なぜ09年に軽音部部員はパンクスから黒髪の内向的ロック少年に変わったのか?ハイスタからRADWIMPSへ、音楽史と異なる力学で行われる文化祭の選曲について

なぜ09年に軽音部部員はパンクスから黒髪の内向的ロック少年に変わったのか?ハイスタからRADWIMPSへ、音楽史と異なる力学で行われる文化祭の選曲について

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  • 更新日:2023/01/25
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矢野さんが軽音部の変化から感じた一般的なものとまるで違う音楽史とは――(写真提供:Photo AC)

授業に部活動、教員に生徒…。さまざまな要素で構成される学校とは、生徒と教員がそれぞれの身体でもって生きる場所であり、そんな躍動的な学校の姿を活写したいと話すのが現役の国語教員で批評家の矢野利裕さんだ。その矢野さんいわく、特に軽音部の変遷は時代を象徴しているそうで――。

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転向する軽音部

音楽と言えば、やはり軽音部が外せない。僕が母校の高校の非常勤講師として初めて教える側に立った2008年、仲良くなった生徒は軽音部に所属していた3年生の男子生徒だった。彼はパンクが好きだったのだが、入り口となっていたのは日本のメロコアだったようだ。

メロコアというのは、それまでのハードコア・パンクから派生するかたちで台頭したメロディアスなパンクのことである。日本ではハイ・スタンダードやブラフマンなどが火付け役となって、90年代後半から2000年代にかけて、若者世代を中心に大きなムーヴメントとなった。

1983年生まれの僕は高校入学時が1999年にあたるので、同世代にはメロコアに影響を受けた友人がとても多い。当時の軽音部はメロコアが主流であり、それこそ文化祭になると、吹奏楽部がサポートに入ってスカパンク(スカコア)を演奏する、という光景が見られた。

ちなみに言うと、僕の出身高校は大学付属であり同じ大学系列の姉妹校があるのだが、その姉妹校の同学年には、のちに人気メロコアバンドとなるトータルファットの面々がいる。同じ大学付属なので、トータルファットのメンバーとは必然的に同じ時期に同じ大学のキャンパスに通うことになり、そのときは友人と対バンなんかもしていた。彼らは当時から華やかで、キャンパスでも目立っていた。

パンクは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか

一度、やはりメロコアのバンドをやっていた高校の同級生を介して、メンバーのひとりと学食の同じテーブルでご飯を食べたことがある。むこうは絶対に覚えていないと思うが、まるで有名人と一緒に過ごしていたみたいで、僕にとっては一方的に良い思い出となっている。

そのときは、「パンクは日本語で歌うべきか/英語で歌うべきか」という、まるで内田裕也と松本隆による「日本語ロック論争」を再演するようなテーマで、トータルファットのメンバーと僕の同級生が熱い議論を交わしていた。

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『学校するからだ』(著:矢野利裕/晶文社)

同級生のほうは、「日本語の抒情(じょじょう)性をパンクに持ち込むのだ」という趣旨で、日本語パンクの可能性を語っており(彼は当時、ジャパハリネットが好きだった)、一方のトータルファットのほうは、Sum41やblink182といった海外のバンドの固有名を列挙しながら、メロコアの魅力を英語のまま日本で打ち出すことの意義を語っていた。同じ大学付属の姉妹校は、それぞれ日本語詞派/英語詞派として、微妙に対抗心を燃やしていたのだ。

議論としては、どちらもそれなりに説得力はあったと思うが、少なくともいまから振り返ると、それから長いあいだ音楽に対する情熱を失わずにバンドを続けていたのが、英語詞派のトータルファットのほうだったことは間違いない。いまでも彼ら(さらに言えば、その後輩バンドのグッドモーニングアメリカやビッグ・ママ)の活躍を見かけると、情熱を失わずに継続することの強さを感じる。

仲良くなった男子生徒のその後

話がかなり逸(そ)れてしまった。2000年代にメロコアがいかに若者の心をつかんでいたか、というエピソードである。

さきにも書いたように、このメロコアの熱は2008年の高校3年生においても継続されていた。ハイスタとかブラフマン、あるいは海外のグリーン・デイやオフスプリングといった、僕と同世代の友人が高校時代に熱中していた固有名は、2008年の高校生においてもじゅうぶん通用するものだった。

