「僕には僕の美学がある」 青山敏弘、初のW杯で痛感した経験値不足と貫いた“広島愛”

「僕には僕の美学がある」 青山敏弘、初のW杯で痛感した経験値不足と貫いた“広島愛”

  • FOOTBALL ZONE
  • 更新日:2022/11/25
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2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘青山敏弘【写真:Getty Images】

【2014年ブラジルW杯戦記|青山敏弘】国全体が「W杯で揺れていた」衝撃の感覚

カタール・ワールドカップ(W杯)は11月20日に開幕し、森保一監督率いる日本代表はグループリーグでドイツ代表、コスタリカ代表、スペイン代表と同居する過酷な状況のなか、史上初の大会ベスト8入りを目指す。

7大会連続となる世界の大舞台。これまで多くの代表選手が涙を流し、苦しみから這い上がり、笑顔を掴み取って懸命に築き上げてきた日本の歴史だ。「FOOTBALL ZONE」では、カタール大会に向けて不定期企画「W杯戦記」を展開し、これまでの舞台を経験した人物たちにそれぞれの大会を振り返ってもらう。2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘(サンフレッチェ広島)が、8年前の記憶を紐解く。(取材・文=中野和也/全2回の2回目)

◇   ◇   ◇

日本代表のブラジルW杯で拠点としたのは、イトゥー。サンパウロから内陸に100キロほど入ったキャンプ地は、試合会場までいずれも約2000キロも離れた場所にあり、しかも気候が全く違う。平均気温16度くらいのイトィーと、25度近い試合会場では、晩秋と初夏ほどの違いがある。つまり、日本代表は毎試合、東京から台湾に向かって移動して試合を行っていたような感覚だ。

大会前から、この移動と気候の差がコンディションに問題を生じさせるのではないかという指摘は、確かにあった。実際、ジャーナリストの笹井宏次朗氏がブラジルの現地紙でこの問題を取り上げ、1月には「この広いブラジルに住んでいる日本人であれば、あまりにも違いすぎる気候の変化と移動距離の長さに、誰もが心配することなのだ。このままでは日本代表の全敗は避けられない」と警鐘を鳴らしていた。

「確かに、(試合会場は)遠かった」と青山も述懐した。

「移動が長すぎて、自分がどこにいるのかも分からなかった。ただ、場所がブラジルだし、そういうものだと理解していましたね」

そんなことよりも彼が覚えているのは、W杯期間中のブラジルの雰囲気だった。

「ブラジル代表の開幕戦では、ブラジルに点が入るたびに花火が上がるんです。それは、僕らの合宿地でも同じでした。車にはブラジルの国旗が飾られていて、国全体がW杯で揺れている。そんな感覚はありましたね」

6月14日、ブラジル北東部の街レシフェで、日本はコートジボワールとのグループリーグ初戦を迎えた。青山のポジションであるボランチは長谷部誠(元フランクフルト)と山口蛍(現ヴィッセル神戸)が先発。山口は2013年の東アジアカップ(現E-1選手権)組であり、彼が先発に選ばれたことを青山は素直に「凄い」と感じていた。

前半16分、本田圭佑の素晴らしいシュートが決まって先制。だが、後半17分にディディエ・ドログバが投入されると雰囲気は一変した。同19分はウィルフリード・ボニー、同21分にはジェルビーニョ。あっという間に逆転され、そのまま試合終了。青山はベンチからその一部始終を見ていた。

「同点から逆転まで、あっという間に流れをもっていかれた。修正という修正もできないままでしたね。できるだけ前向きになろうとはしていたけれど……、あの試合ではヤヤ・トゥーレがずっと際だっていて、彼を中盤で止められなかった。彼にリズムを作られていた。ボールを奪えないし、デカいし、速いし、強いし、上手かった。やっぱり、危険な選手でしたね。正直、厳しいなと思った」

黒星スタートで「日本らしい崩し」を欠いたギリシャ戦

W杯はグループリーグの初戦が何より大切だ。フランス大会とドイツ大会はいずれも敗戦。そして日韓大会と南アフリカ大会は勝利。この差が決勝トーナメント進出の可否につながったことは明確で、わずか3試合しかないリーグでの初戦敗退がいかに厳しいか、誰もが分かっていた。

