「奧さんなら1時間も前に帰りました」姿を消した妻、発見された女物の下駄…惨殺された“小柄で色白な美女”と残された“時代の言葉”から続く
女性をのぞき見したり、わいせつ行為や性犯罪を犯す男の代名詞になっていた言葉「出歯亀」。そのルーツとなった事件が、1908年に起きた「出歯亀事件」だ。
妊娠中の若い女性が銭湯帰りに暴行・殺害されたこの事件。捜査は難航し、警察は美女を集めわざと夜道を歩かせる“おとり捜査”まで行ったが、犯人逮捕には至らなかった。そんな折――。
◆◆◆
「大久保の殺人犯捕る」
事態が一変したのは事件発生から約半月後の4月5日。警察発表だったと思われる。5日発行6日付の報知、國民の夕刊と都新聞が最も早いが、比較的分かりやすい報知の記事の要点を見よう。
〈 大久保の殺人犯捕る 犯人は同村内の植木職 加害当時の模様を語る
(警視庁は)先月31日、嫌疑者として東大久保409、植木職兼とび職、池田亀太郎(35)を引致し、森田、宮内両警部が厳重に取り調べたところ、ついに4日になって犯人であることを自白するに至った。〉
「植木職兼消防夫」としている新聞もあるが、いまでいう消防団の団員のようなものだろう。報知の記事は「犯人は湯屋覗(のぞ)き」の中見出しで捜査の経過を述べる。

「犯人逮捕」を報じる東京朝日。早くも「出歯亀」が見出しに
「犯行動機は怨恨とは思えず、学生か色情狂の一時の出来心に相違ないだろうと目星をつけ…」
〈 ゑん子の死の状態と日常から推定すれば、犯行動機は怨恨とは思えず、学生か色情狂の一時の出来心に相違ないだろうと目星をつけ物色中、亀太郎が湯屋のぞきの色情狂で、しばしば付近の湯屋をのぞき回り、湯帰りの女の後をつけることなどがあったことを探知した。先月31日正午ごろ、本人が休みで自宅にいたところを新宿署に引致。厳重に尋問したが、少しも要領を得なかった。脅したり叱ったりして白状させようとしたが、容易に真実を吐露せず、わずかに4~5回、大久保付近で湯帰りの女性を襲い暴行しようとしたが、その都度、被害者が声を上げて泣き叫んだため、目的を遂げることができなかったと申し立てた。とりあえず違警罪(現在の軽犯罪)で拘留10日に処して取り調べを続行。証拠を突き付けて尋問を重ねたところ、4日午前9時、ついにゑん子惨殺の一端を自白に及んだ。〉
「史談裁判」は「検事の聴取書は4月5日午前4時30分、新宿警察署で作られていて、異様なものを感ずる。連日昼夜兼行の取り調べの果て、4月4日の深夜に自白するに至り、警察官の聴取書を作り、急いで未明に検事を呼んだものとみられる」と書いている。
この見方が正しいように思う。「脅したり叱ったり」という程度の取り調べだったのか。当時の警察にも新聞にも被疑者の人権は頭になかっただろう。報知の記事は「惨殺の模様」の中見出しで事件当日について供述内容を記す。この行動が後で問題になる。
仕事後、行きつけの居酒屋に立ち寄ったが…
〈 当日(3月22日)、亀太郎は朝8時から付近の家屋取り壊しの仕事に雇われ、午後5時半ごろまでその仕事をして帰途に就いた。行きつけの居酒屋に立ち寄って焼酎数杯を飲み、いい機嫌でわが家に帰ろうとしたが、ふといつもの病気が起こって非常に湯屋がのぞきたくなった。どこがいいだろうと考えたすえ、道を転じて同村54番地、森山湯に行き、格子から中をのぞき見ると、折柄26~27歳の美人が湯から上がり、手早く化粧を終えて着物を着ているところだった。やがて表に出ようとしたので、亀太郎は少し身を避けて女を通し、ひそかに後をつけた。