「不良教師と不良マダムのエロ行状記」ダンス教師と美女たちの「愛欲」の先には何が待っていたのか

「不良教師と不良マダムのエロ行状記」ダンス教師と美女たちの「愛欲」の先には何が待っていたのか

  • 文春オンライン
  • 更新日:2020/11/22

令嬢、女優、伯爵夫人…有閑階級がダンスホールで入り乱れた「乱倫」事件とは?から続く

【画像】実名で報じられた伯爵夫人の姿。意外にも「少女のような幼い面影」が残る

「有閑夫人の性遊戯」「美貌を種に有閑女群と…」

その後、各紙は競ってダンスホールの話題を書き立てる。11月9日付東日家庭欄は「有閑夫人の性遊戯」の見出しでダンスホールに集まる女性を「彼女たちははたして人の子の母であろうか。また、妻となろうという人々か。その心境に鋭いメスを下すことこそ、世のかかる風潮への警告になることであろう」と断罪。「ホールは不愉快」「現在のホールは危険」「夫にも責任がある」などの識者の見解を紹介している。

「フロリダにもまた 不良舞踏教師」(東朝11月15日付夕刊)は、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の主任ダンス教師が「美貌を種に有閑女群と醜行を重ねていた」として召喚、取り調べを受けているという記事。「同人を取り巻く女性の主な者は元ダンサーの日活某女優(20)、某男爵令息夫人(37)、某画家夫人(34)、銀座某商店の姉妹、サロン春の女給などなど多数が数えられ」と書いている。

フロリダは1929年8月に開業した大型店で「『黄金時代』を迎えた東京ダンスホール群にあって、他のホールを寄せつけない『あかぬけた雰囲気』をかもし出すようになる」(「社交ダンスと日本人」)。来日した映画スターのチャーリー・チャップリンやダグラス・フェアバンクスも訪問。日本の作家では菊池寛、大佛次郎、久米正雄、片岡鉄平、徳田秋声らが集まった。

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ダンスホール「フロリダ」の内部(「国際建築」より)

作家北村小松は同店のナンバーワンダンサーと結婚。ダンサーだった桑野通子はのちにスカウトされて松竹蒲田撮影所のスターになった。当時のダンスホールが社交界ばかりでなく、文化・芸能とも関わる存在だったことが分かる。

「男女相擁して踊るのである」

これに対し、取り締まる側はどういう見方をしていたのか。重田忠保「風俗警察の理論と実際」は事件当時、警視庁保安課長だった人物が翌年の1934年に出版した。

そこでは「社交ダンスそのものはもちろんなんら悪いものではない」と言いつつ、西洋では日常茶飯事の社会的風習や社交で取り締まりは問題にならないが、「風俗や民情を異にするわが国ではそう簡単にいかない」とする。「ともかく、男女相擁して踊るのである。風紀上の取り締まりはゆるがせにはできない」。

そのうえで社交ダンスについての4つの考え方を示す。

(1)社交の方法あるいは娯楽でなんら弊害のないものだから、警察はあまり干渉する必要はない

(2)元来外国の風習であり、わが国古来の淳風美俗に反するものであるから、むしろ断然禁止すべきだ

(3)社交のためのものであるから、あくまで家庭内、または友人知己の間で行われるべきものであり、ダンスホールは禁止すべきだ

(4)外国では家庭や友人知己の間で行われるものかもしれないが、わが国の風俗習慣上は悪影響が予想される。ダンスホールで職業ダンサーを相手に踊ることは適当な取り締まりを加えれば弊害は少ないから現状通りの方針で進むべきだ

そのうえで「いまのところ、方針を変えるに至っていない」と(4)の方針を維持すると表明している。この点について「社交ダンスと日本人」は「ダンスホールは『社交ダンス』という異文化が家庭生活などの局面に侵入していくのを水際で食い止めるための『方便』であった」と結論づけている。

相次ぐ摘発に戦々恐々となった各ダンスホールは慌てて「不良教師」を解雇。制服学生の立ち入りお断りを決めたほか、ダンス教師の組合も対応を協議したが、捜査の動きは止まらない。

「ただれた恋の華をまきちらす」

11月16日付東朝朝刊は「不良教師の斡旋役 某伯爵の夫人 けふ(きょう)警視廳(庁)へ召喚」と報道。「取調べにより新たに発覚した一群の有閑マダムの醜状が白日下にさらけ出されたが、その一人である伯爵夫人のごときは、その著名な社会的存在を誇り顔にダンスホールに入り浸り、同夫人が多数の婦人たちを不良教師らに取り持った事実なども明らかになった」とした。