「(次のギリシャ戦は)とにかく勝たないといけない。チームとして攻撃的に行こうという空気には満ちていた。コントロールして闘うのは日本代表の良さでしたが、そんなことは言ってられない。メンタル的には『勝たないといけない』という空気だった」

アルベルト・ザッケローニ監督は先発から香川真司(現シント=トロイデン)を外して大久保嘉人を入れ、岡崎慎司(現シント=トロイデン)、大迫勇也(現ヴィッセル神戸)を含め前線にストライカー色の強い3人を置いた。だがコンスタンティノス・カツラニスが37分に退場したことでギリシャが「勝ち点1」狙いに転換した。彼らも初戦、コロンビアに0-3と完敗しており、ここで日本に苦杯を喫するようでは敗退が決まってしまう可能性もあったからだ。

ただでさえ守備が堅いギリシャにゴール前を固められた時、日本はどうやって点を取るか。ザッケローニ監督は香川や遠藤保仁(現ジュビロ磐田)を投入し、内田篤人らを中心としたサイドアタックで活路を見出そうとしたが、ゴールできない。

結果は0-0の引き分け。ザッケローニ監督は「欠けていたのは、アイデアやパスの変化。特に最後(ゴール前)は発想が欠けていました。いいところもありましたが、スピード、特に最後のスプリントが足りなかった」と記者会見で語った。それは本田の「正直にボールを上げるだけでは、相手に勝つには難しい状況。違う形でゴールを破るアイデアが欠けていました」という言葉ともリンクしていた。

青山も同じような感想を持っていた。

「1人多くなって、どうやって点を取るのってなった時の選択肢ですよね。クロスから点を取って勝てれば、それは全く問題ない。そこは結果論ですからね。ただ、もうちょっと日本らしい崩しというか、ペナルティーエリアの中に入ってからのコンビネーションで崩しっていうのは、もっと出したかった」

キャンプ最終日の練習前にコロンビア戦の先発が通達

グループリーグ第3戦目は、コロンビアに勝利したうえで他会場の結果を待つという状況だった。現実、コートジボワールはギリシャ戦に敗れ、勝ち点3で終了。日本は勝ちさえすれば、2位で決勝トーナメントに逆転進出ができた。もちろん、それは終わってから知ったことだ。

青山がこの第3戦の先発を言われたのは、6月22日。イトゥーでのキャンプ最終日の練習前だった。

「その時、意外と平常心でしたね」と青山は振り返る。

「もちろん、自分の良さは出したい。でもそこまで試合にも出ていないし、経験もない。自分にとってはもちろんチャンスだった。でも第3戦、絶対に勝たないといけないというあとがない状況で、難しい状況でもあった。ただ、ビビッたりとか萎縮したりとか、そういうメンタルは全くなかった。強気で押し通すというか、いいメンタルだったと思いますね」

試合前日なども含め、選手間でのミーティングなどは特になかったと青山は記憶している。ただ試合に入ると「いつものやり方ではないな」と感じていた。

「戦術的に大きく変わっていたわけではないが、いつもどおりって感覚ではなかったですね」

もちろん、先制点が欲しいのは当然だ。だがこの日の日本は、まるで人生を急ぐ若者のように、前へ前へとのめり込んでいた。

「落ちつこうという雰囲気はなかった。それはボランチにいるのが自分だったこと、前線に大久保さんがいたから、(最初からチームが)より攻撃にかかろうとしたのか、それはちょっと分からない」

前半17分、コロンビアのカウンターが発動。青山もタックルに入るが止められない。そのままペナルティーエリア内まで運ばれ、PKを献上してしまった。

繰り返すが、この試合は勝てば良かった。コートジボワールとギリシャが引き分けたとしたら、得失点差や総得点も影響してくるが、まず勝利することを考えれば良かった。試合は90分ある。まずは失点しないこと。そういう考えでもおかしくない。青山の言う「ゲームコントロールが日本の良さ」を、このギリギリの試合でも発揮して良かった。

だが、追い込まれた状況の中で、選手たちには「攻める」以外の選択肢はなかったのだろう。

「前がかりになっていたことは事実。あの試合の相手はもう決勝トーナメント進出を決めていたし、自分たちとは状況が違う。その中で試合をコントロールすることが、自分にはできなかった。どうしても縦に急いでしまっていた」

