ラッキーゾーン撤去から始まった92年タイガースの快進撃。八木裕「なんぼ点とればええの?」から投手陣が変わった

ラッキーゾーン撤去から始まった92年タイガースの快進撃。八木裕「なんぼ点とればええの?」から投手陣が変わった

  • Sportiva
  • 更新日:2022/09/23

1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:八木裕(前編)

「ちょっとすまんけど、外野にいってくれんか。今度、甲子園球場のラッキーゾーンがなくなって、今の外野手では守りきれんような広さになるから」

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阪神が2年連続最下位に終わった1991年のシーズンオフのことだ。三塁でレギュラーの八木裕が、中村勝広監督から外野転向を打診された。同年12月にラッキーゾーンが撤去され、甲子園球場の右中間、左中間が8メートル広くなるにあたり、足と肩のある選手が求められた。白羽の矢が立てられた時の心境はどうだったのか。当時、プロ5年目だった八木に聞く。

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92年に内野から外野へコンバートされた八木裕(写真左)と中村勝広監督

三塁から外野へコンバート

「まず、監督ってこんなこと直に言ってくれるんだと思いましたね。別に私はサードもあまりうまくないし、自信もなかったですけど、そろそろ慣れてきた頃ではあったんです。でも、こちらに拒否する権利はないですし、『わかりました』と。センターはやったことなかったですから、『練習して、やります』と」

早速、秋季キャンプから、新任の島野育夫外野守備走塁コーチに指導を受けた。前年までの中日コーチ時代の怖い印象があり、八木は戦々恐々としたが、意外にもやさしく丁寧に教えられた。新たなポジションもこなせると思ったが、問題は打つほうだった。

八木は岡山東商高から三菱自動車水島を経て、86年のドラフト3位で入団。プロ2年目の88年に米マイナーチームで1シーズン野球留学し、パワー重視の打撃を勉強して帰国した。すると翌89年に16本、90年に28本、91年に22本と本塁打を量産(90年、91年はチーム最多)。それだけに、ラッキーゾーンの撤去は死活問題と言っても過言ではなかった。

「『大変なことになるな』と思いました。ほかの選手や裏方さんには『おまえはラッキーゾーンに入ったホームランはほとんどない。大丈夫じゃないか」と言われましたけど、実際には何本かありました。チームにはほかに打つ人があまりいなかったので、ホームランが自分のアピールポイントでしたから、厳しいシーズンになるであろうと予想して92年を迎えました」

開幕前、必ず行なわれていた決起集会。東京遠征で始まる92年は、神宮球場近くの焼肉店にナインが集結した。新選手会長の和田豊が音頭を取り、対ヤクルト2連戦、続く対巨人3連戦を「勝ち越して大阪に帰ろう!」と声を張り上げた。中村監督が「最低でも2勝して大阪へ帰ろう」と言ったことに対し、和田が反抗したのだ。

「監督はいつも冷静な判断のもとにコメントするわけですけど、和田さんの言葉は常にその上を行くんです。決起集会だけじゃなく、監督が『じゃあ、ここらへんで』って言ったら、必ずそれより上を言う。『絶対、勝ち越す』とか『絶対に優勝する』とか。それぐらい、和田さんはチームのことを思っていました。まさに選手会長、リーダーでしたね」

ラッキーゾーン撤去の恩恵

頼もしいリーダーだったが、八木自身、「優勝」は現実的ではないと考えていた。攻撃陣はジム・パチョレックが新加入し、開幕戦で新人遊撃手の久慈照嘉、5年目捕手の山田勝久を抜擢。たしかにメンバーは変わり、和田が遊撃から二塁、岡田彰布が二塁から一塁にコンバートされて布陣は刷新されたが、戦力的には前年と大きく変わっていなかった。

「ただ、試合が進むにつれて、ピッチャーの調子はいいということがだんだんわかってきたんです。ラッキーゾーンがなくなった甲子園球場の恩恵もあり、若手と言われていたピッチャーがある程度、実力を発揮しだしたんですね。4月、5月と戦っていくなかで、『ああ、球場が広くなるってこういうことなんだな』って実感しました」

