
撮影:山崎デルス
漫画家・文筆家として活躍するヤマザキマリさんは、17歳のときに単身でイタリアに渡って以来、フィレンツェ、シリア、ポルトガル、アメリカなど、様々な土地で暮らしてきました。そこで出会った人との思い出を綴った著書『扉の向う側』が11月に刊行。古代ローマの魅力を伝えてくれたフィレンツェのカメオ店夫妻、リスボンのアパートの頑固で親切な隣人、キューバの海岸で夜を共に過ごした娼婦…。多様な人たちの生き様が映画のワンシーンのように鮮やかに描かれています。彼らとの出会いがマリさんの人生にどのような影響を与えたのでしょうか? 見知らぬ人との偶然の出会いが持つ“ご縁の力”について、じっくりと語っていただきました。今回はその前編です。
【写真】「(タクシーの運転手が)ぼったくろうとしている。わかっていても、あえて乗ってみたくなるんです(笑)」と話すマリさん
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見えている世界なんて、ちっぽけ
『扉の向う側』というタイトルの“扉”というのは、私がこれまでの人生で出会ってきた人たちを表しています。
世界のあちこちで偶然出会った人たちが、ふとしたきっかけで自分たちの扉を開けて、それぞれの過去や抱えている問題を見せてくれる。それによって私は世界の広さは目に見えている物理的なものだけではない、ということを痛感してきました。
国が変われば価値観や倫理観もまったく違ってきますから、苦悩や喜びも皆それぞれ。そんなことも含め、世界というものが、自分が見ているものよりも、はるかに大きいということを気づかせてくれた人たちとの出会いを描いたのがこの本です。
人生の重要な出来事が列車での出会いで決まった
今の私の人生を作り上げてきたのは「絶対」と言い切れるくらい、人との出会いによるものです。

『扉の向う側』(著:ヤマザキマリ/マガジンハウス)
「親は選べない」という言葉の通り、人生で最初に出会ったのが自由奔放に生きた母です。母は生まれ育った土地を離れ、自力で北海道に渡り、自分の生きる世界を開拓してきたエネルギッシュな人間です。
その母に「貧乏しても絵をやりたいのなら、それを理解してくれる人のいる場所を見て来なさい」と、14歳のときに約1カ月間、フランスとドイツをひとりで旅に出されました。子供を信頼していなければできない提案ですが、周りからは「なんてことやってるんだ」と散々非難されたようです。当然ですよね。
でも、その旅に出されたおかげで、ブリュッセルからパリに向かう列車の中で、イタリア人の陶芸家であるマルコ爺さんに偶然出会いました。私が1カ月も欧州を旅しているのに、イタリアを端折っていると知って激怒されました。全ての道はローマに通ずという言葉を知らんのか!と(笑)。
その後、母とマルコの陰謀で、日本の高校を途中で辞めてフィレンツェの美術学校に留学。その18年後にはマルコ爺さんの孫と結婚したわけですから…。私の人生におけるとても重要な出来事の数々が、たった一瞬の、偶然の列車の中での出会いで決まってしまったという。
なぜドラマチックな出会いが生まれるのか
あらためて考えてみると、本当に不思議なご縁です。
そもそも、私は「激」がつくほどの人見知りなので、自分から意図して、見知らぬ人と仲良くなろうとしているわけではありません。でも、縁がある人とは必ずどこかで出会うことになっているという確信は、経験上身についています。
マルコ爺さんとの出会いは、帰国後に母が文通というかたちで繋いでくれたことも大きかったと思います。
私だけだったら、手紙を書くなんて面倒で放ったらかしていたと思うのですが、誰でも燃費が悪いと思いそうな判断や行動に出ることが、むしろ人生の豊かさを左右する場合もある、ということでしょうね。
こうしたドラマチックな出会いが私の人生に多いのは、やっぱり風変わりな家庭で育ったからだと思います。
母子家庭であるとか、母が音楽家をやっていたとか。「人はこうあるべき」というこだわりがまったくない母に育てられたことで、私も、どこでどんな人に出会っても拒絶せずに受け入れられるようになったと言えるでしょう。
「こう生きるべき」というタガを持たない母親に育てられ、幼い頃から、自分には浮き沈みのない平穏無事な生き方はできないだろうと悟っていたことが、世界のあちこちで予測外の出会いやお付き合いを重ねるきっかけになったんじゃないかと思います。
人見知りではあっても、いったん出会った人には入念な洞察のスイッチが入ってしまうのは、私がもともと昆虫や動物の観察が好きだから、というのも関係しているでしょうね。人間の生態もまた好奇心をそそるのです。
意志の疎通のできない昆虫を面白がっていると、わりと人間の社会で起こっているどんな事象に対しても驚かなくなってくる。人間に対して過剰な理想というものが無い、というのもあるでしょうね。
自分の中の“ふり幅”が広がって
この本の中に出てくるエピソードのひとつに、ナポリでぼったくりのタクシーに敢えて乗った時のことが書かれています。
私はお人好しなのでしょっちゅう人には騙されるのですが、場合によっては騙されているとわかっていても、面白そうと思ったら、それに付き合ってみたくなることもある(笑)。
「ぼったくりなんて、けしからん!」っていう清廉潔白な考えの方なら絶対に乗らないでしょうけど、私自身若い頃に貧乏で苦労をしてきたこともあり、そんなふうにお金を稼ごうとする人の心理がわからないわけでもない。落語の世界にだってそんな人は沢山でてきます。人間なんてのはしょせんそんなものでしょう。
でも、騙されたおかげで、ナポリ湾が見渡せる高台に彼が案内してくれて、そこから茜色に染まった夕暮れの空と青く霞むヴェスヴィオス火山という息を飲むほど美しい光景を見ることができました。なにより、運転手の彼自身がその景色を見て「ナポリって素晴らしいでしょう、なんて美しい街に俺は暮らしているんだ」と泣いている(笑)。
5人の子供たちと妻の写真を見せてくれましたが、ぼったくりにしてはお得な価格だったと記憶しています(笑)。
そんな出会いを重ねて行くと、どんな相手に出会っても動じなくなるし、「許せない」と感じることが減っていく。自分の中の“ふり幅”が広がって、寛容性が増していくのが生きる強さになっていく感覚がある。世界のどこにいても自分は平気だ、という心地になっていく。
そもそも人間は本来、そうやって精神力を鍛えなければならない生き物なんだと思うのですけどね、昨今の皆さんは無駄のない燃費の良い生き方ばかり考えていらっしゃる。
自分の理解できないことを、シャットダウンして拒絶するのは楽です。けれども、それは人間としての機能をまんべんなく使っていることにならないと思います。寛容性というのは、人間という生き物が何より身につけるべきスキルのはず。
自分の価値観を相手にマウントするのではなく、相手が信じていることや正しいと思っていることを、いったんは理解を試みるというのは大事だと思うのです。他者を受け入れる幅が広がると、自分の生き方も自ずと楽になっていくのではないでしょうか。
人との出会いというのは、毎回そうした人間力を鍛えるチャンスになるのだと思っています。
ヤマザキマリ