「ギフテッド」で「ろう」の女性が教員になろうと思った理由 米国留学で出会った教授から伝えられた「救いの一言」

「ギフテッド」で「ろう」の女性が教員になろうと思った理由 米国留学で出会った教授から伝えられた「救いの一言」

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  • 更新日:2023/05/26
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知能の高さゆえにさまざまな生きづらさを抱えていることも多い「ギフテッド」。【前編】ではIQ130を超え、かつ「ろう者」でもある女性が「障害があるのに何でもできる」ことが原因で理不尽ないじめを受けたことを紹介した。その後、女性は親からの重圧と周りからの目に翻弄され、心を病んでいくことになる。どん底だった女性を救ったのは米国への留学だった。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集>

※【前編】<「障害者はバカでいたらいいのかな」 IQ130台の「ギフテッド」で“ろう”の女性が小学生で受けた理不尽ないじめと葛藤>から続く

【写真】「障害者なのに何でもできる」ことでいじめられた小学生時代*  *  *

■「あなたのために」親の重圧

家庭環境はどうだったのか。尋ねると、女性はまた険しい顔を浮かべ、キーボードをたたき始めた。「褒められた記憶はない」「社会に出たら周りは聞こえる人ばかりなので、親は早くから慣れたらいいと思ったみたい」「当時は親に殺されるって思っていました。親は今は反省しているみたいですが」……。

「将来のために」と厳しくしつける両親だったそうだ。だが、聴覚障害がある子どもにこれほどつらい思いをさせることが信じられなかった。親が抱えていた不安はどういったものだったのだろうか。

女性によると、両親は女性が幼少時代、医師から「将来話せるようになるか、仕事に就けるかはわからない」と言われていたという。そのため、女性が将来一人で生きていけるようにと、聴者と同じ環境で育てようと考えたという。「聴者に認められるには勉強ができないといけない」「あなたのためにやっているの」などと、繰り返し言われた記憶が女性にはある。「親の前では『できる自分』を見せ続けなければならなかった」と振り返る。

■学校と家庭、引き裂かれる心

今では信じられないことだが、女性が生まれた1980年代はまだ、手話を使うことは多くのろう学校で禁止されていた。障害者基本法の改正で、手話が言語であると初めて明記されたのは2011年。それまで聴覚障害者には、相手の口の形を読み取り、それを真似ることで言葉を発する「口話教育」が盛んに行われていた。

女性も今でこそ手話を使ってコミュニケーションをとるが、子どものころは両親や教員から「手話を使わないように」と言われていたそうだ。また教員から「いろいろな体験をさせて」とも言われていた両親には、キャンプや釣り、スキーなどによく連れて行ってもらったという。小学生のころは、スイミングスクールやエレクトーン教室などにも通い、家庭教師もついたという。

女性は当時を「何に対しても成績を残さないといけないと思っていました」と言い、「ここまでやれば認めてくれるかなって感じでやり続けていました」と振り返る。

親の期待に応えるには「できる自分」を出さなければいけない。しかし、学校では「できない自分」でいたい。女性の心は、次第に引き裂かれていった。家では何も話さなくなり、「死にたい」と考えるようになっていたという。エレクトーンや習字で失敗すると、自分で手や足を赤くなるまでたたいたりつねったりするようになっていった。

「親は、自分たちが死んでも私が一人で生きていけるようにという思いだったと思います。ただ私は、『できる自分』と『できないでいたい自分』との間で、どうあればいいのかわからなくなっていきました」

■「がんばってるね」の一言が……

進学校の県立高校に進むと、親は喜び、厳しいことは言わなくなった。そこで、女性はようやく「できる自分」を封印することができた。「できない人」は親しまれやすいと思い、テストでわざと20点や30点をとってはクラスで笑いのネタにして楽しんだ。ダウンタウンや明石家さんまなどが出ているお笑い番組を見ては、ものまねをしたり「どうウケるか」を考えて友達とはしゃいだりした。「いじめはなくなり、友達もできました」。

だが、「聞こえないのにすごいね」「聴覚障害があるのに、よくがんばっているね」。そう言われるたびに、女性は違和感を覚えた。勉強ができるのは、自分にとっては努力したことではなく、普通のこと。なのに、障害があるだけで、「がんばっている」と見なされるのが、つらかった。「だって、聞こえないことと、能力は関係ないはずですよね?」。

