
川崎市で路上生活をしている沖縄出身者に聞き取りをする水嶋陽さん=水嶋さん提供(一部画像処理しています)
神奈川県川崎市で路上生活をしている沖縄出身者たちのライフストーリーの記録集が、沖縄の日本復帰50年目に当たる5月15日に発行される。中心となって聞き取りに当たったのは、30年近く川崎市でホームレスの巡回支援をしている水嶋陽(あきら)さん(63)。ひざを突き合わせて聞き取りした計181人の沖縄出身者の人生模様が浮かぶ。
【写真】野宿をしている男性が「沖縄」とのつながりを意識するキーホルダー■学生時代から寿町に通う
大学で社会教育を専攻していた水嶋さんは、学生時代から横浜市中区の寿町に通っていた。日雇いで働く人たちと身近に接してきた経験をかわれ、横浜市がホームレス支援の拠点として設置した「横浜市寿生活館」で職員として勤務。40歳のとき、総額49億円にのぼる父親の事業負債を背負い、やむなく職員を辞職したものの、その後も別の仕事に就きながら川崎市内のホームレスの巡回支援を続けてきた。
■沖縄出身のホームレスが多かった
水嶋さんの活動が、寿から川崎にシフトしたのは1990年代。川崎市で野宿者が増え、事件に巻き込まれる悲劇が起きたのがきっかけだ。
ではなぜ、多くのホームレスと接してきた水嶋さんが「沖縄出身者」に関心を持つようになったのか。理由の一つは、川崎市内で出会うホームレスに沖縄出身者が多かったことだ。
川崎と沖縄のつながりは大正時代にさかのぼる。戦前は川崎の紡績工場に多くの沖縄出身者が就労し、戦後も京浜工業地帯に仕事を求めて多くの沖縄出身者が集まった。
水嶋さんらが1994年に立ち上げたNPO法人「川崎水曜パトロールの会」のデータベースと、2014年以降に配布した調査票から抽出した沖縄出身者は251人。今回冊子にまとめたのは、このうち181人分のヒアリングの記録だ。
「2004年以降で捉えれば、川崎市全域の野宿者の5~8%が沖縄出身者と考えていいでしょう。沖縄出身の野宿者が絡む刑事事件が起きた2000年以前はもっと比率が高かったと思います」(水嶋さん)
■退職時にパスポート取られ
水嶋さんは、川崎市でホームレス支援を始めた早い段階で、沖縄出身の野宿者たちの特異な点に気づいたという。
「まず言えるのは、パスポート持参で川崎に来た日本人は他にいません。これは決定的な違いです」
1972年の沖縄の日本復帰前に来た人は全員、パスポート(日本渡航証明書)を持参していた。水嶋さんが聞き取りをした1952年生まれの男性は、3カ月で勤務先の工場を辞めた。この際、会社に預けていたパスポートを取り返せなくなる。男性は知人を頼って大阪の運送会社で働き、1年後に大阪で沖縄の日本復帰を迎えてから沖縄に帰ったという。
「一時、非合法就労までして復帰を待って帰郷した。この人は自己主張もあまりしない、話しベタで、ひ弱な感じのおじさんです。でも、ライフストーリーを聞くと、驚くほどのたくましさで懸命に生き抜いてきたことが分かる。外見からは想像もできない、生身の人間としての存在感に圧倒されました」(同)
■郷土とのつながりの強さ
たびたび帰郷するのも、沖縄出身者ならではだ。
「川崎で野宿生活をしながら、沖縄に一時帰郷したり、沖縄で川崎の路上の情報を得たりもしている。こんなこと、他地域の出身者にはあり得ません。なんだろうこの現象は、と」(同)
沖縄以外の出身の人は、「もう故郷には帰れない」と思って野宿生活を続けている人が多い。しかし、沖縄出身者は決して安くない航空運賃を工面し、思い立ったら帰郷する。ただ、沖縄に戻っても、長くはとどまっていられず、川崎での野宿生活に戻るケースも多い。その理由についても水嶋さんは今後、解明していく予定だ。
■「沖縄軍団」で助け合う