その伯爵夫人は「17日午後1時半、ついにその行き先を突き止められ、警視庁の不良少年係刑事が夫人を同行。取調べを行っている」と11月18日付(17日発行)東朝夕刊で「踊る伯爵夫人 遂に召喚さる」の見出しで報じられた。同じ18日付夕刊で実名報道したのは徳富蘇峰が主宰した国民新聞だった。見出しは「愛慾(欲)に躍る惡(悪)の華 吉井伯夫人連行さる」。

「某伯爵夫人として疑問符を投げかけ、注目されていた有閑マダム、吉井勇伯爵夫人・徳子(34)は17日午前11時、住居先から警視庁に連行。浦川第一捜査課長の手で厳重なる取り調べが開始された。徳子夫人は先に吉井伯と同棲生活の清算と称して別居し、依然各ホールに出入りしてはその著名な社会的存在を誇りちらして有閑マダムの本領を発揮し、伯爵夫人トクコの名をうたわれ、その交際価値を利用して恋をあさる有閑婦人たちを不良教師に接近させてはホールにただれた恋の華をまきちらしていたものである」

品がないというか、先入観丸出しの書き方だが、当時の事件記事とはこんなものだったのだろうか。添えられた写真は和服で少女のように幼い面影を残している。読者は「こんな女性が」と思ったのかもしれない。事件は11月18日付朝刊で急展開する。

「エロ」から「賭博」へ

「文壇人に恐慌來(来)! ダンスホール事件急轉(転) 妾宅で賭博中の 里見弴氏等を檢擧(検挙) 吉井伯夫人の取調で 遊び仲間の裏面暴露」(東朝)、「有閑社會(会)の裏面 “筆の名士”多數(数)拘引」(東日)、「エロ行状摘發(発)から賭博暴露」(都)……。「有閑階級へのメス愈(いよい)よ急」が見出しの読売の書き出しはこうだ。

「不良ダンス教師と不良有閑マダムのエロ行状記に徹底的なメスを振るっている警視庁不良少年係では17日午後、歌人吉井勇伯爵夫人・徳子(34)を召喚。厳重取調べ中、はしなくも同夫人の口から、既成文壇人並びに同夫人連をめぐって常に麻雀、花札などの大賭博が開帳されている事実が暴露した。この陳述にがぜん緊張した警視庁では、直ちに刑事を八方にはせ、同日午後6時までに左の著名14氏を疾風迅雷的に各所から引致。厳重取調べを開始した」

とばっちりを受けたように検挙されたのは作家の里見弴と妻と「愛妾」、久米正雄夫妻、川口松太郎と画家・小穴隆一、文藝春秋専務・佐々木茂索夫妻ら。

新聞によって人数に違いがあるが、里見は妾宅で「車座になって花賭博の現行中を検挙」(東日)。久米夫妻は結婚10年の祝いの宴を東京・築地の料亭で開いている最中に検挙された。「震災以来の常習 各家庭で本式丁半」(東日見出し)とされた。

東日には、きっかけをつくった徳子の取り調べの模様を「伯爵夫人は巻舌で 係官も驚くやくざぶり」の見出しで書いている、「他の女たちの震え上がっているのとは異なって、しゃあしゃあと落ち着き『これで分かったかい。まだ調べることがあれば、何でも聞きなよ』とやくざのような言葉遣いで係官をたじたじさせている」。東朝は「これが伯爵夫人!」の見出しを付け、「賭博の際など、女だてらに大あぐらをかき、醜態を極めたものだそうである」としている。

吉井勇は旅行先から急きょ帰京。その際に詠んだといわれる歌がある。「夜ふかく歌も思は(わ)ず恥多きわが世の秋を思ひけるかも」。東日には「困惑の吉井伯」の記事が載っている。

〈 妻と僕の性格、趣味はあまりに懸け離れているので、家庭的には決して恵まれていない。昨年中はほとんど別居状態だったが、今年初め、友人の紹介もあり、神奈川・林間都市で同棲したが、やはりうまくいかず、6月からは自分はご承知のように文筆の旅に出るし、妻は東京に帰って独居していた。ダンスに熱中していることも知っているし、とかくのうわさも度々耳にしている。困ったものだと慨嘆したところで、僕と妻の性格ではいかんとも致し方はない。4、5日前、旅行先で妻のことを新聞で知り、「結局いくところまでいったな」と放っておくわけにもいかず、帰ってきた。

離縁するかどうか、いま言明できぬが、落ち着くところに落ち着くまでだ。想像に任せる。〉

ジャズの音色に魅せられた瞳の美しい人妻

吉井勇は、幕末の薩摩藩の討幕派志士で明治維新後、宮内次官などを務めた吉井友実の孫。10代から文芸誌「明星」に短歌を発表。石川啄木らと「スバル」を舞台に、青春の情熱を歌い上げた歌風で活躍する。酒と女に親しみ、花街を放浪。歌集「酒ほがひ」が代表作。

