便利な世の中になった。
本当に便利になった。
掃除も洗濯も調理もお皿洗いだって全部機械がやってくれる時代だ。
もしも江戸時代の人に今の私たちの暮らしぶりを見せてあげることができたなら、私たちは魔法使いに見えるかもしれない。
これだけ便利な世の中になっても、私たちは満足するということを知らず、もっともっと便利なものが登場してくるのだろう。
ここで一つの疑問が生じる。
それは、『これだけ便利な世の中になったにも関わらず、私たちはいまだに時間に追われ続けている』ということだ。
便利になって時間が効率化された分、私たちの毎日には余裕が生まれてもいいはずだ。
便利さに比例して、豊かさが上昇してもいいはずだ。
でも実際はそうはならない。
いまだに家事は大変だし、残業がなくなる気配は一向に見られない。
それは何故だろう?
よく考えれば誰でもわかることだか、効率化によって確かに時間は生まれている。
それは間違いないだろう。
しかし、その空いた時間に私たちはただぼーっと過ごすことができないのだ。
時間が生まれたけれど、その時間は今度は別の何かを消費するのに使わないといけない。
本当はみんなぼーっと過ごしていたいのかもしれない。
でも、時間が生まれた分、別の何かに時間を使わないといけないように世の中が仕組み化されているのだ。
この世の多くのビジネスは、本当は必要のないものを必要だと錯覚させて、消費者に商品を買わせ、時間を消費させることが本質だからである。
(もちろんそれは私たちが役に立っていると感じるから価値が生じているのだがら全てが悪なのではない。)
ジューサーを買えば、毎朝ジュースを作らないといけない。
新鮮な野菜や果物を購入しないといけなくなるし、使ったあとはお手洗いが必要だ。
衣類スチーマーを買えば、服のシワを伸ばさないといけない。
これまで以上に服のシワが気になるようになるかもしれない。
コーヒーメーカーを購入すれば、毎日コーヒーを飲まないといけない。
自分でコーヒー豆を選んで購入する必要もあるし、分解してお手入れする作業は死んでもやりたくないくらい面倒だ。
確かに、私も便利なもののお世話になっているし、本当に素晴らしいものは心から素晴らしいと思う。
しかし、そろそろ便利なものが飽和しているということに、私たちは気づかなければいけない。
『それは本当に必要なのか?』と。
『かえって、時間を失うことにならないか?』と。
『それは本当に便利なのか?』と。
掃除機を断捨離した。
元々掃除機を手放す気はなかった。
でも掃除機が壊れたのだから仕方ない。
ダイソンを買おうか迷いに迷ったが、しばらく掃除機なしで生活することにした。
掃除機なし生活、これが存外悪くない。
床をふきんで(正確にはキッチンペーパーを雑巾の代わりとして使っている)拭き上げるのだか、これがびっくりするくらい床が綺麗になるのだ。
掃除機がなくなって以来、私の部屋は前よりも綺麗になったと思う。
私は掃除機を捨ててみて初めて、掃除を少し楽しいかも?と思ったのである。
本来、掃除なんて雑巾さえあれば十分なのだ。
ルンバがなくたっていいのである。
ルンバは本当にあなたの時間を増やしてくれるのか?
ルンバを購入するときに機種を選定する時間、ルンバのお手入れをする時間、ルンバが壊れて処分する方法を考える時間、これらを考慮した上で、本当にあなたの時間を増やしてくれていると言えるのか?
かえってあなたの考えなければいけないことを増やしているのではないか?
便利なものを購入することによって、やらなくてもいいことは増えるけど、別のやらなければいけないことも増えるということも考えなければいけないと思う。
便利なものが増えれば増えるほど、私たちはその分豊かになるわけじゃない。
便利もいいが、不便だからこそいいことだってあるのかもしれない。
AI絶頂期、まさにシンギュラリティ(技術的革新点)という言葉を強く意識せざるを得ないこの時代に、時代に逆行することを考えている私である。
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