7~8間(約13~15メートル)歩いて行ったところを突然後ろから女に寄り添い、右手を伸ばしてのどを抱えて、左手を尻に押しつけ、声を出させないようにして同47番地の空き地に引っ張り込んだ。女が一生懸命逃げようとするのを力任せに引き倒してあおむけにしたが、女は組み敷かれながらも左右の足を跳ね上げ、声を立てて助けを呼んだ。人が来ては面倒と、ぬれ手ぬぐいで口を押さえ無理に暴行を遂げたが、女はそのまま気絶したものか、容易に起き上がらなかったが、死んだとは思わなかった。近道を歩いて家に帰ったのは夜の10時すぎ。23、24の両日も仕事をし、25日になって女の身元と気絶したまま死亡したことを聞いた。大変驚き、すぐ自首しようと思ったが、妻子のことを考えてそれもできずにいるうちに拘引された。〉
「生来怠け者でろくろく勉強もせず、放蕩者と父に叱られながら、女と酒に身を持ち崩していた」
報知の中見出し「犯人の素性」「犯人の家族」の記事の要旨は――。
〈父はかなりの植木職人で、本郷湯島で職人数人を雇っていたほど。亀太郎は小学校で多少文字を習い覚えたが、生来怠け者でろくろく勉強もせず、放蕩者と父に叱られながら、女と酒に身を持ち崩していた。
27歳のとき父が病死。亀太郎は誰にも遠慮が要らないのでわがまま勝手に遊び暮らし、湯島にもいられなくなって母とともに大久保に移住した。稼業を継いで植木職を営み、消防夫にもなったが、身持ちが悪く、金があれば飲む打つ買うに遣い果たして家賃も払えず、家主に追い立てを食らう始末。1905年、父の得意先だった材木商に泣きついて家を借り受けたが、1907年ごろからまた酒を飲み始め、月1円(現在の約3700円)の支払いも払いかねるほど。
亀太郎の妻は豊多摩郡中野町(現東京都中野区)の農家の三女だが、実家が金があることから、亀太郎が金を引き出すため、自分が裕福で将来有望とうそを言って嫁にもらった。一家は亀太郎の母(69)と妻(23)、長女(2)のほか植木職の弟子が1人いる。〉
「人は見掛に寄らぬ」
さらに「悪相の犯人」の中見出しで容貌について触れている。
「身の丈5尺2寸(約158センチ)ぐらい。小太りで色は黒く、眉毛は濃く、額は狭い。両頬がくぼみ、眼光鋭く一見猛悪(獰猛で悪い)の相を呈している」
4月6日付朝刊の他紙も社会面の大半を使うなど大々的な報道。犯行の自供内容はほぼ同一だが、特筆すべきは、東朝が逮捕第一報の段階で後年に広がる「出歯亀」という名称を紙面で使っていること。
主見出しから「大久保美人殺 出齒(歯)龜(亀)の自白」。その“ネタ元”の談話が「人は見掛に寄らぬ」の中見出しで載っている。
〈 池田亀太郎が親しく出入りした西大久保の植木屋の親分、伊藤鐵五郎は亀太郎の素行について次のように語った。「亀は一時あっしの子分でしたが、今日では縁も切っていますし、近来はまるで使ったこともありません。もっとも、以前から頻繁にあっしの家に出入りすることはありませんでしたが。やつは前歯が出ているので、仲間から出歯亀とあだ名を付けられていました。亀は元植木職でありますが、一時東大久保のとび職もやっていました。
性質はとび職に似合わぬおとなしい方で、植木をやらしても、それはなかなか精を出し、職人としては決して悪い腕ではないのです。
さっきよそから聞きましたが、幸田のご新造(奥さん)を殺したのはやつだと言いますが、実にびっくりしてしまいました。人は見かけによらぬものとは全くこのことでしょうよ。〉