一方、徳子は大正天皇のいとこ柳原義光伯爵の次女に生まれた。2人は1921年に結婚。男の子をもうける。しかし、千田稔「明治・大正・昭和華族事件録」によれば、勇は「自分の歌風が家庭生活と合わぬことに気づく」。「再び酒と女に歌材を求めて花街に遊ぶようになる。ほどなく、今度は徳子が結婚に幻滅を抱き始める」「夫が遊ぶならば自分も遊ぼうと、いつしか夫への反撃の気持ちが強くなる」(同書)。

2人の生き方の違いは決定的だった。「子どもの養育を女中に任せて、徳子はダンスホール、芝居、キネマ館へと頻繁に外出するようになる。徳子は瞳の美しい美貌の持ち主であったから、社交界に出入りする男らの注目が集まり、いつしか男のうわさが立ち始める」(同書)。

一時同居に戻ったがうまくいかなかった。木俣修「吉井勇 人と文学」はこう描写している。「閑寂な林間の生活は彼にとっては捨て難いものがあったが、ダンスホールのジャズの音色に魅せられている妻には到底辛抱ができず、別居して自分だけ東京に住みたいと夫に申し出た。既に妻の不行状を知り、憤懣(ふんまん)の心を抑えていた吉井はそれを許し、自分も漂いの旅に出たいと思い、一子滋を妹長田花子に預け、長い流離の旅に上った」。徳子は手芸と婦人記者の仕事で自立を目指した。そんな時に事件は起きた。

連鎖した華族一家の醜聞

柳原義光の腹違いの妹が柳原燁子(白蓮)。徳子の伯母に当たる。炭鉱王との2度目の結婚に大きな不満を抱き、東京帝大生(当時)と恋に落ちて、夫に絶縁状を突き付けて家を出たのは1921年のことだった。白蓮は徳子のことを報じた1933年11月18日付東朝に「伯母白蓮夫人が 見る吉井伯夫人」の見出しで取材に答えている。

〈「姪がこのような問題を起こし、皆さまにご迷惑をおかけしたことは、伯母として恥じ入る次第です」「(姪は)前にはしばしばダンスホールに行ったものですが、親類でやかましく言って行かないようにさせたのです。今度のダンスホール事件は1年以前の古傷だろうと思います」「(ダンスホールで)知り合った方とお茶を一緒に飲みに行くというようなこともありましょうが、それは私交上のことで、大連事件のような犯罪が起これば別ですが、警視庁としては少しやりすぎではないかと思います。しかし、姪の悪いことは重々で、私の口から弁護致しません」「かわいそうとは思いますが、とく子がやり玉にあげられたことによって世間が廓清されるならば、いくらか慰められるところがあります」〉

「大連事件」とは「昭和事件史」で取り上げた大連の「児玉博士邸事件」のこと。ダンスホール事件の2カ月前に報じられた「乱倫」博士夫人の記憶が鮮明だったことがわかる。

一方で、コメント自体は驚くほどおとなしい。実は、白蓮の兄で徳子の父である柳原義光も、同性愛の相手との手切れ金をめぐって脅迫を受け、警察に届けたことから、ダンスホール事件直前の1933年9月、新聞報道されるスキャンダルを起こしていた。華族一家3人の醜聞の連鎖。

結局、同年12月、華族を所管する宮内省宗秩寮は徳子を華族礼遇停止に、勇には訓戒処分を下す。義光は不問だった。それに先立つ11月、勇と徳子の離婚が決まっていた。

徳子は雑誌「話」1936年11月号掲載の「夫婦喧嘩」というエッセーで、里見弴から「たまには亭主にやきもちを焼いてごらん」と言われたことを紹介。「里見氏の忠告を素直に聞き入れなかったのが、今日のこの不幸の原因を作ったのかもしれない」と後悔の弁を述べている。

検挙され一晩留置された作家らは翌11月18日、菊池寛が身元引き受け人となって釈放された。

実はこの事件は「昭和事件史」で取り上げた「福田蘭童の結婚詐欺」とつながっている。この後も麻雀賭博の捜査を続けた警視庁は翌1934年3月の一斉手入れで国会議員や実業家、医師、画家、作家らを検挙。その中に尺八作曲家・福田蘭童もいたが、複数回にわたる摘発で、今度は菊池寛も検挙されてしまう。

結局、立件されたのは…

11月19日付東朝朝刊は社説で「ダンス問題と文士の賭博」を取り上げた。ダンスホールとそこに集まる人々の心情にある程度の理解を示しつつ、こうしめくくっている。

「今や世界をあげてあらゆる方面に一大転換の気運は急迫しつつあり、国民一般の緊張の切実に要望せられるとき、今回の警視庁当局の行った摘発がいかなる意図に出でたものであるにせよ、これを自覚の契機として、家庭生活なり夫婦生活なり、ないし社会観、文芸観なりに多少の向上的変改がもたらされるならば、彼らの払った不幸な犠牲はあえて大に過ぎたと言われないであろう」