ところで、その仲良くなった男子生徒はそれなりに狼藉を働いていたようで、まったく模範的な生徒ではなかった。さきほど「軽音部に所属していた」と過去形で書いたのは含みがあって、僕と出会ったときに高校3年生だった彼は、そのときすでに軽音部を退部していたのだ。

聞くところによると、文化祭の打ち上げかなんかで飲酒をしたらしく、停学処分とともに退部をしたとのことだ。卒業後に訪ねてきてくれたことがあったが、そのときの話によれば、彼は当時、仲間とともに酒とタバコとスケボーを楽しんでいたらしい。学食で議論していた僕の友人とまったく同じような高校生活だ。

2009年のRADWIMPS

さて、翌年の2009年になると軽音部の高校生にパンクスはすっかりいなくなっており、代わりに存在感を放っていたのは、さらりとした黒髪の内向的なロック少年たちだった。

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自分たちは退部してしまうような無鉄砲な先輩たちに反発し、破壊的でないかたちで軽音部を運営していくことに決めたのだという(写真提供:Photo AC)

前年のパンクスとかなり印象が違ったため、「君たちはメロコアとかはやらないの?」と聞いたら、ロック少年、「そういうのは去年までです」ときっぱり。聞けば、自分たちは退部してしまうような無鉄砲な先輩たちに反発し、破壊的でないかたちで軽音部を運営していくことに決めたのだという。

興味深いのは、このような態度変更が音楽性となってあらわれていることである。新世代のロック少年たちは、3ピースのパンクバンドではなく、RADWIMPSのような4〜5人編成のオルタナ系ロックバンドを志向していた。

つまり、時代はすでに邦ロックのほうへと傾いていたのだ。飲酒をして停学になるような破壊衝動ではなく、内向的で鬱屈した思いこそが軽音部の高校生によって歌われるべきものとなっていた。高音のきれいなヴォーカルとともに。

ライターの成松哲さんによるミニコミ誌『kids these days! Vol.1』は、多くの高校の文化祭に足を運び、各学校の軽音部ライヴのセットリストを順位にまとめた労作にして名著だが、それを読むと2011年の各文化祭の傾向が見えてくる。

そこでは、モンゴル800やザ・ブルーハーツといったメロコアやパンク系のバンドが上位にある一方で、ONE OK ROCKやRADWIMPSといった新世代バンドが台頭していることも確認できる。また、両者を橋渡しするようにELLEGARDENが上位につけているのも興味深い。

もちろん、2009年におけるメロコアから邦ロックへの転換は、僕が勝手に世代間の物語を仕立てているところもあるだろう(書いてあること自体はすべて実話だ)。成松さんの分析によれば、当時起こっていたのは、そのような音楽性の変化以上に「軽音部内アニソンブーム」だったという。だからこそ、2011年のコピーバンド第1位は、アニメ『銀魂』の主題歌を歌っていたDOESということになる。

いずれにせよ、通常語られるところの音楽史とはまったく異なる力学で、文化祭の選曲はおこなわれているのだ。

高3女子の初期衝動

さて、母校の軽音楽部がメロコアから邦ロックへの転換を見せていた2009年、僕はかけもちで神奈川県の私立高校にも非常勤講師として勤めていた。ただでさえ通勤時間が長いうえ、勉強に対するモチヴェーションが低い生徒も多く、けっこう苦労した講師2年目だったことを覚えている。

とはいえ、そのなかでも忘れがたい思い出というのはある。

ある午後の授業中、どうにも勉強に身が入らない高3のクラスで雑談をしていたときのこと。どのような流れでそういう話になったのか覚えていないが、内容は「昨日ブックオフに行ったときにさあ……」みたいなものだった気がする。

ある生徒に「ブックオフでなに買ったんですか⁉」と聞かれたので、「知らないかもしれないけど、おにんこっていうバンドのCDが安くあったから買った」と答えると、さっきまで退屈そうに突っ伏していた女子生徒はガバっと起きて言った。

