岩手・山田湾の牡蠣がつなぐ シェフと漁師の10年の軌跡

岩手・山田湾の牡蠣がつなぐ シェフと漁師の10年の軌跡

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  • 更新日:2021/05/04
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自分の死亡の知らせが地元紙に載った──。嘘みたいな話だが、あのとき本当に死んでいてもおかしくなかった。あれから10年。岩手県盛岡市のイタリア料理店「山田いたりあん ロカーレ・アーシャ」のオーナーシェフ駒場利行さん(46歳)は、三陸の海の幸など地元の食材を生かして腕をふるっている。

店は県庁のすぐそばにあり、県職員やマスコミ関係者にもファンが多い。店名の「山田いたりあん」は、岩手沿岸の山田町からとった。店の看板メニューは山田の牡蠣を使ったクリームパスタ。多い日はランチで20皿以上が出る。

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「山田産カキのクリームパスタ」。山田町に店があった時から変わらない看板メニューだ

盛岡市出身の駒場さんは結婚後、妻の愛子さんの実家がある山田町に店を出した。そして山田湾の牡蠣に出会った。入り口がほぼ閉じている湖のような湾に、3本の川から雪解け水が流れ込む。透明度の高い山田湾で育った牡蠣は身がしまっていて、えぐみのないすっきりした味わいが特徴だ。

夏になると、ドラム缶で70度の湯を沸かし、牡蠣を五右衛門風呂に浸からせて、また海に戻す。そうすると、殻に栄養がとられず、身に栄養がいくという。駒場さんが使う牡蠣を生産しているのが、この道30年になる山田町の漁師、中村敏彦さん(49歳)だ。「美味しい牡蠣が育つかどうかは、漁師がいかになまけないか、出荷しない時期にどれだけ手をかけたかで決まる」と話す。

中村さんは「『今日はこれしかないよ』と不調の日があっても、アレンジして美味しく料理できるのは駒場さんが勉強熱心で腕も良いから」と語る。「中村さんをはじめ、山田町の漁師やお客さんたちに育てられた」と駒場さん。山田いたりあんは山田の人たちから愛され、常連客も増えていた。

静かな山田湾が姿を変えて町を襲った

そして、10年前の3月11日。新築した店の移転工事が完了したその日に、店ごと津波に押し流された。店は、海から50メートルの場所にあった。駒場さんは水にのまれ、2階のベランダにはい上がったところで気を失った。

意識を取り戻したときには夜になっていた。町が燃えていた。店の隣にあった銀行の支店長に助けられ、別の町の病院に入院した。肋骨が4本折れていた。地元の新聞には自分の死亡の知らせが載っていた。4日後のオープンに向けて、一緒に準備していた妻の愛子さんは、行方がわからなかった。

3月も下旬になってから、愛子さんの遺体が見つかった。まだ30歳だった。小学生と保育園の娘たちの成長を楽しみにしていた。駒場さんは「どこかで無事に生きていると信じていた幼い娘二人に伝えるのが、何よりもつらかった」と振り返る。

一方、あの日、漁師の中村さんは山田湾の真ん中で「明神丸」に乗っていた。「ドドドド……という音がしたので、エンジンの故障かと思ってエンジンを切ったら、海が鳴っていた」。船上から、消防団員が水門を閉めるようすが見えた。陸に戻ろうと思ったが、引き波で底が浅くなっていた。

山田湾の中にあった4000台の牡蠣棚のいかだはすべて流され、壊滅した。船の上から、ただ見つめることしかできなかった。いかだを避けるように船を操縦して、次の日に陸に上がると、自宅は流されていた。

震災から半年後、常連客の言葉で再スタートを決意

店と自宅が流され、妻も失ったシェフの駒場さんは盛岡の実家で、何も手につかない状態で日々を過ごしていた。震災から半年後、シェフ仲間に誘われて、避難所の炊き出しのボランティアで山田町に戻った。そこで、料理を通じて人を笑顔にできる喜びを思い出した。再会した山田町の常連客たちは、口々にこんな言葉をかけてくれた。「店はいつ再開するのか」「またパスタが食べたい」。

震災から1年後、駒場さんは盛岡市内にいまの店をオープンした。幼い娘二人のためには、実家がある盛岡に残ったほうがいいと判断した。ただ、山田から盛岡に移転しても店の名前には、やはり「山田いたりあん」とつけた。物件は常連客が見つけてくれ、イスやテーブル、調理器具はシェフ仲間や支援団体が届けてくれた。

