
ありし日の松井守男さん。左は記者をモデルにして紙袋に描いた作品=京都市の同時代ギャラリーで2021年5月11日午後5時2分、山田泰生撮影
フランスを拠点に活動し、20世紀最大の画家パブロ・ピカソとも交流した画家、松井守男さん(1942~2022年)が他界し、30日に一周忌を迎えた。遺骨は故郷・愛知県豊橋市の菩提(ぼだい)寺に眠る。「光の画家」として芸術の国で認められたが、「日本では無名の画家」と謙虚だった。コロナ禍が祖国での知名度アップの転機となっていただけに急逝が惜しまれる。
愛知・あま市の新庁舎ロビーに大作
ゴールデンウイークの明けた5月8日朝、愛知県あま市に開庁した市役所新庁舎ロビーで一枚の絵画がお披露目された。松井さんが08年に自宅のある南仏コルシカ島で描いた油絵の大作「書き初め」だ。
面相筆という豊橋特産の細い筆を使って幾重にも塗り重ねる作風が、縦2・15メートル、横5メートルの大画面から伝わってくる。交流のあった地元企業社長、服部章平さんが、新庁舎が文化の魅力を持つ場所にと期待を込めて、収蔵作品を寄贈した。
服部社長は「本来ならあま市で制作してもらう計画だったが」と明かし、贈呈式では「なんとか思いをかなえられた」と話した。村上浩司市長は「素晴らしい絵が玄関先に飾られ、ここ(新庁舎)に魂が入った」と感謝した。
葬儀に吉永小百合さんから供花も
松井さんは22年5月30日、虚血性心疾患のため、アトリエにしていた東京・神田明神近くのマンションで倒れて79歳で帰らぬ人となった。関係者によると、都内で営まれた密葬には親族のほか、親交の深いジャズピアニストの山下洋輔さんやデヴィ夫人も参列。絵のモデルを務めた俳優の吉永小百合さんからは供花を贈られたという。
一周忌にあたって横浜市に暮らす松井さんの姉、五十嵐千恵子さんは「私より早く亡くなるなんて思ってもいなかった。早く生まれ変わって戻って来て活躍してほしい」とコメントを寄せた。
日本滞在中だった20年以降、新型コロナの世界的流行でフランスに戻れなくなり、祖国での制作活動を精力的にこなしていた。転機は21年1月に放映されたNHKの「日曜美術館」。兵庫県・家島神社での制作活動を追った「コルシカのサムライ NIPPONを描く 画家・松井守男」と題した番組は高視聴率を記録した。
この年5月には京都・同時代ギャラリーで芸妓(げいこ)らをモデルにした「肖像画を描く」展を開催し、8月には自伝ともいうべき「夕日が青く見えた日 『ピカソが未来を託した画家』が語る本物のアート思考」(フローラル出版)を発刊した。
晩年のピカソと知遇 アトリエに5年通い
太平洋戦争下、豊橋の仕出し屋の家に7人きょうだいの6番目として生まれた松井さん。67年に武蔵野美術大を卒業後、反対した兄らを振り切って渡仏、画家の道へ。パリ国立美術学校で学んだが、いじめに遭った。晩年のピカソに知遇を得たが、独自の作風を確立したのは40代になってからだ。死を覚悟して面相筆でいろんな思いを塗り込めた85年の代表作「遺言」が評価され、「光の画家」として脚光を浴びたのだ。
03年に仏政府から最も栄誉のあるレジオン・ドヌール勲章を受章。05年愛知万博では、フランス・ドイツ共同館に「遺言」など3作品が展示され、当時のシラク仏大統領が「フランスの至宝」とまで激賞した。松井さんは半世紀あまりをフランスで暮らしたが、日本国籍を貫き通した。
「アートとは光を発するものでなくてはいけない」「誰もやっていないことをやりなさい」――。自著では、ピカソのアトリエに5年間通い詰め、助言してもらった言葉の数々を紹介している。最後は「『出る杭(くい)は打たれる』という日本語があるが、出る杭になることがみなさんの人生を輝かせる」と結んだ。
記者の肖像画も10枚以上
私(記者)は松井守男画伯に生前、10枚を超す肖像画を描いてもらった。出会いは、東日本大震災のあった2011年にさかのぼる。祖国復興にと名古屋市のギャラリーで企画された新作展を取材した。新作「復興」のモデルが吉永小百合さんと聞かされ驚いた。
「今度は君を描きたい」とモデルを請われ、またまたびっくり。忘れもしない5月13日の金曜日。着物姿で少年のような瞳をきらきらさせる松井さん。宿泊先のホテルで中年男の肌をさらす覚悟を決め、「書く側」から「描かれる側」へ身を委ねたのだ。
「よーし、よーし」と声を出しながら、こちらに注ぐ情熱のまなざしに心が震えた。画家と記者。同じ表現者とはいえ相手は一枚も二枚も上手で、私は取材のすべを忘れてされるがままだった――。
松井画伯の遺作は、愛知県ではあま市役所やホテルアークリッシュ豊橋で目にすることができる。神田明神境内に整備された文化交流館には大作「光の森」(縦2・5メートル、横10メートル)が奉納され、京都・上賀茂神社などではふすま絵を手がけている。
私の手元には冒頭の肖像画が額装されて残る。松井画伯にどこまで肉薄できたのだろう。「今度はコルシカ島のアトリエにおいで」と誘われてから12年。果たせなかった後悔の念がいまも渦巻いている。【山田泰生】
毎日新聞