その通りだ。だけど、あらためてそう問われてみると、私の内心にも、ろう者に対して「聞こえないのはかわいそう」とか、「聞こえないのに頭がいいなんてすごい」といった考えがないとは言い切れない。

そのことを認めると、女性は「そういう心理的な反応は自然なことだと思います」と言った。大事なことは、「うちの親のように、振り返って、あれは先入観があったかもと考えることではないでしょうか。心理的なバイアスは誰にでも起きますから」。そう淡々と語る女性の姿を見ていると、何度もそうした偏見や差別に悩み、葛藤してきたのだろうと想像できた。

■米国で認められた「スペシャル」な能力

女性の学生時代の話に戻る。地元の進学校を卒業した女性は浪人し、その後、地方の国立大学に進み、別の国立の大学院も出た。教育や心理学を学んだが、「できる人とできない人のどちらにも嫉妬して、心がめちゃくちゃ」な状態だったという。さらに不安定になった女性は、「自分はいるべき存在じゃない」とリストカットなどの自傷行為を繰り返していた。

転機は、米国への留学だった。語学を学んだあと、米国の聴覚障害者が多く通う大学院に入った。留学4年目のある時、心の不調を訴えると、学部長から「知能検査をしてみよう」と勧められたという。

知能検査の「WAI-IV」を受けた結果、四つの指標のうち、作業の速度を測る「処理速度」がIQ140と極めて高いスコアが出た。目で見た情報から形を推理する「知覚推理」もIQ117と高い数字が出た。一方、ことばの理解力や推理力、思考力を示す「言語理解」はIQ98、「ワーキングメモリー」はIQ95と平均的だった。

女性は「ただ、びっくりでした。なんとなく人より高いとは思っていましたがまさかこれほどとは」。そして、学部長に伝えると、「驚かないよ」と言ってくれた。

学部長から、「レポートが理路整然としていて深く考えていたから、普段から教授陣の間で評価していたんだ」と伝えられた。そして「今まで出会った中でスペシャルな生徒の一人だ」とたたえてくれた。障害に関係なく、自分の能力だけを認めてくれたことがうれしかった。

「学部長との出会いが大きかったですね。ずっと『できる』ことで嫌な思いをしてきたので、『できる』ことの良さを自分で感じたかったし、人にも思われたかったんです」

■可能性を閉ざさない

教員を志したのは、そのころだ。米国のろう学校で、小中学生に将来の夢を聞く機会があった。子どもたちはなりたい職業よりも、「自分はバカだから」「周りの大人がそうだから」といったイメージで将来を考えていた。

日本のろう学校で知り合った子どもたちも同じことを言っていた。手話を使えば、子どもたちは豊かな表現をしたり深い考察をしたりと、それぞれに光る才能がある。しかし聴覚障害があるというだけで、自分の可能性を閉ざしている。

「子どもたちの様子を見ていると、自分の経験が何か役に立てるのではと思いました。それぞれが『できる』ことを、親や先生、何よりもその子自身が考えて学ぶ力を育てたいと思ったんですね。私は苦しかったけれど、大学院や留学をして聴覚障害に関して専門的に学ぶ機会に恵まれたのはたしかで、自分の『できること』がポジティブになるかもと思いました」

日本に戻り、教員になってまもなく10年になる。

社会には今も、ろう者に対して「かわいそう」「頭が悪い」「音楽に親しまない」といった先入観があると女性は感じている。

ろう者の中にも、手話はできるのに日本語がうまく読み書きできないことを理由に「勉強ができない」と思い込む子が多い。

そんな子には、「手話はばっちり。日本語に置き換えるのがまだ難しいね」と伝えている。手話と日本語を区別して評価すると、自信を持てる子どもは多いからだ。聞こえないことを理由に、できる、できないを評価するのではなく、その子の得意なことと苦手なことを見つめ、一緒にどうするかを考えられる教員になりたいと思っている。

女性は「それぞれが持つ才能をそのまま発揮できる社会になればいいと思います」との思いを私に伝えてくれた。

(年齢は2023年3月時点のものです)

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