怒り、仲違いをしてしまう。また厳しい強制労働のなか、生きるために“女”を使う者が現れ、それを見たチョウの母は、チョウの妹リリーに同じことを求める。そんななかで命をつないでいくには、心を殺していくしかない。しかしそれでも涙は流れるのだ。

カンボジアやクメール・ルージュといった固有名詞を追いかけるのではなく、極限状態で生きる個人を丹念に描いたのは、より普遍的なテーマに迫ろうというドー監督の狙いでもあろう。

「視点」と「語り」の問題

『FUNAN』がコントロールの効いた力作であることは間違いないが、実際に起きた出来事を個人の視点だけで語ることに限界があるということも事実だ。そもそも映画という時間がリニアに進行するメディアでは体験の“物語化”も避けられない。『FUNAN』は安易な物語化を避けるためであろう、非常に抑制された語り口で進行するが、しかしそれでもある程度“整理”されているのは間違いない。

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『FUNAN フナン』公開中

福間良明の『「反戦」のメディア史 戦後日本における世論と輿論の拮抗』(世界思想社)を読むと、戦争体験を記録に残し、伝えていく過程で、やはり「視点」と「語り」の問題が浮上していることがわかる。

同書はひめゆり学徒隊の手記を集めた『沖縄の悲劇』を編んだ仲宗根政善や、『きけ わだつみのこえ─日本戦没学生の手記』を論じた安田武を例に挙げてこのように語っている。

仲宗根政善が『沖縄の悲劇』を編む中で強く意識していたのは、戦場体験の多様性・錯綜性であった。同じ戦場、同じ壕にいたとしても、その極限状態では個々人によって体験は異なる。なおかつ、それは当人のなかでさえ、何か一貫した流れを持つものではなく、断片的に切断されたものの集合でしかなかった。(略)安田はその『戦争体験への固執』を戦後派・戦無派から批判されながらも、頑なにそのスタイルを守り、戦争体験の語りがたさやその心情の複雑さを語ろうとした。(略) 仲宗根や安田が『語りがたさ』に固執するなかで抱いていたのは、戦争体験がわかりやすい物語に回収されることへの拒否感であった。

『「反戦」のメディア史 戦後日本における世論と輿論の拮抗』福間良明/世界思想社

同書はこのあと、映画『ひめゆりの塔』の第1作〜第3作では劇映画という範疇の中ではあるが、戦場の多様性・錯綜性を描こうと試みていたことに触れている。

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『「反戦」のメディア史 戦後日本における世論と輿論の拮抗』福間良明/世界思想社

『この世界の片隅に』と『戦争は女の顔をしていない』

ここでふたつの作品が思い出される。

ひとつは太平洋戦争末期の広島・呉の生活を描いた『この世界の片隅に』が、より長尺の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(片渕須直監督)として新たに公開されたという例だ。ここでは原作の未アニメ化エピソードが加えられただけでなく、サブキャラクターの点描を増やすことで、(原作から逸脱しない範囲で)人の多様性を浮かび上がらせようと試みていたということだ。もちろん『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』はストーリーを軸にした劇映画だが、タイトルに見られるように細部ではそうした挑戦が行われているのだ。

映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』予告編

もうひとつは、コミカライズも話題を呼んだ『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)だ。これは第二次世界大戦でソ連軍に従軍した500人以上の女性から聞き取りを行ったインタビュー集で、長さもまちまちな断章からできている。本書では仲宗根と同じく「戦争体験の多様性・錯綜性とその語りがたさ」がとても大切なものとして扱われている。

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『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著、三浦みどり 訳/岩波書店

この2作を念頭に置くと『FUNAN』を観るときは、実直な語りの映像の向こうをもっと想像しなくてはならないうように思われる。息子への思い。夫への信頼と怒り。そういった言葉にまとめられる前の、チョウの錯綜する心情。あるいは、目隠しをしてフレームの外に連れ出されていった“死者”たちはどのような人だったのだろうかという多様性。そういったものを想像し、場合によっては調べていくことで『FUNAN』という作品はもっと生きてくるはずだ。

『戦場でワルツを』と『トゥルーノース』

『FUNAN』でこうしたドキュメンタリー色の濃いアニメ映画に興味を持った人に薦めたいアニメ映画が2本ある。

ひとつは『戦場でワルツを』(アリ・フォルマン監督)。これは1982年のレバノン内戦に従軍したときの自身の記憶を探るフォルマン自身を描いた作品で、純然たるアニメーション・ドキュメンタリーだ。ここで重要なのはフォルマン自身が、パレスチナ難民が襲われた「サブラ・シャティーラの虐殺」と接点を持つ“加害者”の側であるという点だ。フォルマンが自分の記憶を探る過程で、兵役時代の仲間と会話を重ねていくが、そこには間違いなく「戦争体験の多様性・錯綜性とその語りがたさ」が記されている。

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『戦場でワルツを』DVD/ワーナー・ホーム・ビデオ

もうひとつは本年公開予定の『トゥルーノース』(清水ハン栄治監督)。これは脱北者などに取材を重ねて制作された、北朝鮮収容所の様子を描いたアニメーション映画だ。取材をもとに制作されている点、圧政とその被害者を描くという点で『FUNAN』と雰囲気も近い。ただ架空の人物を主人公にしたフィクションである本作は、逆に物語に「語り手」を設定し、あえてこれが“ストーリー”であるというかたちで、取材から浮かび上がった事実を伝えようとしている。物語化することで「錯綜性や多様性」はこぼれ落ちるが、一方で、観客に問いかける力は強くなる。本作は、「ストーリー」のかたちに落とし込むことで主人公が綺麗事だけでは生きていけないと思うその心理を迫真性をもって描いているのだ。

清水ハン栄治(監督)『トゥルーノース』TIFFトークサロン|Guests: Eiji Han Shimizu ”True North” TIFFTalkSalon

「錯綜性・多様性ゆえの語りがたさ」と「物語化によって生まれる伝える力」。アニメーションで現実を扱った作品はいつも、このふたつの間で揺れ動くことになる。そこを意識して作品を観ると、よりさまざまなものが見えてくることになる。

2021年の今は戦場ではない。けれど間違いなく状況も人の心も錯綜しているし、状況をどう受け止めているかは、その人ごとにそれぞれだ。『FUNAN』を観ながら、今のこの時代は後年、どのように語られるのか、あるいはこの混沌は語り得ず、今生きている人間だけのものなのか。そんなことを考えた。

藤津亮太

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