長谷部誠と目が合った時、主将はこう言ったという。

「アオ、お前だったら、もっとボールをつなげる。だから、(縦に急ぐだけではなくて)もうちょっとつないでいこう」

長谷部とボランチコンビを組むも「落ち着いた空気を作れなかった」

その言葉はもちろん聞こえていたが、彼の身体の中に染みついていたのは、チャレンジ。佐藤寿人の動き出しに合わせて、一発の勝負パスで局面を打開し、得点につなげることが彼のストロングだ。そして、前線には大久保にしても岡崎にしても、ストライカーらしい動き出しを得意とする選手がいる。実際、ザンビア戦では、大久保のアクションに合わせてパスを出したことが得点につながった。

「やっぱり(前の)動き出しには反応してしまう。自分の良さを出したかったし、そこを狙ってしまった。それは自分だけでなく、チームとしてもそう。縦に速く、裏を狙う。それに自分も合わせてしまったし、落ち着いた空気を作れなかった」

ただ、それでも日本は前半アディショナルタイム、本田のクロスに岡崎が合わせて同点。いい雰囲気でハーフタイムを迎えた。

「実際、前半はチャンスも作っていましたからね。このやり方はリスクもあったけれど、いける。そう感じていました」

後半、コロンビアはこの大会で得点王になるハメス・ロドリゲスを投入。そしてゲームの雰囲気はガラリと変わった。

後半10分、ハメスのパスからジャクソン・マルティネスに決められてしまう。ラストパスの直前、相手10番に青山はアタックにいったが、難なくかわされて決定的なパスを出させてしまった。そしてその7分後、交代直前にワンタッチパスで長谷部にボールを届け、香川の決定的シュートを演出したあとで、青山は交代。彼のW杯は終わった。

「(ハメス・ロドリゲスに対しては)どうしても、受け身になってしまった。だから彼にボールを持たせる前に、どうにかしないといけなかったんですけどね。ただ、プレッシャーをかけると叩かれ、(プレスに)行ききれないとスピードに乗らせてしまう。それは今まで、経験したことのないレベルでした」

失点シーンでも、彼は自分を責めた。

「もっとやれることはあったと、今は思います。ただ、ディフェンスのところは自分の課題であり、もっとも足りない部分。あのシーンでも自分が(最終ラインに吸収されずに)ズルズルと下がることなくやれていれば、もっと最終ラインも上げられていた。あのシーンにしても、もっと前でディフェンスできていれば(違っていた)。ただ、なんだろう、ハメスにそうさせられていたのかもしれないですね。彼はシンプルに速かったし、独特の間合いもあった。スペースに入ってくる鋭さも、パワーにしても、自分は経験したことがないレベルでしたね。あの時、自分も止めようとして行ったんですけど、一発では止まらない」

実は2018年のブラジルW杯に出場の可能性も…

彼が今、口にするのは「経験値」だ。

「自分が(代表とか国際舞台とか)ああいう場に立つ経験が、あまりになさ過ぎた。練習試合でやったりもしたけれど、実際はW杯で初めてああいうレベルの相手と闘う。その体験は、自分にとっては遅すぎましたね」

それは五輪に出たり、前年のヨーロッパ遠征に参加しただけでは、追いつけないと青山は思っている。

「普段から、あのレベルでやらないと厳しい。日本でプレーしているままでは、その差は埋まりにくい。遠藤さんは通用していたけれど、やっぱり特別な存在なんですよ。特にディフェンスのところについては、海外での経験が重要かなと実感しましたね」

同世代で海外でのプレーを経験している選手たちを見て、その感覚は実感として青山に染みついた。

「彼らには余裕があった。W杯も初めてではなかったし、メンタルも違いましたね。そういう選手たちが多かったのは、あの時のチームにおいても強みでしたね。遅れをとるようなチームではなかったし、僕はやれると信じていた。だからこそ、初戦の敗戦、特に負け方が厳しかったですね」

実は青山は、2018年のロシアW杯でも出場のチャンスはあった。

2015年3月31日の対ウズベキスタン戦で強烈なミドルシュートを放ち、代表初得点を決めた青山だったが、その後は代表とは縁遠くなっていた。だが2018年、西野朗監督が日本代表監督に就任すると5月18日、彼を代表に招集すると発表した。

青山ほどのキャリアを持っている選手を、W杯直前の時期に招集するということは「ロシアへ一緒に行ってほしい」というメッセージではないか。多くの人がそう感じたが、結果としてその想いは叶わなかった。メディカルチェックに引っかかり、離脱してしまったのだ。