そのなかで八木自身の調子は開幕からよくなかった。案の定、ラッキーゾーンがあったら......という打球も少なくなく、4月は打率.225で4本塁打。5月は1本塁打に終わり、打率も2割3分台。その間、若手の亀山努、新庄剛志が台頭していたが、その活躍をどう見ていたのだろう。

「ふたりとも力があるのは知っていましたから。とくに亀山は2年連続ウエスタンで首位打者を獲って、もともとバッティングもいいし、力はあることはわかっていました。新庄はオマリーがケガしたおかげで出てきた形でしたが、すぐに結果を出した。このふたりがチームに勢いをつくってくれたのはたしかなので、今でも感謝しています」

勢いに乗ったチームは6月9日の中日戦、中村監督が率いて3年目で初めて単独首位に立つ。打線は10安打で6点をとり、3年目右腕の葛西稔がシーズン3勝目をプロ初完封で飾った。その時点で先発陣では仲田幸司が7勝、中込伸が6勝、湯舟敏郎が3勝を挙げ、リリーフ陣では抑えの田村勤が3勝12セーブ。近年にない投手陣の安定を八木は感じていた。

「明らかに失点は減っていたので、これは今までのタイガースの戦い方とは違うなと。こう言ったら申し訳ないですけど、90年、91年は得点してもすぐに逆転されて、『あれ、なんぼ点とればええの?』って言いたくなるような試合が多かった。それがガラッと変わって、試合中盤から終盤でリードしていたら、そのまま勝ち切れるスタイルになりましたよね」

復調のきっかけはオールスター

一方で打線は6月半ば、4番のトーマス・オマリーが約1カ月ぶりに復帰。代わりにサードを守っていた新庄がショートに回ったが、7月に入るとセンターを守ることになった。センターだった八木がレフトに回り、亀山はライトに固定された。

「新庄も外野の経験は少なかったですけど、私よりも足があって、肩も強い。私は仕方なくレフトに回りましたが、結果的によかったと思います。外野は3人とも足が速かったので、ヒット性の打球をアウトにしたり、ランナーの進塁を防いだり、ピッチャーも助かったんじゃないでしょうか。そういう面で、守り勝つ野球ができていったんじゃないかと思います」

鉄壁の外野陣が形成されていく途上、チームは負けが込んでいた。6月28日の中日戦、それまで5勝14セーブだった"守護神"田村が抑えに失敗し、初黒星を喫する。そこから勝てなくなり、7月8日の大洋(現・DeNA)戦で野田浩司が完封するまで7連敗。貯金も使い果たして「また暗黒の時代に逆戻りか......」とも言われたが、チーム内はどんな雰囲気だったのか。

「嫌ではありましたよ、『また』って言われるのは。ちょっと勝っていても、負け出すと、前年までの状態が頭をよぎりました。ただ、ピッチャーと野手、その守りと攻撃を含めたバランスがよかったので、そういう時もあるだろう、と。監督もそうでしたけど、選手同士、『こういう時もあるわ』と言い合える雰囲気でした。

それに、和田さんが直接選手に言うわけじゃなくて、マスコミに対して『全然、大丈夫だ』と。発破をかけるようなコメントをよく出していました。我々はそれを見て聞いて、『そうか、そうなんだな』と納得していました。和田さんは85年の優勝も知ってますし、心強い、頼りにできる選手会長だったと思いますね」

92年の和田はプロ8年目で33歳。開幕から1番に固定され、その時点で3割の打率を残し、まさに戦いの先頭に立つリーダーだった。連敗から脱出した直後には、和田、亀山、久慈、パチョレック、そして八木が、ファン投票でオールスターに選出されたことが発表された。

「私自身、前半戦の打率は2割ちょっとでホームランが9本です。そのような成績で選んでいただいて、ありがたい限りでした。ただ、そのオールスターの打席でタイミングの取り方を少し変えたら、ボールがよく見えるようになって、『この感じかな』というのがあった。それで後半戦、いいタイミングの取り方ができるようになったんですね」

復調のきっかけをつかんだ八木は、8月に入ると5番に固定された。最終的には打率を5分近く上げ、チーム日本人選手でトップの21本塁打、60打点。貢献度の高さが光っていた。

「たしかに、後半戦は貢献できたと思います。でも、トータル的な打線については、終盤になると湿り出しましたよ。まあ、その......幻のホームラン後ですね」

後編につづく>>

(=敬称略)

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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