「お前ら、甲子園はもうあきらめろ」なぜ選手たちに残酷な言葉を? 龍谷大平安・原田監督が人生で最も苦悩した「コロナとの戦い」

「お前ら、甲子園はもうあきらめろ」なぜ選手たちに残酷な言葉を? 龍谷大平安・原田監督が人生で最も苦悩した「コロナとの戦い」

  • 文春オンライン
  • 更新日:2022/08/06

「お前ら、甲子園はもうあきらめろ」――野球部を何度も甲子園に導き、誰よりも選手のことを考えてきた龍谷大平安高校の原田英彦監督は、なぜ残酷な言葉を吐かざるを得なかったのか?

【画像】選手に「残酷な事実」を突きつけた監督

第102回全国高等学校野球選手権大会の開催中止となった2020年のエピソードを、スポーツジャーナリストの小山宣宏氏の新刊『コロナに翻弄された甲子園 名将たちが伝えたかったこと』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

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選手たちに残酷な事実を伝え原田監督の真意とは? ©iStock.com

◆◆◆

「お前ら、甲子園はもうあきらめろ」

2020年5月20日、日本高野連から厳しい現実を突きつけられる発表があった。

第102回全国高等学校野球選手権大会の開催中止――。

この一報を聞いた原田は、監督として選手全員にどう伝えたらいいのか、結論を出せずにいた。不祥事で大会に出場できないわけでもなく、そうかと言って誰のせいでもない。新型コロナウイルスという得体の知れない疫病によって、選手、とりわけ3年生が甲子園に出場できる可能性の芽を摘み取られてしまったからだ。

「ああ言おう、いや、こう言うたほうがええかな……」

どう伝えたらいいのか、悩みに悩んだ挙句、夏の甲子園大会の中止が決定した直後、原田は選手全員を招集し、覚悟を決めてこう言った。

「お前ら、甲子園はもうあきらめろ」

耳にすると、きつい言葉のように聞こえるかもしれないと思ったが、原田は現実を直視させるべきだと考え、ストレートなものの言い方をした。だが、選手は全員、原田にじっと視線を向けていて、泣いている者は1人もいなかった。この光景を目の当たりにした原田は、「自分が考えている以上に選手は大人だった」と感服した。

さらに原田は続けた。

「あきらめることも大切や。どうしようもないことなのかもしれないけれども、コロナばかりは仕方がない。今のままだと立ち止まったままで、一向に前に進んでいかない。だからあきらめることで新たに目標を作って次に進んで行かなあかん」

龍谷大平安野球部は選手を獲るにあたって、積極的にスカウティング活動をしているわけではない。「平安で野球をやりたい」と希望した選手が、硬式野球部の学生だけで編成されたアスリートコースに合格した後に入部する。

「うちは野球だけでなく、普段から礼儀や言葉づかいなんかも細かく注意したりする。へたしたらどこよりも厳しい環境で野球をやることになるかもしれないんだぞ」

原田はこう入部希望者に問うのだが、「もちろんです。自分は厳しい環境で育ててもらえると思って、平安野球部を選んだんです」

全員がそう答えてくれる。そんな龍谷大平安野球部を愛してやまない選手たちに、「この子たちに晴れの舞台を踏ませてあげたい」と原田自身が強く願っていた。それだけに、選手全員に「甲子園はあきらめろ」と残酷すぎる言葉を吐くことは、原田自身もそのつらさを痛感していた。

一方で安心材料もあった。この時点で3年生の選手の進路はほぼ内定していたことだ。龍谷大平安では、1年生のときから原田と一対一で進路相談を重ねている。これはコロナとは関係なく、原田が監督に就任した当初から続けていることだった。

「大学に進学するのか。それとも就職するのか」は、3年生になってから決めることではない。早い段階から進路を話し合っておくことで、選手たちがどういった道に進むべきかをともに考えることは、指導者の務めだと原田は考えているのだ。

ただし、3年間の高校野球活動を当たり前のように終えようとしている選手にはこんなことを必ず伝えていた。

「大学に進学したら、4年間で大体1500万円かかる。1年間で350万円以上や。それもかかわらず、4年間、ちんたらちんたら野球をやってたら、親御さんはどう思う? そのことを真剣に考えたことがあるのか?」

