母親は被爆の後遺症に苦しみ、兄も生後まもなく他界...神戸の女性「原爆が憎い」

母親は被爆の後遺症に苦しみ、兄も生後まもなく他界...神戸の女性「原爆が憎い」

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  • 更新日:2022/08/07

「原爆の恐ろしさを皆さんに知っていただき(中略)核反対を訴えねばならない」。被爆2世の浜口幸子さん(74)=神戸市垂水区=は、2012年に90歳で亡くなった母、梶原都子さんが残した手記を携えて6日、広島市であった平和記念式典に兵庫県遺族代表として初めて参列した。兄章義さんは胎内被爆して生後間もなく命を落とし、都子さんも長く後遺症に苦しんだ。持参した両親の遺影を見つめて「母の思いを受け継いでいきます」と誓った。

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平和記念公園の式典に初めて参加した浜口幸子さん=6日午前、広島市中区中島町

1945年の原爆投下当時、都子さんは妊娠4カ月で、爆心地から約5キロ離れた広島県府中町に住んでいた。夫の雪夫さんは同町にあった東洋工業(現マツダ)の従業員寮を管理しており、当日はいずれも町内にいてけがはなかった。

ただ寮の住人らは、空襲時の延焼を防ぐために建物を取り壊して空間をつくる「建物疎開」の作業で広島市内に出ていた。雪夫さんは住人の安否確認のため、市内を巡った。都子さんも市内に入り、2人は残留放射線で被ばくした。翌年1月に章義さんが生まれたが、14日で亡くなった。

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48年に幸子さんが生まれた。一家は山口県を経て、58年に神戸市長田区に移住した。雪夫さんは仕事に打ち込み、都子さんは原爆の後遺症で家事ができず、ほとんど横になっていた。幸子さんは幼いころから家事を担い、「学校から帰ったら掃除や料理。なんで私ばっかりと思った」。

両親が原爆について語ることはあまりなかった。しかし雪夫さんが50歳手前で胃がんを患い、定年後すぐの77年に肺がんで亡くなったことをきっかけに、都子さんは長年抱いていた思いを幸子さんに明かした。「章義を失ったことが悲しくて、外には出たくなかった。幸子が生まれたときはうれしかった」

幸子さんは「よその子が走り回っている姿を見たくなかっただろうし、再び出産できるかも不安だったと思う。素直な気持ちを聞けてうれしかったけど、心も傷つける原爆の恐ろしさを感じた」と振り返る。

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阪神・淡路大震災が起きた95年1月17日、心臓病を患っていた都子さんは垂水区の病院に入院していた。テレビに映し出された黒煙に包まれる神戸に、半世紀前の広島の惨状が重なり、ペンを握った。がれきになった街並み。焼けただれた遺体。黙々と火葬する人たち。あの日の光景がよみがえり「ピカッと光った瞬間に、喜びも楽しさも爆風とともに吹き飛びました」と手記をつづった。

手記は都子さんの死後、幸子さんが遺品を整理していて見つけた。読み進める中で、反核への気持ちが次第に高まった。20年からは「兵庫県被爆二世の会」の一員として、若い世代に悲劇を伝える活動に取り組んでいる。

原爆投下から77年のこの日、幸子さんは「多くの人につらい思いをさせた原爆が憎い。これからも核廃絶を訴え続ける」。原爆慰霊碑の前で目に涙を浮かべ、二度と原爆が使われることがないよう強く祈った。(門田晋一)

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