記事の中では「出歯亀」に「でっぱかめ」の振り仮名が付いている。主見出しも同じ。読売と萬朝報でも、別の植木職やとび職の同業者が「出っ歯だから出歯亀と呼ばれていた」と証言している。「出歯亀」の「語源」は後で「出しゃばりだから」などの説が出てくるが、逮捕の段階でほぼ決定的な証言があったようだ。
4月6日付朝刊では東朝と日本が同じ亀太郎の顔写真、東日には別の顔写真が載っている。東京二六新聞にも、東朝、日本と同じ写真と思われる不鮮明なはんてん姿の全身像が。
また、何紙かに載っているが、実は4月5日には、亀太郎を同行させて「引き当たり」と呼ばれる現地調査が行われている。東朝は併用は挿し絵だが、同じ日付の「色魔の正体」が主見出しの萬朝報には遠景の写真が掲載されている。
「女湯をのぞきつつ〇〇をなし……」
東京二六新聞には逮捕の端緒かと思われるエピソードがある。前年の秋、新宿署管内派出所勤務の警官の娘が暴行された。警官は今回の事件が娘の事件と似ていると寝食を忘れて犯人探しに奔走。のぞきの常習者を追った結果、亀太郎が浮上したという。
「出齒龜は犯人に非ず?」「出齒龜非犯人の説」。そうした見出しが躍ったのは逮捕から約10日後の4月15日発行16日付都新聞夕刊と16日付読売、報知、國民の朝刊。「大久保犯人異説」が見出しの報知の記事を見る。
〈 近来の大惨事として都会を動かした大久保村事件の犯人、池田亀太郎は目下、原田予審判事の係で取り調べ中だが、予審終結を受け公判に移されるときには高木益太郎事務所員の弁護士、澤田薫氏が弁護を引き受けるはず。それは裁判所からの官選ではなく、大久保村役場職員の懇請から出たもので、職員と同村の4~5人の人々は、幸田ゑん子惨殺の犯人は、警官や検事の見るところと異なり、他に有力な嫌疑者か真の下手人があるとして澤田氏に依頼したものという。澤田氏もその方針に基づき、早くも反証の収集に着手し、奔走中とのこと。検事も真の犯人と信じて予審に付した亀太郎以外に犯人がいるかどうかはすぐには分からないが、聞いたままを記して公判で明らかになる事実と照らし合わせるべきだ。〉
4紙に同時に載っているということは、澤田弁護士が各紙に売り込んだのだろう。ここで注目されるのは、地元の一部住民の間に「亀太郎は犯人ではない」という見方があったことだ。
亀太郎は予審で「強姦致死」が有罪となり公判に付された。このときの予審終結決定書の「理由」は、新聞では「被告亀太郎は女湯をのぞきつつ〇〇をなし、これを楽しむの癖あり」と伏せ字にされたり、言い換えになったりして話題を呼んだ。
名称は“デンマークの出歯亀”にまで拡大し…
そうした新聞の大報道で事件と「出歯亀」の名前は一気に世間に広がった。同年5月11日付東朝の社会面コラム「途上見聞」には「出歯亀遊び」の話題が。
〈 出歯亀だ――。水道橋上の電車停留場の待合付近は子守りや腕白どものいい遊び場所だ。ソリャ出ツ(ッ)歯亀だーと10歳ばかりの男の子が歯をむき出して2~3人の女の子を追い回していた。白糸は染まりやすい。ご注意ご注意。〉
のぞきや追い回し、性犯罪に名前が流用された。「横濱(浜)の女出齒龜 湯屋を覗き歩く看護婦」=6月2日付國民朝刊=、「少年出齒龜」(少女2人に悪さをした17歳の少年3人が拘留10日に)=6月6日付東朝=、「栃木県の出齒龜」(26歳の男が恋慕していた農家の嫁に迫って断られ、鎌で重傷を負わせ、のち死亡させた)=6月18日付東朝=、「出齒龜病の伝染」(岡山県で14歳の少女が空き地で暴行され殺害)=同日付読売……。