親が一生懸命汗水流して働いたお金で野球ができるという事実に、選手のほうがピンときていないことがある。龍谷大平安の野球部で甘さや妥協を生み出しそうな選手がいるときには、「大学ではそうはいかないぞ」ということを示してやるのだ。

だが、このときは違った。2年の冬から3年の夏前まで、まともに野球ができなかったことで、進学して一生懸命野球に向き合おうとしていた選手がほとんどだったため、安心して大学に送り出すことができた。

「甲子園出場のチャンスは逃したけれども、大学で精進して、この先ひと花もふた花も咲かせてほしい」

原田がコロナ禍で苦しんだ3年生全員に託した思いだった。

コロナで潰えた「甲子園出場の夢」

6月1日に学校が始まると、その1週間後の8日に野球部の活動が再開された。3ヵ月以上まともに活動していなかったため、練習再開当初は入念にウォーミングアップを行い、基礎練習に時間を費やした。それ以上に原田が気にかけたのは、「選手の心の状態」だった。

たしかに練習は全員無事にこなしている。けれども、あれほど目標にしていた「甲子園出場」の夢がコロナによって潰えてしまった。目標がなくなったなかで、はたしてまともに野球と向き合えるのかが心配でならなかった。とくに3年生の心中を察すると野球以外に過ごす時間のなかで、同じ学年の選手同士で夜更かしをしたり、心が不安定になって眠れなくなってしまったりして、生活リズムが乱れ、結果的に学校生活にまで影響を及ぼしてしまわないかという懸念があった。

実際に何人かの選手は生活リズムが乱れ、野球と真剣に向き合えていなかった。そのなかにはチームの中心選手も含まれていたが、原田はどうしても叱ることができなかった。というよりも、叱る気になれなかったというのが正しいのかもしれない。

「目標がなくなった子どもたちに対して、『一生懸命やれ』というのは残酷なのではないか」

原田は彼らをおもんぱかっていた。

一方で、一生懸命野球に取り組もうとしている3年生の選手たちがいた。本来であれば投げやりになりそうな状況でも、歯を食いしばって頑張っている。彼らには残りわずかな期間、龍谷大平安野球部で充実した時間を過ごしてもらうためにも、原田は以前に比べ、寮に頻繁に通って選手の生活をチェックするようにした。

「練習で疲れているのだから、寮では自由に過ごさせよう」という原田の親心から、それまでは月2回程度しか顔を出さなかったが、週2〜3回足を運んでは、選手の生活をこまめに見るようにした。あるときは、寮を退出して消灯の時間が過ぎるまで、外から寮を眺めては灯りの点いている部屋を確認し、「なんでまだ起きとるんやろう? ひょっとしたら誰にも言えない悩みごとでもあるんやろうか?」と心配をすることもあったが、原田はそっと見守ることしかできなかった。

「野球が存分にできる日常」

2020年当時、原田の25年以上にわたる監督歴のなかで、もっとも苦悩したのはこのときだった。「疫病で野球ができなくなる」ことなど、それまでは一度も考えたことがなかった。当たり前の日常が、当たり前でなくなってしまうことのジレンマが原田自身にもあった。

荒れ果てた平安野球部の再建を託されて監督に就任した1993年、1年生のなかでキャッチボールがまともにできる選手は11人中2人だけだった。だが、「コツコツ練習を積み重ねていけば、やがてうまくなっていく」ことを願い、原田は辛抱強く指導してきた。そうして少しずつではあるが、確実に成果が出てきたことに、原田も喜びを感じていた。

だが、それは「野球が存分にできる日常」があってこそ、初めて可能となることだ。野球をやること自体に制限がかけられた日々を過ごすなかで、選手だけでなく、原田自身も内心は相当不安を感じていた。