回りくどいが、柳原白蓮の感想に通じるニュアンスがある。要するに、新聞まで加わって大騒ぎして摘発するほどの悪行ではないが、いまの状況でお上のやることには逆らえない、ということだろう。

結局、ダンスホール事件でも賭博事件でも、本件の容疑で立件された者は一人もいない。

内務省や警視庁などが「非常時」「時局」という名目の下、スケープゴートとして華族や文化人、芸能人をやり玉に挙げ、新聞がそれをあおった疑いが濃い。小田部雄次「華族」は宮内省宗秩寮の処分も、当時の木戸幸一宗秩寮総裁(のち内大臣など)らが進めていた華族制度改革に利用した可能性を指摘。「(吉井)徳子の事件は華族粛正の世論づくりに利用された感が強い」と書いている。

ダンスホール“弾圧”の結末

その後もダンスホールへの“弾圧”とそれを何とかくぐり抜けての営業が続いた。しかし、警視庁などからの風当たりは強く、1936年7月、「不良ダンス教師」やダンサー、バンドマンらが絡んだ「第2次桃色事件」が発生。11月に東京のダンスホール8カ所全部を5日~10日間の営業停止処分に。

その後、いったんは活況を取り戻したが、日中全面戦争が始まった1937年7月には女性の入場が禁止された。そして同年12月、ついに決定が。

「支那の長期抵抗に備えるため、上下一致官民一体を強調する内務省では、国内から浮ついた風潮を一掃すべく、連日警保局会議を開いて『風俗警察』強化の方策を練っているが、まず明年9月以後、全国のダンスホールを閉鎖するというのが第一の方針であるようだ」(12月29日付東日朝刊)。

「『いき』の構造」で知られる哲学者・九鬼周造にはこのころに書いたと思われる「ダンスホール禁止について」(「九鬼周造全集第五巻」所収)という未発表のエッセーがある。「今日の非常時に国内の浮ついた風潮を一掃するという内務省の方針には無論賛成であるが、そのためには、ダンスホールに関しては、営業時間を短縮するとか、または営業日数に制限を加えるとかいうことで十分ではあるまいか」と述べ、「私の見るところでは、ダンスホールには閉鎖を行うべきほどの非国民的のところはない」と断言。「ダンスホールは禁圧すべき性質のものではなく、監督・善導すべき性質のものである」と主張している。

ラストステップ、そして戦争へ

だが、既に流れは決まっていた。閉鎖の時期は延期されたが、とうとう1940年10月いっぱいで閉鎖が決まった。既に国民が娯楽を味わうことを許さない時代に入っていた。戦後再開されるまでには5年近くの歳月がかかった。11月1日東朝朝刊は「今宵限りのステツ(ッ)プ」の見出しで次のように報じた。

「31日夜を最後に、ダンスホールもついに“時局の街”から姿を消した―。閉鎖猶予期限もいよいよ大詰めのこの夜、各ホールは名残りのステップを求めて詰め掛けた人たちでなんと大入り満員。平日の3倍から5倍という人出が芋の子をもむようにホールいっぱいを埋めて押し合いへし合い。破れ返るような騒ぎに『満員御礼』と入り口に張り出し、終幕2時間前からお客を汗だくで断るホールも出現する。

かくて午後10時、幾度もアンコールされる『蛍の光』を最後のはなむけに、ダンスホールは12カ年踏み続けてきたステップの幕を降ろした」

【参考文献】
▽高橋桂一「新社交ダンスと全国舞踏場教授所ダンサー案内」 高瀬書房 1933年
▽永井良和「社交ダンスと日本人」 晶文社 1991年
▽斎藤茂太「回想の父茂吉 母輝子」 中央公論社 1993年
▽斎藤由香「猛女とよばれた淑女」 新潮社 2008年
▽柴生田稔「続斎藤茂吉伝」 新潮社 1981年
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽川西政明「新・日本文壇史第二巻 大正の作家たち」 岩波書店 2010年
▽重田忠保「風俗警察の理論と実際」 南郊社 1934年
▽千田稔「明治・大正・昭和華族事件録」 新潮文庫 2005年
▽木俣修「吉井勇 人と文学」 明治書院 1965年
▽小田部雄次「華族」 中公新書 2006年
▽藤岡武雄「斎藤茂吉探検あれこれ41」(「歌壇」2016年11月号所収)
▽九鬼周造「ダンスホール禁止について」(「九鬼周造全集第五巻」1981年所収)

(小池 新)

小池 新

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