特徴はまだある。沖縄出身の野宿者は身を寄せ合ってテント生活を送るなど、独自のネットワークを形成する傾向が強い。他の野宿者から「沖縄軍団」と恐れられるほどの結束力で、野宿の場所取りや生活物資の収集も助け合っていた。ウチナーンチュ(沖縄出身者)同士ということで意気投合して路上で酒を飲み、ホームレスではない沖縄出身者から職場を提供される事例もあった。弱い立場にある仲間をほっておかない特性も、沖縄出身の人にはより顕著であることもわかった。
一方で、飲酒絡みのトラブルが絶えず、アルコール依存で亡くなった人も少なくない。川崎市で沖縄出身の野宿者が加害や被害の当事者になる刑事事件が90年代~2000年頃にかけて相次ぐなど、支援にかかわる上で注目せざるを得ない面もあった。
水嶋さんは言う。
「ウチナーンチュの野宿者はある意味、ホームレスの代表格なんです」
■「おきなわ」のキーホルダー
水嶋さんらは13年12月に沖縄での事前研修を経て、14年7月から記録集作成のためのヒアリングに着手。「被差別体験」「沖縄文化とのつながり」「沖縄とヤマトとの違い」「沖縄との関係の継続性」など多岐にわたる質問項目からなる調査票を準備し、聞き取りに当たった。主な年齢層は聞き取り時、50代半ばから60代後半。中には、08年から断続的に14年間、野宿生活を続けている68歳の男性もいた。
今回の聞き取りで、川崎で路上生活をしていても、沖縄に関する情報感度が高いことが浮かんだ。高校野球で沖縄選出の高校の勝敗に一喜一憂する人や、辺野古新基地建設に関する動きを把握している人も多かった。情報源は主にラジオだ。
「野宿をしていて沖縄とのつながりを何で確認しますか」との問いに、キーホルダーを差し出す人もいた。沖縄本島をかたどったキーホルダーには「おきなわ」の文字が彫られている=写真参照。サビも混じる、年季の入ったキーホルダーには男性の故郷への思いがにじんでいた。
「川崎駅のベンチで、以前から知り合いだった人から聞き取りをしたときです。14年の調査時に49歳だったこの男性に質問したところ、言葉では回答せず、ニコッと笑いながらポケットから取り出したのがこのキーホルダーでした。彼の表情がすべてを物語っていて、キーホルダーを入手した経緯などをあらためて尋ねる気にはなりませんでした。なんかいいなと思って、『写真撮っていい?』と聞いて撮影させてもらいました」(水嶋さん)
横浜市や川崎市には沖縄出身者の親睦団体「沖縄県人会」もある。だが、こうした団体とは距離を置く人がほとんどだ。「県人会と関わりがありましたか」との調査票の質問に、「ある」と回答したのは1人だけ。現在の境遇や居場所を地元の人に知られたくない、との思いが見受けられる。
■弱者の連帯のヒントがここに
そんな川崎の沖縄出身の野宿者たちの生き方に、水嶋さんは「弱者の連帯」の可能性を見出そうとしている。
「厳しい環境の中で、地面を這いつくばって生きてきた人たちがほとんどです。集会やデモといった社会運動の枠やスタイルにはなじまないけれど、弱者固有ともいえる支え合いやつながりをもつ、この人たちには別の闘い方がある、と思わせられます。活動を始めた93年頃からずっと模索している弱者の連帯のヒントが、沖縄的共同性の中に隠されているように感じています。1人ひとりのウチナーンチュから話をじっくり聞くことで、その答えに近づけるのではないかと考えています」
冊子の冒頭にはこうつづられている。
「故郷を遠く離れ、ヤマト川崎にたどり着き、生き抜いてきた皆さんの強さ、弱さ、喜怒哀楽は、ヤマトの我々、そして野宿者たちに強烈な印象と大きな影響を与えました。それをなし得た沖縄人野宿者の生の深み、広がりを、少しでもこの特集で明らかにできたなら幸いです」
(編集部・渡辺豪)
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渡辺豪