父母の価値観が融合した場で継いだ遊び心と粋 堀場製作所・堀場厚会長兼グループCEO

父母の価値観が融合した場で継いだ遊び心と粋 堀場製作所・堀場厚会長兼グループCEO

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  • 更新日:2023/09/19
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ニッチでも輝く会社を目指した父の意志と、高価なよりもいい品を大事にした母の精神。雅風荘にくると、そんな父母の傍に、戻ってきた気がする(撮影/山中蔵人)

日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年9月18日号では、前号に引き続き堀場製作所・堀場厚会長兼グループCEOが登場し、旧家で現在の会社の迎賓館である「雅風荘」などを訪れた。

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京都市北区紫野南花ノ坊町。金閣寺に近い住宅街の坂を上っていくと、左手に、和風の家が現れた。堀場厚さんが小学校3年生から大学を卒業するまで、両親と住んだ家だ。角地に石垣を高く積み、その上に垣根の木が並び、外から家の中はみえない。入り口の石段を上がると、左右の松の緑がまぶしい。

子どものころは、近隣から西陣織の織機の音が聞こえた。いまは戸建ての住宅が多く、静かだ。少し歩くと、見晴らしが開き、左大文字の山がみえる。家は大学を出て米国で勤務した間に「雅風荘」と名付けられ、社内の懇親会などに使われた。これを社長時代の2003年、堀場製作所創立50周年のときに宮大工に頼んで改築し、会社の迎賓館とした。

ことし4月、その両親と過ごした旧家を、連載の企画で一緒に訪ねた。

企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

雅風荘は、堀場さんがビジネスパーソンとしての『源流』とする父母から継いだ二つの価値観が、融合された場だった。他人の真似を嫌い、規模は小さくても際立った独自技術を持つ会社を創立した父。人生80年のうち、最も可能性の高い40年を充てる仕事が「おもしろおかしく」でなくて何の人生か、と繰り返し口にした。

贅沢は否定するが、着物でも食器でもいいものを大事に使った母。小学校の授業参観日に和服をピシッと決めてきて、友だちがみとれるのが自慢だった。「ほんまもん」をみきわめる眼を持つ価値も、教えてくれた。

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市電の運転手は木製ハンドルを持ち、装置に挿してブレーキなどを操作した。その「ほんまもん」のハンドルが、欲しくて欲しくてたまらなかった(撮影/山中蔵人)

この両親と過ごした「おもしろおかしく」と「ほんまもん」が融合した日々。それが、「HORIBA」の表記で知られる会社を、分析や計測の機器メーカーとして世界的な存在に育てる礎となる。

■家を改築した迎賓館 こだわった和風の粋 木々を残し苔もむす

雅風荘の中へ入ると、正面に客の随行者や運転手らの控え室があり、左に磨き上げた廊下。廊下を進むと、右手に食事をする大きな部屋に出る。外国人の客を考慮して、板敷きで掘りごたつのように足が下ろせるようにしてある。床の間に、父の書「自今生涯」なども並ぶ。

かつては畳敷きで、両親や自分の部屋があった。子どものころ、母が誕生会をやってくれ、友だちを呼んで騒いだ。正月には社員たちでいっぱいになり、みんな、父が焼いたローストビーフを食べ、たらふく飲んでいた。そんな光景が、浮かぶ。

改築するとき、地震や防犯への対応を施して瓦は葺き替えたが、和風の外観と雰囲気は変えない。庭も木々を残すだけでなく、苔もしっかり生えるようにした。京都らしさを守り、四季折々の風情や「和」の粋に、こだわった。家屋に隣接していた蔵は、しゃれたバーにした。子どものころ、いたずらをしては父に放り込まれたところだ。

京都には美味しい食事の店がいくつもあるが、外国人には「家」へ招いての歓待が、最高のもてなしと喜ばれる。改築に1年をかけ、2億円を投じて設計士に「建て替えたほうが安い」と言われたが、大切な記憶が詰まった姿は残す。母から受け継いだ「ほんまもん」の追求に、妥協はない。

狙い通り、海外の取引先のトップたちがくると、感激してくれる。くつろいだ雰囲気のなかで、仕事のことよりも、互いの国の文化や家族の話で弾む。フランスやドイツの企業をいくつか買収してきたが、幹部がくると「懸け橋」になってくれる。

■遊び場の工場に色とりどりの器具 ものづくりが身近に

堀場さんの『源流Again』には、続編がある。

6月に、雅風荘の前にいた中京区の千本三条の一角を訪れた。父が1953年1月、堀場製作所を設立し、旧製粉工場を買って社屋にしたところだ。5歳になる直前だった。最後に訪れたのは、もう30年前。素直に「やっぱり、懐かしいな」の言葉が出た。

ここへ引っ越してきたとき、屋内を走ったら、まだ粉が残っていて舞い上がったのを思い出す。戦時中は京都大学理学部で核物理を学んでいた父は、敗戦でもう研究は続けられないと考え、下京区に堀場無線研究所を設立した。いまで言う「学生ベンチャー」だ。そこから移転したのが千本三条で、酸度を分析する機器を開発し、独自のビジネス路線を目指す。

「このあたりですかね」と、堀場さんは路地の途中で立ち止まる。事務所があったあたりだ。敷地の奥に、住居があった。事務所から続く工場は平屋で、飽きることのない遊び場だった。ガラスでいろいろな機器をつくっていたから、ガラス細工とともに色とりどりの実験器具が並ぶ。すべてが遊び道具、本当に楽しかった。30人くらいいた従業員たちも相手をしてくれて、自然に「ものづくり」の世界が身近になる。母は会社の仕事を手伝うよりは、従業員らの食事の世話をした。

■覚えている市電の色 パンタグラフの型も 憧れた少年時代

小学校は、父も通った国立京都学芸大学付属で、自宅近くの停車場から路面電車の市電で通学した。30分余り、乗ると必ず運転席の横へいき、ガチャガチャというブレーキの使い方など運転操作をみて、全部、覚えた。一番楽しかったころで、「将来は運転手になりたい」と思ってもいた。

その車両が置いてある下京区の梅小路公園へもいった。車両を前に、再び「懐かしい」と口にした。「この緑と肌色というか、昔からこの色でしたね。1両だけで、前後から乗り降りできた。最初のころは、こういう平たいパンタグラフではなくて、輪っか型だった」。次々に、思い出す。

京都の市電が廃止になって、久しい。車内にあった路線図をみながら、言った。

「市内をこれだけ走っていたんですよ、もったいない。残っていたら、すごい遺産になったのにね。何でも近代化したらいいというものではない、と思います。でも、市の財政にとってすごい負担だったのは確かで、人の移動は車に変わっていきましたからね。いまあったら、外国人も乗るでしょう」

電車の運転手に、本当になりたかった、と言う。東京と大阪を結ぶビジネス特急「こだま」ができて、小学校6年生のときに父に乗せてもらい、「特急の運転手になる」へ変わった。さらに、帰りに飛行機に乗せてもらい、「パイロットになろう」となる。そんな「おもしろおかしく」につながる童心は、いまも変わっていない。

父が社是にまでした「おもしろおかしく」は、「Joy and Fun」と英訳し、国内外の拠点に掲げている。次は「ほんまもん」を、それらしく英訳するのか。母の精神をうまく伝えることができたら、こちらも世界中で根付くだろう。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA2023年9月18日号

街風隆雄

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