いきなりプロで大活躍も、その後は低迷...1年目が一番凄かった選手といえば?

いきなりプロで大活躍も、その後は低迷...1年目が一番凄かった選手といえば?

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  • 更新日:2021/05/03
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現役時代の中日・与田剛(OP写真通信社)

1年目が一番凄かったルーキーといえば、真っ先に思い出されるのが、1980年、日本ハムにドラフト1位で入団した木田勇だ。

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契約交渉に際し、「契約金以外に土地百坪が欲しい」と異例の要求をして話題を呼んだ社会人ナンバーワン左腕は、1年目に22勝8敗4セーブ、防御率2.28、225奪三振という文句なしの成績を挙げ、新人王、MVP、最多勝、最優秀防御率、最高勝率など各タイトルを総なめにした。

特に後期(当時のパ・リーグは2シーズン制)は12勝4セーブと先発、リリーフにフル回転し、当時「週刊朝日」に連載中の山藤章二氏の世相風刺イラスト「ブラック・アングル」で、金太郎飴にたとえて「切っても切っても出てくる木田ハム」と紹介されたほど。9月25日の南海戦では、ライナーを股間に受けながらも、気力で11回198球を投げ抜き、新人では65年の池永正明(西鉄)以来の20勝目を手にした。

だが、「2年目のジンクスと言われますが、必ず20勝を」と誓った翌81年は、かろうじて2年連続二桁をマークしたものの、10勝10敗と大幅に成績ダウン。3年目の82年も6勝に終わり、ルーキーイヤーの輝きは、完全に色あせてしまう。1年目の活躍でオフが忙しくなり、オーバーホールができないままシーズンに突入したことや、球種が少なく、投球スタイルを変えられなかったことなどが原因といわれている。

その後、大洋時代の86年6月10日のヤクルト戦で初回に日本タイの1イニング4連発被弾、88年9月6日の広島戦で日本タイの5連続与四球、89年6月4日の広島戦で試合開始直後から3連発被弾と、たびたび珍記録で俎上に上がる寂しい晩年だったが、1年目の成績が突出して良かった分、2年目以降苦労した感がある。

中日の与田剛監督も、1年目が一番凄かった投手の一人だ。

ドラ1入団の90年は、8月15日の広島戦で当時の日本人最速157キロを計時するなど、50試合に登板し、4勝5敗31セーブ、防御率3.26で新人王、最優秀救援投手に輝いた。

だが、連投で肩や肘が悲鳴を上げるなか、痛み止めの注射を打って投げ続けた無理が祟り、翌91年は登板29試合、0勝3敗2セーブと失速。前年の疲労からキャンプでなかなか調子が上がらないのに、無理して投げた結果、背筋を痛めてしまったのだ。

ゴムチューブなどを使ったトレーニングで筋肉再生に成功した3年目に41試合登板、2勝5敗23セーブと持ち直したものの、4年目は5月に6試合連続リリーフ失敗で2軍落ち。球速も140キロ台前半に落ちていた。

その後、ロッテ、日本ハム、阪神と渡り歩いたが、毎年のように故障に悩まされ、かつての剛球が復活しないまま、00年限りで現役引退した。

本人は著書「消えた剛速球」(KKベストセラーズ)の中で、「たった1年かもしれない。その1年だけでも充分でないかと感じている。精一杯に輝くことができたのだから」と述べている。

与田の亜大の後輩にあたる木佐貫洋も、巨人入団1年目の03年に10勝を挙げて新人王を獲得し、07年にキャリアハイの12勝を挙げているが、球自体は、自己最多の180奪三振を記録した1年目が一番凄かった。「凄い」は、数字だけではなく、感覚も大きな要素を占める。その意味では、与田は数字、感覚ともに1年目が最高だった。

今度は野手。“野村ID野球”で与えられた役割に反発した結果、レギュラーの座を失ったのが、笘篠賢治だ。

1年目の89年に1番セカンドとして打率2割6分3厘、5本塁打、27打点、32盗塁で新人王を獲得。関根潤三監督の“のびのび野球”の下、個性がいかんなく発揮された。

ところが、2年目に環境が一変する。野球観が180度異なる野村克也監督が就任したのだ。

185センチと大柄な笘篠は、俊足とともに長打力も魅力だったが、大物打ちは池山隆寛や広沢克己で十分と考える野村監督は、長打を棄て、バットを短く持ってゴロを転がす脇役に徹するよう求めた。

にもかかわらず、笘篠は2年目のシーズン開幕後、4月20日の時点で40打数8安打1打点を記録していたが、8安打中、本塁打1、三塁打2、二塁打3と6本までが長打。あくまで自分のスタイルを貫いていた。

運命の分かれ道となったのは、同21日の広島戦。笘篠が2打席連続三振に倒れると、野村監督は5回の3打席目、捕手から内野手にコンバートされたばかりの高卒4年目、飯田哲也を代打に送った。2回1死一塁で、二ゴロを処理した際に、「(併殺を焦って)考えられん悪送球をやりおった」というのが理由だが、指示に従わず、一発長打を狙いつづけることに対する“懲罰交代”にも思われた。

飯田は左翼席中段にプロ1号を放ち、6回にも右前安打の3打数2安打。そして、この試合をきっかけに、笘篠に代わってレギュラーに定着する。結果論だが、後にゴールデングラブ賞を7度受賞する“天才”の台頭時期と重なったのも、不運だった。

笘篠は翌91年、主に2番打者として112試合に出場したものの、右肩の古傷が悪化し、打撃、守備両面に影響が出たことも災いし、年々出場機会が減る。94年に再起をかけて肩を手術したが、1年目の輝きは戻ることなく、99年の広島を最後にユニホームを脱いだ。

チームメートだった橋上秀樹氏は、肩の状態から選手生命が長くないと覚悟していた笘篠が、「残された人生は、自分のプレースタイルを貫いて、それで監督が気に入らなければ仕方がない」(「野村克也に挑んだ13人のサムライたち」双葉社)と腹を括っていたのでは?と、その心中を慮っている。(文・久保田龍雄)

●プロフィール

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」(野球文明叢書)。

久保田龍雄

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