「日本のプロ格闘技の源流」を創ったプロモーター・野口修の壮絶人生

「日本のプロ格闘技の源流」を創ったプロモーター・野口修の壮絶人生

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/11/20
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「謎多きプロモーター」

「K-1の創始者である石井館長をして『この人がいなければ、K-1はなかったかもしれない』と言わしめた人物であり、あの五木ひろしを世に出した人物です。日本の格闘技の歴史に、そして芸能史に多大な功績を残したことは間違いないのに、どうして世間はこの人について何も知らないのか。それがもどかしかった。しかも、彼について詳しく書かれた本もない。

だったら自分が書くしかない――そう心に決めて、国会図書館に通って資料を集め、話をしてくれる人にとにかく会いに行きました。重要な証言者に会うために、タイまで取材にも行きました。気がついたら、取材開始から出版までに、10年が経っていました」

まさに圧巻、というほかない。二段組560ページの本書で描かれるのは、一人の男の生涯だ。老舗のボクシングジム「野口ジム」創始者・野口進の息子であり、キックボクシングの創始者にしてキックの鬼・沢村忠の生みの親、そして五木ひろしを世に送り出した男……。

いくつもの肩書を持つ「謎多き男」野口修の生涯を追ったのは、放送作家であり、長年格闘技の興行でリングアナウンサーを務める細田昌志氏。足しげく野口氏のもとに通い、話を聞き、事実関係の裏付けを確認するために資料を漁り、重要人物に会う――10年にも及ぶ気の遠くなるような取材を続け、『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝』を書き上げた。担当していた人気番組の構成の仕事も、この本を書くために、すべて辞めてしまったという。

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10月29日に発売されたばかりの新著

なぜ細田氏は野口修という男に魅せられ、彼の生涯を描くことにしたのか――。

フィクサー、米軍、元総理…

細田:野口修という人は、格闘技の世界でも知る人ぞ知る存在でした。三迫仁志(のちの三迫ジム会長)や金平正紀(のちの協栄ジム会長)を輩出した野口ジムの創始者・野口進の息子であり、キックボクシングという競技を作った人物であることは、一部の格闘技マニアには知られています。

「真空飛び膝蹴り」で知られる沢村忠を主人公にした梶原一騎原作の『キックの鬼』を読んだことのある人なら、作中に沢村のマネージャーとして登場するので、知っている人もいるでしょう。また、芸能に詳しい人なら、五木ひろしを世に出した人物として認識しているかもしれない。

これだけでも、野口修は昭和の格闘技史・芸能史に名を残すべき人物であることは間違いない。にもかかわらず、彼について書いている本や作品が、ほとんどない。端的にいえば、世の中にまったく伝わっていない。いったいなぜなのか。

私は過去に『サムライTV』(格闘技専門のCSチャンネル)のキャスターをやっていたし、キックボクシングの興行などでリングアナウンサーを務めていたので、彼のことは知ってはいた。それに、ある時期から後楽園ホールで野口さんの姿をよく見かけるようになった。そこから、その存在を強く意識するようになったんです。

そこで、いまから10年前の春のある日、後楽園ホールに来ていた野口さんに話しかけたんです。野口さんの人生を知りたい。最終的には本を書きたいと思っている。お話を聞かせていただけえませんか、と。

野口さんは快諾してくれました。いま考えると、自分に関心を持ってくれる人が現れるのを待っていたのかもしれません。それ以降、野口さんとたびたび会い、彼の人生を紐解いていくことにしたんです。

ところが――。激動の昭和を生き抜いた男の人生を追うのは、生半可なものではありませんでした。

戦後の日本そのものの人生

細田:本人が自分に都合の悪いことを話したがらない、という困難もあったのですが、それだけが理由ではありません。私が想像していた以上に、野口修という男は、あまりに多くの歴史を背負っていたのです。