練習時間は1日2時間しかとれない状況

夏の甲子園大会の中止が発表されてから19日後の6月8日、京都府高野連は京都市内で会見を行い、中止となった高校野球選手権大会・京都予選に代わる独自の大会を開催することを発表した。8ブロックによるトーナメント方式で、ブロックごとの1位を決める。7月11日から26日の平日を除く8日間で行い、7イニング制で8回以降はタイブレークを採用、龍谷大平安はAブロックから出場することが決まった。

練習はこれまでのように存分にはできないままだったが、代替大会が行われるだけでもありがたいと思えた。これは原田だけではなく、選手全員が同じ思いだった。

ただし、練習時間は「1日2時間」と決められていた。これは京都府と京都市の両教育委員会から発表された「府立と市立の高校の部活動は原則2時間」というガイドラインに沿うものだったからだ。コロナ以前は授業が終わってから16時から20時くらいまで練習していたのだが、コロナ禍では「18時まで」でスパッと練習が終わりとなってしまう。しかも、それまでの3ヵ月間はまともに練習すらできていない。

そこで原田は、限られた練習時間のなかで打撃練習に多くの時間を割いた。学校の休校期間中、どんなに近所で自主練習をしていたと言っても、バットを思い切り振ってボールを飛ばす練習はほぼ全員の選手ができずにいた。どんなに投手が抑えても、打てなければ勝てない――。原田自身、熟考した末の練習メニューだった。

「選手たちにTシャツを作ってやろう」

一方で原田は、「選手たちにTシャツを作ってやろう」と考えていた。原田が自らデザインして制作したTシャツを、1年生から3年生まで100人を超える全部員に贈ろうと決めていたのだ。

これに賛同したのが、現在プロ野球で活躍している平安OBの現役選手たちである。炭谷銀仁朗(2005年度卒。現・東北楽天)、酒居知史(2010年度卒。現・東北楽天)、髙橋大樹(2012年度卒。元・広島東洋)、高橋奎二(2015年度卒。現・東京ヤクルト)らが、「僕たちにもぜひ協力させてください」と言ってくれた。

プロで活躍する選手が多くお金を出して、後輩たちを陰ながらサポートしたいという粋な申し出に、原田は「本当にありがたい」と心から感謝した。

今まで体験したことのない、ひと言では表現できないほどの苦しい思いを抱えながら、「甲子園出場」という目標がなくなったなかで日々練習に励む選手たち。彼らの姿を見守ることと、「彼らがここで野球を終えて何年かした後に何らかの思い出になれば」という思いからのTシャツのプレゼントだった。

実際にTシャツが完成し、プロ野球に進んだOBたちの協力も得たという話を選手たちにすると、全員が「おおっ」と驚き、直後に笑顔を浮かべた。自分が今できる精いっぱいのことだったが、みんなが喜んでくれたことで原田も安堵していた。

大会が始まると龍谷大平安の快進撃が続いた。初戦の京都工学院に4対0で勝利すると、続く洛星を10対0、嵯峨野を7対0、最後の京都成章との試合では7対0と、投手がオール完封勝ち、見事にAブロックを制した。

ハイライトは最終戦だった。この大会は「オール3年生で戦う」と原田は決めていたのだが、先発の右腕・西本晴人(現・近畿大)が5回を無安打に抑えると、2番手の左腕・坂尾浩汰(現・日本大)、3番手の右腕・松本樹紀(現・愛知工大)が1回ずつを無安打に抑え、ノーヒッターリレーを完成させた。原田はこの試合の直後のインタビューで、

「最後に一番いいゲームができた。コロナで目標が奪われた彼らもやるせないと思う」

そう言うと、目を潤ませた。この後、選手たちと話したとき、涙を流している者もいた。甲子園出場の夢が果たせなくなった直後は、決して涙を見せなかった選手たちだったが、代替大会だったとはいえ、「できる力を存分に発揮してやり終えることができた」ことに安堵し、達成感を味わった末の涙だったのではないかと原田は感じていた。同時に「これで彼らも次のステージへ進めるはずだ」と胸をなでおろした。

「何も終着駅じゃないよ。こっから出発点だ」“甲子園優勝の夢”を失った明徳義塾の選手たち…落ち込む彼らを鼓舞した「馬渕監督の言葉」へ続く

(小山 宣宏)

小山 宣宏

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