三河一向一揆で家康に追放された松山ケンイチ「本多正信」 その後の大復活劇がスゴすぎる

三河一向一揆で家康に追放された松山ケンイチ「本多正信」 その後の大復活劇がスゴすぎる

  • デイリー新潮
  • 更新日:2023/03/19

松山ケンイチ演じる本多正信を後ろ手に縛ったヒモを、小刀を抜いて切ってやったのち、松本潤が扮する松平家康が放ったセリフが印象的だった。「本多正信、この三河(愛知県東部)から追放とする。二度と戻ってくること相ならぬ!」

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松山ケンイチ

【写真】家康の初恋の相手・瀬名を演じた有村架純

NHK大河ドラマ『どうする家康』の第9話「守るべきもの」。前話から続けて描かれたのは、勃発した三河一向一揆への対処を「どうする」かと悩む家康の姿と、一揆側に家康の家臣である本多正信が軍師として参加し、鉄砲を放って家康の命までも直接ねらっていた、という話だった。

家康が三河一向一揆に苦しめられたことはまちがいない。一揆を起こした一向宗(浄土真宗)の門徒には、農民をはじめとする庶民が目立ったとはいえ、武士や土豪の門徒も少なくなかった。家康の家臣たちも例外ではなく、なにしろ、そのうちの一定数が一揆方にくみして、家康の家臣団が二分されるほどの事態になってしまったのである。

そのうちの最大のキーマンが本多正信だった――。ドラマではそう描いていた。

寺側の自治権を侵されたのが一揆の原因

そもそも、なぜ一向一揆が起きたのか。一揆について同時代の史料はほとんどないが、比較的早く成立した史料の多くは、一向宗側が不入の権を侵されたからだと記している。

不入の権とは、簡単にいえば、租税を納めなくてもいい権利のこと。当時、三河国の一向宗側は戦国大名に対して租税の納入を免除され、警察権などを行使する権断使の立ち入りさえも拒否できた。つまり、一向宗の寺院とその周辺は自治を認められていたのだ。

だが、家康はこうした例外を認めたくなかったのだろう。『松平記』には、家康の家臣が干してあった籾を寺から持ち帰ったために争いが起きたことが、『三河物語』には、やはり家康の家臣が寺内にいた狼藉者を捕らえようとしたため、騒乱になったことが書かれている。

ドラマで描かれたのも同様に、家康が不入の権を問題視し、年貢を取り立てようとして一揆が発生した、というストーリーで、通説にしたがっていた。

では、一揆側のキーマンはほんとうに本多正信だったのか。

兄弟で家康を裏切った

ドラマでは一揆の拠点が本證寺に置かれ、本多正信の姿も本證寺内にあった。一揆の中心がどの寺にあったかについては諸説あるが、『三河物語』には、発端は本證寺だったと記されている。

この本證寺の門徒団の中心は石川氏だった。気づく人もいるだろうが、ドラマの初回から家康の片腕として側近くに仕えている、松重豊扮する石川数正の家系である。事実、その多くが一揆方にくみしたが、数正自身は浄土真宗から浄土宗に改宗してまで、家康への忠誠を尽くした。

また、門徒団のなかには本多一族も多かった。同じ本多姓でも、ドラマで山田裕貴が演じる本多平八郎忠勝らは家康側についたものの、『三河物語』によれば、より本家筋に近いとされる本多正信と正重の兄弟は、本證寺ではないが、家康を裏切った酒井忠尚の上野城に立てこもったというのだ。

しかし、それ以上の記述はない。だから、正信が一向宗側の軍師(ドラマでは、本證寺の住職で市川右團次が演じる空誓上人の軍師)であった可能性を否定する材料もないとはいえ、そこは基本的に大河ドラマの創作である。しかし、のちの本多正信との対比を鮮やかにするための、巧妙な脚色だということもできる。

加賀一向一揆にも参加か

永禄7年(1564)に三河一向一揆が収まったのち、正信は三河国から出奔し、それから18年ほど消息がハッキリしない。

ただ、諸史料によると諸国を流浪し、一向一揆に参加していたようだ。少なくとも、一向宗の敬虔な信徒ではあったのだろう。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』によれば、一向宗の力が強かった加賀国(石川県)に住んだという。そこで一揆に参加し、織田信長の軍勢と戦ったという説もある。

また、東大寺大仏殿を焼き払うなど悪名高い松永久秀に仕えたともいわれる。その間、三河に残してきた妻子は、ドラマで小手伸也が暑苦しい家臣を好演している大久保忠世が世話をし、本人も忠世の口利きで家康のもとに、鷹匠として帰参したという。