彼の人生は、戦後の日本そのものでした。

戦前からの右翼、壮士に囲まれた特殊な家庭環境で育った。

戦後の高度経済成長期が始まろうとした頃、ボクシングプロモーターとして「国家行事」とも呼ばれた数々のタイトルマッチを手掛けた。

東京五輪を成功させ市場が活気付いた日本国内に、キックボクシングを立ち上げ一獲千金を掴もうとした。

芸能界が最も華やかだった時代に、無名の歌手五木ひろしをスカウトし、人気歌手に育て上げただけにとどまらず、ラスベガスへ進出させ、全米での成功を目論んだ――。

そんな壮大な過去について調べるうちに、私は、彼の人生が日本の戦前・戦後史とリンクしていることに気付きました。それを照らし合わせるための資料を集め、キーマンたちに会い、取材と検証作業を続けていると、10年近い歳月が経っていました。

――たしかに、本書に登場するのは格闘技や芸能関係の大物だけでなく、政治家にフィクサー、米軍といった「昭和を体現するアクター」が次々に現れます。特に驚愕するのが物語の序盤で描かれる、野口修の父・野口進による「元総理大臣暗殺計画」です。沢村忠の本かと思って買った人の中には、いい意味で驚かされた人もいると思います。

細田:ボクシングとキックボクシングに精通している作家の安部譲二さん(2019年没)にも野口修のことを聞きに行ったのですが、その時、こう言われたのです。

「野口修を書くということは、野口家について書くということです。そこに触れないと意味がない。あなたはそのことをわかっていますか?」

この言葉を聞いて、背筋が凍りつく気分でした。この時は安部さんの言葉の真意を完全にはつかみかねていたのですが、父・進氏について調べるうちに、その意味が分かりました。

野口ジムの創始者である野口進は、ボクシングの第二代日本ウェルター級王者にして「ライオン」とも呼ばれた拳闘家でした。戦前、彼は外国人選手と何度も戦いました。日本を熱狂させるボクサーでした。と同時に、彼は元首相の若槻礼次郎を暗殺しようとした人物でもあるのです。

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日本バンタム級王座を獲得した永田耕造の祝勝会にて。後列左が野口修氏

野口進がなぜ若槻礼次郎を暗殺しようとしたのか、戦前の右翼の歴史につながるその物語はぜひ本書を読んでいただきたいですが、とにかく、ただの一介のボクサーではなかった。その息子である修氏が父の影響を受けないわけがない。つまり野口家について書くということは、日本の思想史について書くことでもあった。調べていく中で、安部さんがいわんとすることがわかったんです。

石井館長の証言

――父・進のパートだけで一冊の本が書けるボリュームに圧倒されます。進氏は修氏の誕生後、ボクシングジムの経営に心血を注ぎ、三迫仁志など往年の名ボクサーを誕生させます。息子の修氏は、ボクサーにはなりませんでしたが、父のジム運営を手伝いながら、プロモーターとしての道を切り拓いていきます。

本書は大きく分けて、「ボクシングプロモーター・野口修」「キックボクシングの創始者にして、沢村忠を世に出した男・野口修」「芸能界に進出し、五木ひろしに日本レコード大賞を獲らせたプロデューサー・野口修」の3つの側面から野口修氏を描いています。

それぞれをここで詳しく見ることはできませんが、最大の読みどころは、やはり本場タイのムエタイ選手と日本の空手家の「異種格闘技戦」をプロモートしたその経緯を書いたパートではないかと思います。本書では、この一戦を「日本の格闘技の歴史を変えた戦い」と位置づけています。

細田:この時代に、日本のボクシングプロモーターで唯一タイにルートをもっていた修さんは、幾度となくタイに足を運びます。そこで、世界最強の格闘技の一つと呼ばれる『ムエタイ』と出会い、「これを日本の空手家と戦わせて金を稼ごう」と画策します。そもそも、最初の計画はその程度のもの。それが、日本で『キックボクシング』が誕生した経緯です。その後、野口さんは沢村忠という大スターを生み出し、69年から数年間続いたキックボクシングブームを巻き起こしました。