7月2日付萬朝報には「丁抹(デンマーク)のデバカメ」まで登場。横浜に住むデンマークの33歳の男が26歳の女性を暴行して検挙された。あまりの“拡大”に、池田亀太郎の裁判には「元祖出齒龜公判」(6月25日付國民朝刊)の見出しが付けられた。
「そんなことは全く知りません。新宿署で刑事に圧制され、こらえられずに白状したんです」
いったん延期された亀太郎の初公判は6月1日。注目された法廷の模様を“軟派”で知られた6月13日発行14日付都新聞で見てみよう。
〈 毛頭も覺(覚)えなし (昨日の出齒龜公判、被告事實(実)の全部を否認す)
昨日はいよいよ大久保の色魔出歯亀の公判当日となったので、傍聴人は折柄の五月雨空に背中まではねを蹴上げて裁判所へ早朝より詰め掛けた。午前9時前には法廷の入り口はまるで飢饉年のお救い小屋で施行でも受けるような騒ぎ。廷丁がドアを開けると、潮が寄せるごとく瞬く間に満員の大人気。書生あり職人あり。中でも人目を引いたのは2人のひさし髪(の女性)。大久保辺の人らしく、小声で亀公のうわさをしている。〉
検事の公訴提起理由朗読に対して亀太郎は「そんなことは全く知りません。新宿署で刑事に圧制され、こたえられずに白状したんです」と全面否認した。
「審理の進行上、風俗を害するきらいがあるゆえ傍聴を禁止す」「危険につき女人禁制」
当日の足どりについての尋問が続くうち、立石(謙輔)裁判長は「審理の進行上、風俗を害するきらいがあるゆえ傍聴を禁止す」と宣告。傍聴禁止後の法廷で、「亀」は裁判長の尋問に答えて、「事件当日は朝から仕事をし、夜は酒に酔って自宅へ帰り、そのまま寝てしまったので、森山湯へも行かねば、被害者の湯上り姿をのぞいたはずもなく、まして殺すわけもない」と予審廷での申し立てを否認した(都新聞の要旨)。
6月15日付國民朝刊は初公判の記事に次のような見出しを付けた。「公判廷の出齒龜 出齒龜出齒らずと言張(言い張る)」。暴行致死という重大犯罪の裁判にしては、報道全体として態度が軽いように感じるが……。
6月16日付東京二六新聞は1面のコラム「二六ポンチ」で「今にこんな制札が立つであろう」の説明を付け、「これより大久保村」の道標がある集落の外れに「危険につき女人禁制 新宿署」という立て札が立っているポンチ絵を掲載した。
その後の公判でも被告・弁護側は一貫して「自供は警察官の拷問によるもの」とし、犯行を否認。被害者の夫や遺体を発見した巡査らは証言したが、弁護側が申請した被告の妻や鑑定医の出廷が認められなかったため、澤田弁護士は裁判官全員を忌避する一方、裁判長の「傍聴禁止」も繰り返された。
8月7日の論告求刑公判では、傍聴席が早々と満員になり、入りきれなかった傍聴希望者がドアが開くたびに廷内をのぞこうとしたことから、8月8日付東朝は「傍聴人も出齒龜式」と見出しを付けた。
弁護側は自供内容と現場の状況が合わないうえ「被告は女色は好まず」と主張。報じた同じ日付の読売は「出齒龜は果して犯人乎」の見出しで被告・弁護側に理解を示した。
1908年8月10日の判決。検察側の主張をほぼ全面的に認め、亀太郎に無期徒刑(現在の無期懲役)を言い渡した。被告・弁護側は控訴。控訴審には人権派弁護士として有名だった花井卓蔵らも弁護に加わったが、翌1909年4月の控訴審判決もあらためて無期徒刑。上告も同年6月に棄却されて刑が確定した。
言葉はたちまち流行語になり…
この間には「出歯亀」は社会に広まって定着した。「出歯る」まで「色を好むこと。姦淫すること」と小峰大羽編「東京語辞典」(1917年)に載るほど。1908年7月24日付読売にはこんな記事が載っている。