鷹匠を務めたこと自体は不自然ではない。正信の父の俊正も、鷹匠として松平家に仕えていたからである。

ただし、帰参した時期については諸説あるが、出奔して6年後の元亀元年(1570)には、浅井および朝倉の軍勢と戦った姉川の戦いで奮闘したという説も。いずれにせよ、天正10年(1582)までには家康の信頼を取り戻していたことはたしかである。

実力で勝ちとった家康側近の地位

天正10年は6月2日に織田信長が本能寺の変に斃れた年だ。そのとき堺に滞在していた家康は、決死の「伊賀(三重県西部)越え」で帰国したが、江戸時代に新井白石が記した『藩翰譜』には、そのとき正信も付き従ったと記されている。後世の二次史料だから真実とは言い切れないが、そのころから正信が表舞台に戻っていたことはまちがいない。

同じ『藩翰譜』には、その後「常に御側に伺候して軍国の議に与る」、つまり、いつも家康の近くにいて軍略に携わった、と書かれている。

信長は横死する直前に武田氏を滅ぼした。そして本能寺の変後、家康は旧武田領に進出し、自身の勢力を大きく拡大した。その際、貢献度がきわめて高かったのが本多正信だった。武田の遺臣に、領地を安堵するから徳川家に仕えるように、と誘いかけ、彼らを徳川家臣団に呼び入れたのだ。

甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は武田氏が滅んだのち、まるでまとまっていなかったのに、正信の力で統治しやすくなった。また天正12年(1584)、家康が羽柴秀吉と対立した小牧・長久手の戦いでは、四国の長宗我部氏に出兵を促す書状を正信が書くなど、家康の懐刀としての活躍が伝わる。

天正14年(1586)に家康が秀吉に臣従すると、秀吉の推薦で家康の家臣たちも朝廷から叙任され、正信も従五位下、佐渡守になった。裏切り者が、自身の能力によって名実ともに家康の側近の地位を勝ちとったのだ。天正18年(1590)の小田原征伐後、家康が関東に移ると、相模国(神奈川県)玉縄に1万石の領地をあたえられ、ついに大名になった。

家康の将軍就任への道筋も立てた

正信が出奔しているあいだ、家康のもとで命をかけて戦ってきた家臣たちの多くは、元来が裏切り者の正信が高く評価されることに不満だったと伝わる。だが、それでも家康は正信を高く買い続けた。自身が生き残り、ひいては天下をとるために必要な才能だと見抜いていたからだろう。

その後は、家康が不在の江戸で町づくりの指示をすべて担い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川家の正規軍を率いる秀忠の参謀を務め、関ヶ原で勝利したのちは、家康が征夷大将軍に就任できるように朝廷との交渉に尽力した。さらには、かつて帰依した一向宗本願寺を分裂させ、力を弱めるように家康に策を授けたのも正信だった。家康の信頼が厚くなるはずである。

慶長8年(1603)に念願かなって征夷大将軍に任ぜられた家康は、わずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自身は大御所として実権を握り続けた。まだ大坂に豊臣秀頼が存在し、いずれ彼が関白になると思っている人が多いなか、将軍職を世襲し、天下を司るのが徳川家であることを示したのだ。

この時点で秀忠はまだ25歳。家康としては心もとなかったと思われ、もっとも厚く信頼を寄せる家臣を新将軍のもとに送り込んだ。それが正信だった。その後、家康は隠居城としての駿府城(静岡県静岡市)を築き、そこで大御所政治を行ったが、自分は江戸から離れていても、江戸に正信を置いておけば大丈夫だ、という判断があったわけだ。

大きすぎる貢献と裏切りとのギャップ

元和2年(1616)4月17日、家康が駿府で死去すると、正信は一切の政務から退き、同じ年の6月7日、家康のあとを追うようにこの世を去った。享年79。当時としては異例の長命だった家康よりも4年ほど長く生きた。

本多正信は徳川四天王にも徳川十六神将にも数えられていない。しかし、それは先に述べたように、家康のそばに弛まず使えてきた武将たちに、裏切り者へのやっかみがあったからだろう。現実には、正信の力がなければ江戸幕府の成立も、その後の二百数十年にわたる天下泰平もなかったと思われるほど貢献度が高い。

それがもとはといえば家康を裏切った家臣であった――。正信が一向宗側の参謀であったのか、実際、家康の命まで狙ったのか。それは史料からはわからないが、家康の窮地で裏切ったという事実だけでも、のちの大きすぎる功績とのギャップはあまりにも大きい。

だが、過去がどうであれ、才能を見抜いて重くもちいる度量があったから、家康は天下人になれたのである。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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