「わたし、おにんこ知ってるよ!」

正直、彼女がおにんこ!というそれなりにマニアックなバンドを知っているとは思わなかったので、なにかと勘違いしているのだろうなと思った。しかし、もう少し話をしてみると、その女子生徒がたいへんな音楽マニアだったことが判明する。

というのも彼女、もともと戸川純さんの大ファンだそうで、最近は赤痢(!)なんかも聴いているとのこと。僕も彼女も学校でそんな話ができる機会があるなんて思っていなかったので、「赤痢なんて聴いてんの⁉ すごいな!」とか言い合っているころには、お互いにとてもテンションが上がってしまい、周囲のクラスメイトをすっかり置いてけぼりにしていたような気がする。

さらに話を聞いていると、彼女、自分も3ピースのバンドを組んでおり、円盤(高円寺にある有名な自主盤屋。現・黒猫)に自主制作のCD-Rを置いてもらっているということだった。

ということで、初期衝動としか言いようのない、行き場のない怒りと音楽の喜びがぐちゃぐちゃになった自主CD-Rを円盤に買いに行って、その後はしばらく愛聴していた。彼女はその少しあと、日本マドンナという女性3人組のパンクバンドのフロントマンとしてインディーズデビューすることになる。

彼女のその後

デビュー後、僕も何回か日本マドンナのライヴを観に行ったけど、彼女の演奏は、荒々しくてエモーショナルで素晴らしかった。さらに言うなら、同世代でロックバンドをしていた、高くてきれいなヴォーカルをした男の子たちの、その内向きの自意識を蹴散らすような堂々としたたたずまいだった。当時の代表曲は、「村上春樹つまらない」「幸せカップルファッキンシット」あたりだっただろうか。

そんな日本マドンナは当時、音楽ライターの松村正人さんから次のような評価を受けている。

女子高生という、宮台真司以降特権的に語られてきた場所からセカイに手を伸ばす彼女らにはディケイドの違いにもかかわらず、似たような愛憎は息づいており、愛とか憎しみとかにはにかむ女子高生らしい気持ちもまた持ち合わせている。世代論や、まして年の差なんて詭弁にすぎないといいたい私がいる一方、「東京で深呼吸をした、まるでコカインのようだ/私の肺は東京になり、それは東京病と言った」と歌われると、両肩にのしかかるリアリティに前屈みになり、彼女たちが「村上春樹つまらない」で切って捨てた村上春樹が『アフター・ダーク』でゼロ年代に描ききれなかった90年代の渋谷=東京をテン年代の女子高生が皮膚感覚で感じかつ更新したのに驚かざるを得ない。――「BITCHFORK DISC REVIEW 00’S 2000-2010」『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』

授業は無気力気味で、最低限の課題をこなしたうえで、わりと好き勝手な感じでふるまっていた印象だった。くだんの村上春樹も授業の合間に読んでいたことを覚えている(そのときは、『辺境・近境』だったか紀行文を読んでいた記憶がある)。

彼女にとって大事だったのは、学校的な「こうしなさい」という規範の外に出ることだったはずである。理性的なだけの論文指導では、そのような規範を相対化するのはなかなか難しいだろう。当時の彼女にとって、そのような規範を打破するような力強さをもっていたのは、戸川純のような生々しいまでの身体の表現だった。

彼女は軽音部でバンド活動をしていたわけではない。彼女にしてみれば、部活動もまた、つまらない学校的規範とともにあったのかもしれない。だからこそと言うべきか、教員-生徒という関係を一瞬離れ、学校ではなかなか見せることのない趣味の部分で盛り上がった感触が印象深く残っている。教員として思うのは、彼女が抱えていたであろう初期衝動をかたちにすることに、いかに教育は関わることができるのか、ということだ。

僕は小論文の授業を担当していたが、彼女の内側には言葉にならぬ感情がうごめいていたことだろう。国語の教員としてそのような感情のうごめきをおもてに出すことは、残念ながらできなそうだ。というか、そんなことにまで介入すべきなのかもわからない。

※本稿は、『学校するからだ』(晶文社)の一部を再編集したものです。

矢野利裕

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