「見たり聞いたり 近頃、新橋、赤坂方面で『出歯亀の歌』というのがはやる。『おぼろ夜に 人影さえも絶えてなく 惨澹(さんたん)たるかな 大久保の 湯屋の帰りに 小夜嵐 哀れ艶子の身の最後』」
「亀太郎は冤罪」と訴える人々はその後も…
その後も「亀太郎は冤罪」と訴える人はいる。小沢信男「八十三年ぶりの『出歯亀』」(「新潮45」1991年2月号所収)は現地を歩いて立証しようとしている。
その記事が取り上げているのが、「瞼の母」など股旅物で知られる作家、長谷川伸の冤罪説だ。小説などの材料にするためらしい、書き損じの原稿用紙の裏に書き留められたメモが死後大量に見つかり、雑誌連載後「私眼抄」(1967年)として刊行された。その中に「出歯亀冤罪」という小文がある。知人の手記を基に亀太郎のアリバイを主張している。
〈 亀太郎が尼ヶ崎屋(居酒屋)で酒を飲んだのは午後七時半過ぎだ。そこから約1丁(約109メートル)の四谷大番町八、女髪結・吉田きく方へ行った。
「今日手間(賃)を余計もらったから一杯ひッかけた」
といって大の字になり入口三畳の間に寝入り、午後十一時頃、吉田方の者に起こされて帰った。家へついたのは十二時近くだった。〉
確かにこの通りなら、亀太郎のアリバイは成立する。ただ、この情報の正確さや、なぜこの話が警察や弁護団、メディアに伝わらなかったのかなど、疑問は残る。
「出歯亀冤罪」は「亀太郎が捉(つかま)ったと聞くと、女髪結は家の者に固く口止めしてしまった。拘(かかわ)り合いをおそれたのである」と書いている。さらに衝撃的な指摘もある。
「亀太郎の老母は倅(せがれ)の引致された後、生活がゆるやかになった。たれが扶助するのかそれは判(わか)らない。風説では『老母の面倒をみてやる』という条件で自白したというのだが、果してそうかどうか――」
そのうえ、早稲田大教授の目撃談などから、ゑん子と同居していた義弟の犯行の可能性までにおわせている。長谷川伸は「日本捕虜志」などをまとめた真摯な作家。いいかげんなことを書くとは思えない。それでも、この文章は大きな謎だ。
なぜここまでセンセーショナルに受け止められたのか
この事件がセンセーショナルに受け止められたのは、当時の文学界の動きと関連付けられたからでもあった。
亀太郎逮捕直前の1908年4月4日付東京二六新聞「二六ポンチ」に、妖怪の狒々(ひひ)が「自然派」と書かれた帽子を被って警官の前に現れた漫画が載った。説明は「自然派の大先生大久保に出没す」。狒々は好色の象徴とされる。
このポンチ絵は「出歯亀事件」と「自然派」を結び付けていた。伊藤整「日本文壇史12(自然主義の最盛期)」(1971年)は書いている。
「明治41(1908)年は自然主義といふ(う)名で呼ばれた作家たちの小説が最も目立つ(っ)たときであつた」
日本の自然主義(自然派)の文学とは、人間の内面をえぐり出して赤裸々に描くのが特徴。その代表格が前年雑誌に発表されて大きな反響を呼んだ田山花袋の「蒲団」だった。
〈「自然主義とは、性を生活の第一の要因と見て、𦾔(旧)道徳を崩壊させても省みぬ流派であるといふ通念が、文學(学)作品を讀(読)む習慣のない世人の間にも流布した。當(当)然この觀(観)念は卑俗化され、好色と露骨さとが自然主義の特色であるかのや(よ)うに安易に受け取られた」(「日本文壇史12」)〉
