【田畑一也コラム】移籍後初先発が降雨中止に...野村監督は僕の両親に詫びを入れてくれた

【田畑一也コラム】移籍後初先発が降雨中止に...野村監督は僕の両親に詫びを入れてくれた

  • 東スポWEB
  • 更新日:2023/05/26
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野村監督(中)のボヤキはメディアにとっても注目の的だった

【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(21)】野村克也さんの名前を聞いて、皆さんはどんなイメージを思い浮かべますか? 名将、代名詞のID野球、ボヤキ…。テスト生として1954年に南海入りしてから評論家時代も含め、2020年2月に亡くなられるまで66年間にわたって野球界に携わられた方ですから、どんな接し方をしたかでも印象は異なるかもしれません。

言うまでもなく、野球に対しては厳しい方でした。その一方で、人情家でもありました。最初にそう思ったのは96年4月11日、僕が移籍後初先発するはずだった神宮球場での巨人戦が降雨中止になった日です。

事前に登板日を告げられていたことから両親も富山の高岡市から駆けつけていて、せっかくの機会だからと野村監督にごあいさつをさせてもらったのです。すると監督は「わざわざ遠くから来ていただいたのに、今日は残念でした。でも、必ず先発させますから」と言ってくれたのです。もちろん両親も喜んでいました。

実際に移籍後初先発となった4月13日の中日戦(ナゴヤ)は所用で両親は来ることができませんでした。しかし野村監督の期待に応えるべく、僕は立ち上がりから全力で腕を振りました。93年6月20日のロッテ戦(千葉マリン)以来となる先発で、自己最長の8回を投げて無失点。9回に立浪和義の3ランを食らって完封目前に無念の降板となってしまいましたが、池山隆寛さんに古田敦也さん、ミューレンの本塁打などによる大量9点の援護にも守られ、幸先よく移籍後初勝利を挙げることができました。

見知らぬ土地で、しかも身重の体で僕をサポートしてくれていた妻も、ひと安心だったと思います。身内やチームメートが喜んでくれたこともさることながら、翌日のスポーツ紙で中日・星野仙一監督の「ダイエーはピッチャーがいないとか言っていたのに、こんなピッチャーを出すんやな」との談話を目にして、ちょっと誇らしく感じたことを覚えています。

ダイエー時代の4年間で先発機会は2度しかなく、二軍首脳陣に「先発がしたいです」と訴えた直後に交換トレードでヤクルト移籍。そんな僕が希望通りの役割で、期待通りの結果を残せた。当然ながら「よし、次も」と気合が入りました。野村監督も先発枠の一人として中5日で登板機会を与えてくれましたが、古巣の福岡ドームが舞台となった4月19日の広島戦で移籍後初黒星を喫してから、事態は暗転してしまいました。

4月25日には前回対戦で白星を挙げた中日戦(神宮)でパウエル、音重鎮さん、山崎武司に計3発を浴びて6回途中5失点KO。5月1日の広島戦(呉)でも4回4失点と3試合連続で結果を残せなかった僕に待っていたのは中継ぎへの配置転換という厳しい現実と、指揮官からの事実上の最後通告でした。

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