
JAXA宇宙科学研究所に置かれたロケットのモニュメントと鈴木志野さん=相模原市
ふつうの生物ならとても生きられない環境を「極限環境」と呼ぶ。米国の研究所にいた鈴木志野さんが調査した米国カリフォルニア州の山奥は、アルカリ性が強すぎて植物がちっとも育たない不毛の地だった。だが、探してみると微生物はいた。ふつうの手法では見つからない、ヘンな微生物だった。
帰国して海洋研究開発機構(JAMSTEC)高知コア研究所に所属し、極限環境を求めて深海や地下圏にもサンプルを採りに行った。3年前に宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所へ。今年8月からは、理化学研究所にも研究室を構えた。
研究者の夫と「別居はしない」と約束して結婚。夫とともに7年間滞在した米国が、「科学の本当の面白さ」を初めて体験する場となった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子)
■CO2問題を解決できるかも
――私が取材のお願いをしたときは船に乗っていたそうですね。
はい、JAMSTECの海底広域研究船「かいめい」に乗っていました。2020年11月に宇宙研に移りましたけど、JAMSTECとの兼務が続いていて、今年3月にはJAMSTECのチームと船に乗って、土星の衛星エンセラダスの環境と似ているとされるマリアナ前弧域の海山を掘削して試料を採りました。また、8月は別の研究チームで沖縄トラフに行き、二酸化炭素が湧きだしている場所(CO2シープ)で試料を採った。こういうところには、特殊なエネルギー代謝で炭素固定をしている微生物が結構いる。だから、生命の多様な生存戦略を理解するだけじゃなく、これをいつか技術化できないだろうかという欲望が出てきているんですよ。
――二酸化炭素を食べる微生物がいるということですか?
そう、海中の酸素がない環境のなかで光合成とは違うタイプの炭素固定経路が動いている。これを技術化できれば、増え続けるCO2の問題も解決できるかもしれない。
だけど、そういう研究はここではやるのは難しいんですよね。宇宙の研究所だから。で、8月から理研でも研究室を持ったんです。
――へえ~、3つの研究所を掛け持ちとは、「引く手あまた」ですねえ。
引く手あまたというよりは、生命の生息限界や生命の起源を理解し、かつそれを利用していくには、1つの研究機関のみでは難しいと言うほうが正しいと思います。
――なるほど。2008年に米国に渡る前は、研究者をやめようと考えていたと聞きました。

鈴木志野さん=相模原市のJAXA宇宙科学研究所
ええ。東京大学の大学院でポスドク(博士号取得後研究員)として植物と微生物の相互作用の研究をしていましたけど、いろいろつらくて、最後は教授の指示と折り合いがつかず、最終的に研究室に行けなくなった。半年ぐらい行けないままで、このまま研究者をやめてしまおうかと考えていました。ちょうどそのころに結婚し、夫が米国のJ・クレイグ・ベンター研究所から誘われたんです。
――ヒトゲノム解読を民間の立場で強力に推し進めたクレイグ・ベンターがつくった研究所ですね。私は彼の話を間近で聞いたことがあります。ヨーロッパで開かれた会議に参加したとき、こぢんまりした部屋で記者会見が開かれたんです。研究者の枠を飛び越えたパワーをビンビン感じました。研究所は米国西海岸サンディエゴにあるんですよね。
■「あなたが幸せでなければ」
そうです。いいところですよ。たまたまなんですが、夫を誘ってくれた研究グループに、私が大学院で米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所(JPL)に2週間留学したとき知り合った研究者が入っていた。彼は米国人ですけど、日本の状況をよく知っていて、私が研究者をやめようとしているのを聞きつけて「アジアでは女性研究者が少ないんだから、やめてはいけない」「あなたが幸せでなければあなたの夫もいい研究ができない」などと励ましてくれた。それで、夫と一緒に米国で研究することにしました。
ところが渡米2カ月後にリーマン・ショックが起こり、私たちのチームの研究費がなくなるというまさかの事態になった。自分たちで研究費を取るしかなく、チームのメンバーがそれぞれ米国立科学財団(NSF)に提案書を書きました。そうしたら、私と夫が書いた提案書だけが2つ採択されて、3年間で億円単位の研究費がもらえることになった。夫は産業技術総合研究所から1年半の予定でアメリカに来たんですけど、予定を変更してそのまま2人ともJ・クレイグ・ベンター研究所の研究員になりました。
私が取り組んだのは、北カリフォルニアの個人所有の山奥での微生物探しです。ジープに乗ったまま川を7つも越えて行くんですけど、そこの泉はpH(水素イオン濃度。中性は7。数字が大きいほどアルカリ性が強く、小さいほど酸性が強い)が12もある強アルカリ性で、「生物なんていない」と思われていた。私の上司も「何もいないかもしれないよ」と言いつつ、わからないから調べてみよう、となった。

米国時代の一家。鈴木さんの左側は共同研究者のJ.ハイス・クーネン博士、右側はメンターのケネス・H・ニールソン博士=2014年、ニールソン博士の自宅にて、研究仲間のボー・バーカー・ヨーエンセン博士撮影
■ヘンな微生物が、いる!