「さ(そ)ういふ雰圍氣(囲気)の中で、次のやうな刑事事件が起こつた」と同書は「出歯亀事件」を語る。「この事件が當時隆盛期にあつた自然主義と結びつけられ、自然主義なるものは出齒龜主義であると、しばしば揶揄(やゆ=からかう)的に言及された」。
自然主義文学の牙城の1つは「早稲田文学」で、早稲田は大久保とは目と鼻の先。「東京二六新聞」のポンチ絵はそのあたりのことまで含めて描かれたと思われる。
鷗外も漱石も「出歯亀」と…
「出歯亀」と「出歯亀主義」という言葉は当時の有名作家も使っている。知られているのは森鷗外が翌1909年に雑誌「昴(スバル)」に発表した「ヰタ・セクスアリス」だろう。主人公の哲学者に自然派小説への否定的見解を述べさせた後、次のように書いている。
「そのうちに出齒龜事件といふのが現は(わ)れた」
「それが一時世間の大問題に膨張する。所謂(いわゆる)自然主義と聯(連)絡を附けられる。出齒龜主義といふ自然主義の別名が出來(来)る。出齒るといふ動詞が出來て流行する」
夏目漱石も、ずっと軽い意味だが手紙の中で使っている。1908年8月3日の弟子・小宮豊隆への手紙。
「小説はまだかゝ(か)ない。いづれ新聞に間に合ふ様(よう)にかく。中々(なかなか)あつい。田舎も東京も同じくわるい人が居るのだら(ろ)う。此(この)分では極楽でも人殺しが流行(はや)るだらう。僕高等出齒龜となつて例の御嬢さんのあとをつけた。歸(帰)つたら話す」=「漱石全集第12巻書簡集」(1919年)=
文豪も使うほど言葉が広まっていたのだろう。そんな中で「出歯亀主義」を表す「デバカミスムス」を学術用語にしようとした法医学者もいたが、ほとんど広まらなかった。
女性暴行致死という凶悪犯罪が“軽薄”に受け止められた理由
この事件を振り返って感じるのは、女性暴行致死という重大な凶悪犯罪なのに、報道も法廷もどこか終始軽薄なことだ。なぜなのだろう。
池田亀太郎が冤罪だった可能性はあると思う。しかし、立証はもう不可能だ。そして、もし本当に彼の犯行だとしたら、女湯のぞきから暴行致死に発展した犯罪のうち、後半が忘れ去られて、前半ののぞき部分だけが人々の関心に残ったような気がする。
時は日露戦争後。大国ロシアに勝った歓喜の後に日本人を襲ったのは「不思議な無力感の弥漫(びまん=気分が広がる)だった」「日本社会の底には、むしろどす黒い停滞と無気力のムードが濃厚であった」=橋川文三「日本の百年4明治の栄光」(1978年)=。
特に目立ったのが、「出歯亀事件」でも浮上した学生の堕落。社会の停滞と無気力の広がりは、ついにこの1908年10月、明治天皇が国民に精神を引き締めることを求めた「戊申詔書」を出すほどだった。
そんな中で起きた「出歯亀事件」はやはり時代の気分を反映していたといえる。思想家、田岡嶺雲は雑誌「江湖」第4号(1908年7月号)の「江湖評論」の「出齒龜論」で警察とメディアを批判している。
1つ気になるのは…
1つ気になるのは、当時の新聞とはいえ、亀太郎の知的能力を疑っているような記事が散見されること。例えば初公判の記事。報知は「容貌極めてまぬけて見え」と記述。國民は「亀太郎はとんまよ薄馬鹿よとあざけられるだけあり」と書いた。
思い当たるのは1915年に出版された羽太鋭治・澤田順次郎「變(変)態性慾(欲)論」という研究書。中程度の知的障害者の犯罪として「女湯及び便所のぞき」を挙げ、名前を伏せ字にして「出歯亀事件」を例示している。警察の捜査も裁判も、そして新聞も、そうした視線で事件と亀太郎を見ていたのではないだろうか。事件をめぐる“軽さ”にはそうした理由もあったのでは?
