リベラルは「価値観の押し付け」「上から目線」なのか? この思想の「意外な本質」

リベラルは「価値観の押し付け」「上から目線」なのか? この思想の「意外な本質」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/11/21
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今リベラルに何が起こっているのか?

長期にわたる安倍政権が終わりを告げ、新たな政権が誕生した。野党も次の総選挙を見越して、旧民主党の解党以来、ようやく再結集することとなった。今後の政策論争に期待がかかる。海の向こうに目を転じると、例えばアメリカでは、今年はちょうど4年に1度の大統領を選ぶ年に当たっており、激しい論争が繰り広げられた。

ただ、ここで気づくのは、こうした政治の議論の枠組みが必ずしも従来の「リベラル 対 保守」の構図になっていない点である。いや、これは日本やアメリカだけに限った話ではない。ヨーロッパ諸国やその他の国々においても、実は同様の現象が起こっている。

つまり20世紀に確立された「リベラル 対 保守」というおなじみの政治対立の構造が、21世紀、とりわけこの数年の間に見事に崩れ去り、いまやまったく異なる対立の様相を呈しているのである。いうまでもなくそれは、「既存の政治 対 それに対する不満」という構図である。

世界中でポピュリズムと呼ばれる政治の潮流が猛威を奮っているが、その実態は、まずもって既存のリベラルな政治――その内実については後述する――に対するアンチテーゼにほかならない。しかし一方でそれは、従来の保守ともまったく性質を異にする、むしろ保守さえをも否定するような新たな政治的主張なのである。

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〔PHOTO〕iStock

ポピュリズムというのは、大衆迎合とも訳されるように、右や左を表す言葉ではなく、その都度の大衆の欲求に応じようとする政治、あるいはその欲求に乗じて権力をものにしようとする政治である。だからこそそれは時に極右を意味したり、反対に極左を意味したりもする。こうした思想は時にポピュリズムと呼ばれたり、時に権威主義と呼ばれたりするが、いずれにしても非リベラルであることは間違いない。

いずれにしても、従来の主流の政治に不満を感じている人たちが、リベラルに歯向かい、それが時に暴発することでヘイトスピーチやテロのような問題が生じているというのが現代の問題状況だといっていいだろう。

この状況に対する処方箋は二つ考えらえる。一つは、リベラルをあきらめて、それにとって代わるような新たな政治哲学を提起するアプローチである。もう一つは、リベラルそのものの本質に立ち返って、それを刷新するというアプローチである。

もちろん新たな何かが見つかればいいのだろうが、ことはそう簡単ではない。それ以上に、私自身はリベラルにはまだ可能性が残されていると信じている。そこで本稿では、なんとかリベラルの再構築を図る方途を探りたいと思う。

リベラルの再構築

実はリベラルの再構築が求められる状況は、今日に始まったことではない。つまり、21世紀に入って、とりわけここ数年ポピュリズムが席巻することによって初めて議論されるようになったわけではないのである。

少なくとも欧米では、すでに1980年代に激しい論争を巻き起こしていたといっていいだろう。いわゆるリベラル・コミュニタリアン論争と呼ばれるものである。個人の自由を重視するリベラリズムに対して、共同体の価値を重視するコミュニタリアニズムが、その抽象性を指摘して議論が巻き起こったのだ。

なぜなら、個々人が集まって一つの共同体の中で共存していくためには、本来その共同体に通底する共通の徳や価値観のようなものを共有すべきはずだからだ。しかし、個々人の自由を重視すると、自由と「共通の徳や価値観」の間には矛盾が生じてくる。だからリベラルの主張に従うと、個々人は抽象的存在にならざるを得なくなる――というのがコミュニタリアンからの批判だった。

はたして本当にそうなのだろうか? リベラルの思想において個々人が抽象的存在であるという点については、筆者自身そうは思えないだけにどうもひっかかる。それ以上に、これだけ世の中に広がっているリベラルという思想が、本当に共通の徳を抱くことを許さない性質のものなのかどうか。

かつて私はそのような疑問を抱いたことがある。ヘーゲルの共同体論を学び、博士論文を書いた後、さらに共同体理論の研究を進めていた頃だ。そんな時、たまたま出くわしたのが、当時未邦訳だった『リベラル・ヴァーチューズ』、つまり『リベラルな徳』という魅力的なタイトルを冠した本だった。