さらに、その年の夏には、山田町の駅近くにも仮設店舗をオープンした。山田町と盛岡市を行き来しながら、必死で働いた。

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震災後、盛岡市に店をオープンした駒場さん。新たな店でも山田産の牡蠣を使った料理は変わらず人気だ

津波で流された4000台の牡蠣棚 山田湾・復活への道

4000台の牡蠣棚が津波で流された山田湾。漁師の中村さんは「震災から3カ月ぐらいたってから、仲間とともに漁港を掃除したり、使える道具を拾い集めたりするところから始めた」と振り返る。震災をきっかけに、漁業をやめた人も少なくなかった。

再び牡蠣を出荷できるようになるまでには3年を要した。だが、その頃には販路はすでに別の地域の牡蠣に奪われていた。山田湾で牡蠣がとれなくなっても、築地市場は、全国どこからでも牡蠣をもってくることができた。いまでも、震災前の販路を取り戻せたケースは少ないという。

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牡蠣棚を回り、いかだに乗り移って、牡蠣の育ち具合を確認する

山田の牡蠣の復活より一足先に店を再開していた駒場さんは、再び中村さんの牡蠣を使ったクリームパスタを出し始めた。山田町に店があったときからの看板メニューだ。駒場さんは「できるだけ、山田町のものを使いたい。自分は山田町出身だと思っている」と話す。

震災から10年。4000台あった牡蠣棚は壊滅したが、2200台まで戻した。「10年以上前は岩手の人でも『山田町ってどこにあるの?』というかんじだった」というが、いまでは牡蠣を食べるために山田町を訪れる人も増えた。中村さんは「駒場さんは山田町の観光大使みたいなもの」と笑う。

コロナ禍で、首都圏の飲食店からの牡蠣の注文はストップしたが、全国の個人のファンから取り寄せの注文が増えているという。牡蠣鍋などで冬のイメージがある牡蠣だが、山田湾の牡蠣は春がもっとも美味しい。

今年1月には弟子もできた。滋賀県出身の中島崇さん(47歳)。地域おこし協力隊として山田町に来ていたが、山田湾の牡蠣に魅了された。中村さんとともに毎朝、「明神丸」に乗り込み、牡蠣棚を回る。

「山田の牡蠣に惚れましたね。自然相手の仕事は大変だけど、海の上で仕事するのは気持ちがいい」。中村さんは「師匠」と呼ばれると照れくさそうだが、2歳下の弟子とは船上でも陸でも良いコンビだ。

一方の駒場さんは今夏、岩手県葛巻町にある道の駅の中に、新たに別の店をオープンさせる。震災後、「食の力で岩手に貢献したい」と、食育の授業や、洋風の災害食の作り方の指導に取り組んできた。葛巻町の中学校で出張授業をした縁で、役場から「道の駅に店を出してもらえないか」と声がかかった。駒場さんは「新しい店でも、山田産の牡蠣を使ったメニューを楽しんでもらいたい」と話す。

支えてくれるパートナーもできた。震災後に出会った幸枝さん。夫と死別し、二人の息子がいるという境遇も似ていた。幸枝さんは店で接客に立ち、お客さんからも愛されている。

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駒場さん(左)と幸枝さん(右)二人の小さなイタリア料理店の前で

休みの日は、幸枝さんも常連客とともに、駒場さんが企画する「大人の遠足」に出る。岩手県内の生産者のもとを訪ね、食材やワインの勉強を重ねている。「生産者のみなさんから直接、話を聞いて学ぶと、自信を持ってお客さんに説明できるので楽しい」。みんなが1台に乗って遠足に行けるように、バスを運転できる免許をとろうとひそかにたくらんでいる。

10年前に店があった山田町の一帯は、今も更地のままだ。山田湾のほうを見て、駒場さんが「ワイン120本が詰まったワインセラーが2つ、海に沈んでいる。相当熟成されてるぞ」と言って笑った。

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震災後、山田湾にも巨大な防潮堤がそびえ立つ。まもなく海は見えなくなる

建物の3階ほどの高さがある巨大な防潮堤の建設が進み、まるで町と海は遮断されるかのようだ。漁師の中村さんは「たしかに町は津波から守られるのかもしれないが、海が遠くなったように感じる。海岸を散歩する年寄りや、海辺で遊ぶ子どもの姿が見られなくなった」と寂しそうに話す。

海が奪い去ったものは、あまりにも大きい。

だが、いまも海に生かされている。

これからもここで、海とともに生きていく。

岩手・山田湾の牡蠣は、この春もまた、旬を迎えている。

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春の山田湾を「明神丸」で進む中村さん(右)と弟子の中島さん(左)

連載:ポジティブ・ジャーナリズムの現場から

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