実際に採ってきたサンプルを顕微鏡で見ても、微生物はいない。でも、泉の水を1トンぐらいフィルターでこしたら、DNAが採れた。これで「生き物がいるな」とわかった。さらにゲノム配列を決めてみたら、「これ何?」っていうヘンな生物で、自分が間違っているのか、何なのかわからない。もう一回採りに行って分析しても、やっぱり同じデータだし、もう一回行っても同じ。やっぱりヘンな微生物がいると結論づけた。
生命に必要な遺伝子は1500個程度とされていたのに、この細菌は400個程度しか遺伝子を持っていない。しかも、エネルギー生産に必須と考えられていた遺伝子を持っていないんです。ものすごく変な生物が、常識的に考えると生物がいなさそうなところにいた。こんな驚くべき事実に対して、私が好きに仮説を考えていいんですよ。未知の仕組みでエネルギーを獲得しているんだっていうように。今まで何の仮説も出てないから。これは解放感があって、自由だなと思ったときに、「あ、これが科学の面白さか」って思った。誰も見ていない世界を見た瞬間に、人ってもっと知りたいって思うんだなって思った。
■米国の自由な雰囲気
――成功するかどうかまったくわからない研究に取り組んで、思いがけない結果が出たわけですね。
そもそもこの研究は自分が提案したものだし、失敗しても自分で責任をとればいいだけなんで、気楽じゃないですか。誰も巻き込まないでいいから。だったら、無謀なこともできちゃう。米国の自由な雰囲気がそうさせてくれたのだと思います。
日本で学生をしていたころは、図1、2、3をイメージして研究しなさい、そうしないと論文書けないですよ、っていうようなことばっかり言われた。論文を書けないと職はないですよ、とも。それも真実ですが、そうすると研究をつい「置き」にいってしまう。アメリカに行ったら、科学ってそういうものじゃない。論文を目的化してはいけないと言われるわけですよ。だって、クレイグ・ベンターが人工生命の研究を、論文を書くためにやっているわけないじゃないですか。
――彼は20年以上前から人工細胞を作る研究をしていて、2016年には「最小のゲノムを持つ人工細胞を作った」と発表しましたね。確かに「論文を書くため」なんかではない。

山奥の採集地に10人ほどの研究者と一緒に行き、キャンプしながら4日間過ごして帰る直前、ホッと一安心の鈴木さんと長女=2011年、米国・北カリフォルニア
世界を前に進めるために研究しているわけですよ。そういう意味では、宇宙研も未踏の地に、独自の技術で探査機を飛ばすことを目指しているので、好きなんです。もちろん、はやぶさ・はやぶさ2をはじめとして探査機で得たサンプルで、インパクトのある論文が発表されている。今は、今年9月に打ち上げられたSLIM(小型月着陸実証機)が月に到着するのを楽しみにしています。そこで使われているピンポイント着陸技術も日本独自のものなんですよ!
■過酷な環境の微生物にシンパシー
――そもそも、どうして研究者の道に?