「間違いなくフィジカルのコンディションは、2014年より良かった。ディフェンスの部分にしても、ワールドカップで一度経験していますし、あの時とは違った対応ができたと思う。楽しみだったんですけどね。でも、確かに悔しかったけれど、逆に言えば、(あのタイミングで)代表に選ばれるとも思っていなかった」

彼のW杯は、今のところ、2014年の一度きり。ただ、そこに対して青山が後悔しているようには思えない。

「僕は、W杯を目標にしていたわけではなかった。もしそこにこだわっていたら、やはり海外でのプレーを選択したいと思ったんでしょうね。もちろん、代表は目指していたけれど、僕はそれが夢ではなかった。だから、W杯に向けての準備という部分では、自分には足りなかったと思います。W杯は結果を出せる人で闘わないといけないし、2018年にあの(足の怪我の)状態で無理して行ったとしても、チームに迷惑をかけるだけだったと思う。だからあの時、代表がベスト16までいってくれたことは、ほっとしましたね」

青山が貫いた美学「W杯に行くのなら広島から行きたい」

もし、人生をやり直せるとしたら、海外でプレーしたいと彼は思っているのか。

若い頃から青山はずっと怪我で苦しめられ、それが原因で北京五輪代表からも外れた。前十字靱帯、半月板、腰痛、膝の軟骨、度重なる骨折。まるで怪我のデパートのように厳しい状況に追い詰められ、何度も挫折しそうになった。そういう不運がなく人生をやり直せたら、海外でのプレーを選択し、W杯を目指したのだろうか。

「それはないですね。全くない」

決然と、彼は断言した。

「W杯に行くのなら、僕は広島から行きたいと思っていた。広島でプレーしたからこそW杯に出られたし、2度目のチャンスもあった。なんなら今回だって、もしチャンスがあればと思っていたからね」

実際、2019年のアジアカップ日本代表に彼は選ばれている。そこで右膝軟骨の大怪我がなかったら、もしかしたら可能性もあったかもしれない。

「僕には僕の美学があって、それで勝負したい。もちろん、そこで足りなかったから、(W杯で)結果を出せなかったのかもしれないんだけどね」

青山敏弘というサッカー選手が、W杯という舞台で結果を出せなかった。それは客観的にも主観的にも、事実である。その要因が、国際経験のなさにあることも、彼は冷静に分析していた。だが、広島一筋で闘ってきた人生に対して、一片の悔いはない。

ほぼ無名の存在から広島に加入し、無数の怪我と闘いながら、様々な挫折を乗り越えてきた広島でのサッカー人生に、彼は一点の曇りもなく誇りを持っている。今季、ミヒャエル・スキッベ監督就任とともに出場機会が減ってしまっても、「いいシーズンだった。いい監督が来てくれたし、チームとしていい競争ができた」と笑顔で語るように、どんなに苦しい時も最終的には前を向ける。そんな精神性があるからこそ、なのだろう。

筆者は今も妄想する。もし青山が五輪に出場できていたら。もし、ザッケローニ監督がもっと早く、青山を「発見」できていたとしたら。欧州遠征に参加し、岡崎慎司とのコンビネーションが磨かれていたとしたら。大久保嘉人とのコンビを、もっと何度も試していられたら。第3戦ではなく第2戦のギリシャ戦で、青山が使われていたならば――。

だが、そういう「たられば」も含め広島のレジェンドは受け入れ、かつて広島でともに闘って栄光を掴んだ森保一監督やコーチ陣、そして同じ北京世代の吉田麻也(元シャルケ)や長友佑都(元FC東京)らの活躍に期待して、カタールの地へ想いを託していることだろう。そういう青山敏弘の人間性も、筆者は尊敬している。

(文中敬称略)

[プロフィール]
青山敏弘(あおやま・としひろ)/1986年2月22日生まれ、岡山県出身。作陽高―広島。J1通算436試合20得点、J2通算36試合4得点、日本代表通算12試合1得点。広島一筋19年を誇るハート&ソウルにして、卓越したパスセンスと闘争心を併せ持つ熟練のボランチ。ファンサービスの神対応も広く知られ、同僚から絶大な信頼を得るとともに、多くの人々から愛される。ワールドカップには2014年のブラジル大会に出場した。(中野和也 / Kazuya Nakano)

中野和也

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