こうした功績について、K-1の創始者で、新日本空手道連盟正道会館館長の石井和義さんにも話を聞きましたが、野口さんについて尋ねると、こう話しました。

『あの人がプロモートした対抗戦がなければ、K-1もなかったかもしれない。いまの日本の格闘技の世界は、全然違ったものになった可能性がある』

石井館長が、こう評するのはわけがあります。

昭和39年に行われたタイ式ボクシング対極真空手の対抗戦は、結果的に格闘技ファンの間で語り継がれる歴史的な戦いになりました。プロモートした修さんも計算外だったはずです。

結果は、極真空手が勝ちました。壮絶な戦いを日本の空手家が制した。これは、歴史的な出来事でした。だから石井館長はこの戦いを指して『K-1の源流』と呼び、『日本の格闘技の歴史で一番のターニングポイント』と定義するのだろうと思います。

歴史にifはないと言いますが、もしも野口さんがいなければ、日本にK-1は生まれていないかもしれない。K-1がなければ、その後のPRIDEや、ひいては今日人気のUFCも、いまとは違った形になっていたかもしれません。

試合内容やそこに至るまでの経緯は、本書に詳述しています。その結論の是非については、読者に委ねたいと思いますが、それぐらい、格闘技界においては重要な功績を残した人物だと私は思っています。そのことだけでも、多くの人に知ってほしいと思っています。

なぜ誰も語ろうとしなかったのか

――その後、野口氏は日本にキックボクシングを創り、沢村忠を生み出します。本書のタイトルにもあるように、この本は国民的スターであった沢村忠の隆盛とその裏にあった物悲しき人間模様を描いた本です。沢村がスターに駆け上がる途中で、どんな驚きのドラマがあったのか。それは、いわゆる「ネタバレ」になるので、本書を読んでください、としか言えないでしょう。

しかし、なぜそれほどの功績を残した人の名前が、世間に残らなかったのか。執筆の原点と言える謎は解けたのでしょうか。

細田:ひとつには、野口さんは自分のやることに夢中になりすぎたあまり、周りの人に報いることをそれほどしなかった。そのため、彼を恨む人が思いのほか多かった。キックボクシング興行や五木ひろしの成功で一時大金をつかんでも、選手やタレントたちにそれを還元しなかった。興行のためなら、人を裏切ることもした。

もう一つはおカネの問題でしょう。調子のいい時はいろんな人が寄ってきますが、五木ひろしの成功以降、大きな業績がなくなると、驚くほど人が離れていった。多額の借金も抱えていましたし、そうした事情から、彼のことをよく言う人が少ないわけです。

しかし、一番の原因は、誰も野口修の功績を知ろうとせず、語り継ごうとしなかった、ということにあります。誰かの名前を歴史に残すためには、それを語り継ぐ人が必要なんです。残念ながら、野口さんの周りには、その役割を担おうとする人がいなかった。傲慢な人ではあったかもしれないし、計算高い人だったかもしれないけれど、それと彼の功績とは切り離して考えるべき。であるのに、そういう人は現れなかったのです。

おこがましいかもしれないけれど、であるならば、私がその語り部になりたい。

野口さんは、取材の途中、2016年にお亡くなりになりました。本書を読んでもらうことが叶わなかったのは、本当に残念でなりません。

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弟・野口恭の葬儀にて。前列左から二人目が野口修氏(写真提供・野口詩延氏)

己の遅筆を恨む一方で、私は野口さんに話を聞いた最後の取材者です。となれば、私が彼の歴史を語り継いでいかねばなりません。本書を通じて、一人でも多くの方に、彼の功績と生き様を知ってほしい、と思っています。

細田昌志 1971年生まれ。CS・サムライTVの格闘技番組のキャスターをへて放送作家に転身。いくつかのTV、ラジオを担当し、雑誌やWebにも寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社・2012年)『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書・2017年)。メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」(博報堂ケトル)同人

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