獄中での池田亀太郎を著名な思想家が書き留めている。関東大震災直後に殺害された大杉榮だ。「獄中記」=「大杉榮全集第3巻」(1925年)所収=にこうある。
「出齒龜にもやはりここで會(会)つた。大して目立つた程の出齒でもなかつたやうだ。いつも見すぼらしい風をして背中を丸くして、にこにこ笑ひながら、ちよこちよこ走りに歩いてゐ(い)た。そして皆んなから、『やい、出齒龜。』なぞとからかはれながら、やはりにこにこ笑つてゐた。刑のきまつた時にも、『やい、出齒龜、何年食つた?』と看守に聞かれて、『へえ、無期で。えへへへ。』と笑つてゐた」
25年後の“再犯”
1922(大正11)年6月1日付読売にその後の亀太郎の記事がある。「十五年の苦役を終へ(え)て 出齒龜さん 服役中に母を失ふ 身寄の世話で神妙に植木屋をしてゐたが 此頃行方不明」の見出し。
「小菅監獄に苦役していたが、正直に勤めたのでだんだん刑も軽くなり、おしまいには官舎の植木いじりをして暮らしていたが、一度富山監獄に移され、それからまた豊多摩へやってきてちょうど15年目。当年一世のいわゆる『出歯亀』の名を響かせた亀太郎も49歳という寄る年波で、この3月に仮出獄となったのである」
この通りだと正味14年余り服役していた計算になる。その間に母親は病死。出獄後は人の世話で同じ植木職の家に居候。「ぼつぼつおとなしく稼いでいるらしい」と記事は結んでいる。
しかし、それでは終わらなかった。「老痴漢捕へて見れば 往年の『出齒龜』 長刑後もやめぬ湯屋のぞき 警察もあきれる」。そんな見出しの記事が報じられたのは、それから11年後の1933(昭和8)年5月5日付東朝夕刊。
〈 3日夜11時ごろ、牛込区(現新宿区)原町の某湯屋をのぞき込んでいる老人がいるのを密行中の早稲田署員が取り押さえた。これは、牛込区河田町13、某方同居、植木職・池田亀太郎といい、その昔、大久保方面で入浴帰りの人妻を暴行、絞殺し、いまなお「出歯亀」の名で世人に記憶されている有名すぎる痴漢と判明。係官もあきれて拘留処分に付したが、獄中生活の10年間、特赦出獄の恩典にも、若いころからの忌まわしい性癖は清算しきれず、その後、淀橋署でも一度湯屋のぞきで捕らえたことがある。2~3年前、頼りにする養女に死なれてからは全くの孤独で、ただ湯屋のぞきのみを楽しみに生きているらしい。往年その代名詞となった特徴の歯は既に全部医師の手で抜き去り、歯抜け老人となっている。〉
同じ日付の読売にも同内容の短い記事が掲載されている。25年後の“再犯”。これが「出歯亀」の消息を知る最後のニュースになった。その後の動静は分からない。
【参考文献】
▽「新明解国語辞典第六版」 三省堂 2005年
▽森長英三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
▽「新宿区史」 1955年
▽物集高量「百三歳。本人も晴天なり」 日本出版社 1982年
▽ 小峰大羽編「東京語辞典」 新潮社 1917年
▽長谷川伸「私眼抄」 人物往来社 1967年
▽伊藤整「日本文壇史12(自然主義の最盛期)」 講談社 1971年
▽夏目漱石「漱石全集第12巻書簡集」 漱石全集刊行会 1919年
▽橋川文三「日本の百年4明治の栄光」 ちくま学芸文庫 2007年
▽羽太鋭治・澤田順次郎「變態性慾論」 春陽堂 1915年=「編集復刻版 性と生殖の人権問題資料集成第29巻」(不二出版、2000年)所収=
▽大杉榮「大杉榮全集第3巻」 大杉榮全集刊行会 1925年
(小池 新)
小池 新