
"取り壊し前に公開された旧鈴鹿海軍航空基地の格納庫=2011年2月20日、三重県鈴鹿市白子町"
■落合郁夫さん(92)=津市
1945(昭和20)年5月、いまの三重県鈴鹿市の第二海軍航空廠(しょう)に動員された。旧制高田中学3年の14歳の時だった。職場は海軍航空基地の二つの飛行場に挟まれた格納庫だった。職長の指示で戦闘機の脚の収納、翼のフラップの作動などの調整、修理をした。胴体の中に入り、ワイヤをつなぐ。汗だくだった。毎日2時間の残業をした。
ゼロ戦も修理した。操縦士が愛機をなでていった。新しい戦闘機や偵察機の話をしてくれた。すごいなと思った。7月、滑走路に呼び出された。「帽振れ」。ゼロ戦が1機飛び立った。特攻だった。風防を開け、白いマフラーをなびかせていた。
寮で生活した。食事の量が少なく、いつも空腹だった。夜に食堂に忍び込んだが、何もなかった。4時間残業すると、夜食が出るという。志願してみたが、薄いおかゆが出ただけだった。