花田紀凱が「マルコポーロ事件」で文藝春秋を追われたのは本人にとってはよかった!?

花田紀凱が「マルコポーロ事件」で文藝春秋を追われたのは本人にとってはよかった!?

  • 日刊大衆
  • 更新日:2021/04/07
No image

柳澤健著作の『2016年の週刊文春』(文藝春秋)

柳澤健『2016年の週刊文春』著者インタビュー 5/7

『2016年の週刊文春』は文藝春秋という会社と『週刊文春』という雑誌を軸に、日本の出版ジャーナリズムを描き切った大作だ。主人公は花田紀凱と新谷学、2人の『週刊文春』編集長。著者の柳澤健は、2人の間の世代の文藝春秋社員で、彼らとともに仕事をしてきた編集者だった。彼が見た2人の天才編集者の実像とは――。7回にわたって語ってもらった。

関連:柳沢健『2016年の週刊文春』著者インタビューの1回目はこちらから

――しかし、そんな飛ぶ鳥を落とす勢いだった花田さんも、マルコポーロ事件をきっかけに閑職に左遷され、やがて文藝春秋を去ることになります。

柳澤:マルコポーロ事件のときに、花田さんのことを悪く言う人はとても多かったよ。私は花田さんのことが大好きだったから、本当に傷ついた。あれだけ会社に貢献した人を追い出すのか。文春はなんてひどい会社なんだって。勝谷もすぐあとに、文春に絶望して会社を辞めた。あのときは、会社の上層部は、現場のことは本当に何ひとつ見えていないんだと絶望した。

ただ、マルコポーロ事件があったことは、花田さんにとってはいいことだった、と言う人もいるんだよ。もしマルコポーロ事件がなければ、花田さんは数年後には編集局長で、その次は役員。要するに現場から離れてしまう。あれだけ雑誌を好きな人が、雑誌を作れなくなってしまう。

でも実際には、マルコポーロ事件がきっかけで文春を辞めた花田さんは、朝日新聞で『UNO!』を作り、角川書店で『Men’sWalker』を作り、その後も『WiLL』『月刊Hanada』と現場が続いて、80歳近くなったいまでも雑誌を作り続けている。雑誌が大好きな花田さんが、ずっと雑誌を作り続けられることができたのは、マルコポーロ事件のお蔭と言えなくもない。

■「いまもバリバリの現役なのがスゴイ」

花田さんが『週刊文春』の編集長だった1990年前後、雑誌の宣伝のために、報道番組のコメンテーターを週一回、ワイドショーに出演していたんだけど、「テレビ局が花田さんを年収5000万円で引き抜こうとしている」という噂が社内にパッと広がったことがあった。「テレビに行くんじゃないの?」という声を聞いた私は結構バカにしていた。「はあ? 何言ってるの? みんな花田さんのことを全然わかってない。あんなに雑誌を好きな人が、どんなにお金を積まれたところでテレビなんかに行くわけがないじゃん」って。

花田さんは朝日新聞社に行くとき、自分が文藝春秋に引き込んだ特派記者たちは連れて行ったけど、社員編集者である我々には一切声をかけなかった。「一緒に来てくれよ」って言われれば、我々は絶対ついて行ったはず。勝谷も私も。その時は「どうして誘ってくれないんだろう?」と思ったけど、花田さんからすれば、文春でそこそこいい給料をもらって楽しく仕事をしている社員編集者を、朝日新聞社の契約社員にすることにためらいがあったんだろうね。部下たちの人生を決めることはできないと思ったんでしょう。

今、花田さんに当時の話を聞いても、文藝春秋への恨み言は一切出てこない。「文春はいい会社だよ」って言うだけ。「あんなに嫌な思いをして辞めたのに!」とは思うけど。『月刊Hanada』があるからだろうね。今の花田さんにとって一番大事なのは、目の前にある『月刊Hanada』。昔の話もしてくれるし、「あの頃は楽しかったね」と言ってくれるけど、過去の思い出にすがる老人ではなく、いまでも現役バリバリの編集長であるところが凄い。

(取材・文 菊池俊輔)

PROFILE

やなぎさわ たけし

1960年東京都生まれ。ノンフィクションライター。慶應義塾大学法学部卒業後、空調機メーカーを経て文藝春秋に入社。花田紀凱編集長の『週刊文春』に在籍。新谷学とは同時期に『Number』で働いたことも。2003年に独立、2007年に『1976年のアントニオ猪木』で単行本デビュー。

『鉄腕ダッシュ』新レギュラーSixTONES森本慎太郎とキンプリ岸優太「残酷な差」

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加