死後52年「三島由紀夫」が心酔した書「葉隠」の中身

死後52年「三島由紀夫」が心酔した書「葉隠」の中身

  • 東洋経済オンライン
  • 更新日:2022/11/25
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割腹自殺で日本に大きな衝撃を与えた作家・三島由紀夫(写真:picture alliance/アフロ)

1970年11月25日は、作家の三島由紀夫が割腹自殺をした日です。その三島が愛読していたのが、武士の心得を説いた『葉隠』です。いったいどういう書物なのか。歴史家の濱田浩一郎さんが解説します。

『葉隠』は、江戸時代中期の武士道書です。佐賀藩士・山本常朝(1659~1719)の言葉を、同藩士の田代陣基(1678~1748)が聞き書きし、約7年かけて書物にまとめたものであります。武士のあるべき姿を説いた武士道書であり、「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」との名句は、誰でも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

その『葉隠』を愛読した作家がいました。それは『仮面の告白』『金閣寺』ほか数々の名作で知られ、ノーベル文学賞の候補にもなっていた三島由紀夫(1925~1970)です。

ある程度の年代の人にとっては、1970年11月25日、三島が民兵組織「楯の会」隊員とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地に突入し、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決したことのほうを鮮烈に記憶しているかもしれません。今年(2022年)2月に亡くなった作家で元東京都知事の石原慎太郎(1932~2022)は、「三島がいつも手放さずにいる佩刀が『葉隠』である」と書いていました。

葉隠が説く「死」に深く心を寄せていた

三島は、戦時中から『葉隠』を読みだし、戦後も折に触れて、読み返していましたが、同書を「いかにも精気にあふれ、いかにも明朗な、人間的な書物」(三島『小説家の休暇』講談社)、「わたしのただ一冊の本」とまで心酔していました。三島には『葉隠入門』(新潮社)という評論まであります。

三島は『葉隠入門』のなかで「葉隠のいっている死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じだということを葉隠は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない」と書いていますが、『葉隠』が説く「死」についても、三島は深く心を寄せていたのです。

『葉隠』には「武士道とは死ぬことである」とあります。「生か死かいずれか1つを選ぶとき、まず死をとることである」と説くのです。とはいえ『葉隠』も、人間の生きたいという願望をはなから否定したりはしません。「人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける」と付言しています。しかし、山本常朝に言わせれば、生か死かの選択のもと、当てが外れて、生き長らえるならば「その侍は腰抜け」となってしまうのです。

「毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死身になっているときは、武士道とわが身は一つになり、一生失敗を犯すことなく職務を遂行することができる」

「まことの剛の者というのは、何も言わずにそっと抜け出して死におもむく者である。相手をしとめる必要はない。黙って斬り殺される者が剛の者なのだ。このような者は、相手をしとめることができるものである」

これも、常朝の言葉ですが、死ぬ覚悟で物事に臨めば、大過なく仕事をすることができると説いているのです。三島の『葉隠入門』の前掲文は、常朝のこの言葉を敷衍したものでしょう。死を想い過ごすことにより、現実の生活・仕事もまた輝きを帯びたものになる。逆説ではありますが、それもまた事実の一面を衝いていると言えます。

無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持つ

さて、三島は『葉隠入門』のなかで、こうも書いています。

「われわれは、1つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである」

「相手をしとめる必要はない。黙って斬り殺される者が剛の者なのだ」と『葉隠』は書いていましたが、普通に考えれば、相手(敵兵)を仕留めることができず、黙って死んでいくのは「犬死」となってしまいます。しかし、山本常朝はこうした「犬死」も「恥にはならない」し「武士道において最も大切なことだ」とまで説くのです。

死に物狂いで相手と戦い、死んでいく気迫・覚悟こそ、常朝は重んじたのでしょう。普段、立派なことを言っていて、いざというときに逃げたりするよりは、潔く敵に立ち向かい、場合によっては死んでいく。『葉隠』は後者を重んじたのです。

『葉隠』というと「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」という言葉に象徴されるように、どうしても「死」というものがクローズアップされますが、私には「生」も濃厚に表現されているように思うのです。

「死」のことについて触れた直後に「一生、失敗を犯すことなく職務を遂行することができる」と書いていることもそうです。

武士道とは死に物狂い

また「武士道とは死に物狂いそのものである。死に物狂いになっている武士は、ただの1人でも、数十人が寄ってたかってもこれを殺すことが難しい」と言った佐賀藩の藩祖・鍋島直茂(1538~1618)の言葉を紹介したうえで「正気では大仕事はできない。狂気となり、死に物狂いで立ち働くまでだ」と解説を加えていることもそうでしょう。

『葉隠』の「死」の中に「生」も同時に立ち現れているといえないでしょうか。死ぬことが生きること、生きることが死ぬこと。死を覚悟することによって、人生の展望が拓けてくるというのが『葉隠』が説く、ある意味、究極の「処世術」のように私には感じます。とは言っても『葉隠』の言葉をそのまま現代に活かそうと思えば、それはそれで大変なことになるでしょう。

人間の考え方も、江戸時代と現代とでは相当違うのが当然です。しかし、そうであったとしても『葉隠』の中には、今回紹介した話だけではなく、人間とはどのようなものであるか、どう生き、どう死ぬべきか、危機への対処法など有益な情報がつまっているように思います。三島由紀夫が心酔した書物だけのことはあるといえましょう。

(濱田 浩一郎:歴史学者、作家、評論家)

濱田 浩一郎

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