私は福岡の私立女子高に通っていたときにメンデルの法則に出会って感激し、生物学の勉強をしたいと思うようになった。だけど、大学入試にあんまり興味が持てなくて。大学は地元ではなく東京がいいとは思った。一方、あんまり競争の激しいところは嫌で、生物学科のある私立大学にいくつか願書を出しました。
私、極限微生物なんて研究するようになったのは、そういう過酷な環境にいる微生物にシンパシーを持つということもあるんですけど、この分野は競争が少ないっていうことも大きかった。1人で静かにサイエンスしたいと思って、マニアックといえばマニアックなこの分野を選んだんですよ。
ともあれ受験のときは、東京のおばあちゃんのところに泊まったんですけど、このおばあちゃんが口うるさくてね。
――おばあちゃんって、どちらの?
母方です。パンを食べるとき「斜めに持つな」とか言われて、高校生にとってはとっても面倒で、早く福岡の家に帰りたいなあと思った。最初に試験があったのが東京理科大学で、手ごたえが良かったので家に電話して「受かったと思うから早く帰りたい」と言ったら、母は「そうなの、だったら帰ってきたら」って明るく言った。それで、合格発表の前に福岡に帰りました。父からは、「ほかの大学の受験料がもったいない」ってちょっと怒られましたけど。
――アハハ、確かにもったいない。理科大に入ってどうでした?
免疫を勉強したくなったんです。そうしたら、3年生の実習のときマウスを殺さないといけなくなって。私は殺すのがつらくて、心が痛んでしまった。それで、微生物にしようと思った。微生物に興味があったわけじゃないんですけど、一番心が痛まないから。
4年生で微生物の研究室に入り、放線菌の研究をして、自分で考えてやっていくのは楽しいなと思って、修士までは行こうかと思った。ところがその先生は定年退職されるので、ほかを探さないといけなかった。試験管の中にいる微生物より、自然環境にいる微生物を研究しているところがいいと思って探したら東大(農学生命科学研究科)にあったので、そこに入りました。
でも、あんまり楽しくなかった。実験がうまくいかなかったというわけではなかったけれど、さっき話したように、論文を書くために研究しているようなところがあって。ただ、ほかの世界を知らないから、社会はこういうものなのかなあと思っていた。
――よく我慢しましたね。
子どものころに読んだエジソンとかキュリー夫人とかの伝記では、どんどん科学にのめり込んで、ご飯を食べるのも忘れる、みたいなことが書いてあったのに、大学院ではそんな面白いことには一度も立ち会えなかった。ただ、それはまだ修業が足りないからなのかもしれないと思い、科学の面白さが見えるときまではがんばって続けてみようかと思ったんですよ。
博士号を取ってから、岩手県釜石市にあった海洋バイオテクノロジー研究所というところの任期付き研究員になりました。海の研究を始めたのはここからです。南太平洋のパラオとかいろんなところに行ってカイメンなんかを採取して、そこから微生物を培養して、すごい楽しかったんですが、あるとき東大時代の教授や先輩から電話がかかってきて「研究室で大きな予算が取れたから、戻ってきてくれないか」というんです。迷ったけれど、何回も電話があり、釜石は寒いし、私は雪の上を歩くのが得意じゃなくてしょっちゅう転ぶし、父の転勤で両親が東京に引っ越していたこともあって、元の研究室に戻った。ところが3年目ぐらいで限界を迎えてしまい、研究ができなくなったわけです。
――そのころに結婚されたんですよね。どういう方と?
鈴木志野(すずき・しの)/1975年東京生まれ。長崎で育ち、中3の9月に福岡へ引っ越す。東京理科大学基礎工学部卒、東京大学大学院農学生命科学研究科修了、農学博士。(株)海洋バイオテクノロジー研究所、東大生物生産工学研究センターを経て2008年から米国J・クレイグ・ベンター研究所。2015~2020年海洋研究開発機構(JAMSTEC)高知コア研究所。2020年11月に宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所准教授となり、JAMSTEC超先鋭研究開発部門招聘主任研究員も兼務。2023年8月から理化学研究所の主任研究員も兼務する。
高橋真理子