著者はアメリカのプリンストン大学の教授で、リベラリズムを刷新しようと試みていたアメリカ政治哲学界の重鎮の一人、スティーヴン・マシード。その本を読んだ私はすぐに彼の門を叩き、教えを乞うことにした。そして直接会って議論する中で、1年ほど彼の下で研究をする確約まで得てしまった。2011年、私は実際に彼の下で1年間の在外研究を行い、2014年には『リベラル・ヴァーチューズ』の邦訳を刊行するに至った。

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マシードは一見、矛盾に満ちた「撞着語法」とも思われるこの「リベラルな徳」という表現を、あえて積極的に打ち出すことで、リベラルの刷新を目論んでいた。この本の原著は1990年に出されたものなので、もう出版から30年の月日が経過している。しかし、邦訳の出版当時も、そして今でさえもそのアクチュアリティは失われていないといえよう。

だからこそこのリベラルの危機といってもいい時代に、マシードの議論が参考になると思うのである。ただその前に、今私たちに課されている問いを再度明確にしておきたいと思う。私たちが今改めて問うべきなのは何か? それはリベラルという、もはや空気の如く当たり前のものになってしまった用語に込められた意義を、再度問いに付すことである。

リベラル、つまりリベラリズムとは、よく自由主義と訳されるように、個人の自由を重視する思想であったことは間違いない。しかし、まさにその個人の自由を重視するということがどういうことなのかが問われなければならないのだ。

なぜ政治は、国家は、個人の自由を重視しなければならないのだろうか? それは一人ひとりの考え方が異なるにもかかわらず、共存していかなければならないというところに理由がある。

とするならば、個人の自由を重視するリベラリズムは、本当は一人ひとりの権利主張を認めるという思想ではない。ここはよく誤解されているところなのだが、一人ひとりのわがままをすべて聞いていては、一つの共同体としてまとまることは不可能だ。

またその意味で、リベラリズムには価値中立性が不可欠であるという認識も誤っている。そうではなくて、一人ひとり考えが違うにもかかわらず、むしろいかにしてその様々な価値を共有できるか考えることこそがリベラリズムの本質なのである。

リベラルな徳

マシードの説く「リベラルな徳」が、ここで時代の文脈を超えてヒントを与えてくれる。政治哲学や政治思想に明るい方ならすぐに察しが付くと思うが、リベラルとは一般に価値中立性を意味する用語であり、徳とはその反対に個々人が重視している一定の価値や、それに基づく生き方についての信念などを意味する用語である。したがって、「リベラルな徳」という表現はいかにも矛盾した概念に聞こえるだろう。

しかしそれはまったくの誤解である。マシードは次のように言っている。「リベラリズムは、公共的価値の間で本当に中立ではありえない。それは、個人の自由および責任、変化と多様性に対する寛容、およびリベラルな価値を尊重する者の権利の尊重について、一定の公共的価値の至高の価値を支持するのである」と。

リベラリズムとは、むしろ個々の市民が異なる価値観をすり合わせながら、一つの共同体で共存していくための仕組みにほかならない。したがって、個々人が徳を語ってはいけないのではなくて、逆に徳を語ることで、それがいかに共有可能なものであるか吟味することこそが求められるのである。

非リベラルな思想、あるいは政体においては、そうした行為は許されるものではない。予め善として掲げられた徳の下に個々人が結集し、それを疑うことすら許されないのである。しかしリベラルは異なる。どの徳が望ましいのか、吟味するプロセスが保障されているのだ。マシードに言わせるとそれは公共的正当化ということになる。

公共的正当化とは、理性に限界があることを認めつつも、理由付与とその共有を目指す営為である。わかりやすく言うならば、市民誰もが社会の問題にかかわり、議論し、その結果をみんなで共有しようとする態度である。

それこそがマシードのいう公共哲学にほかならない。だから私は原著と異なり、彼の『リベラルな徳』という書に「公共哲学としてのリベラリズムへ」という副題を添えた。リベラリズムは本来、そうした公共的正当化、つまり公共的な対話を内包した動的なシステムであったはずなのだ。

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公共性主義へ

マシードの議論を受けて、私はこれまでずっと公共的正当化のための具体的方法について考察してきたような気がする。その結果、奇しくもリベラリズムを超えて、公共性主義なる概念を掲げることになった。これについてはすでに『公共性主義 「である哲学」から「する哲学」へ』という本にまとめて公刊している。

その中で私が一番言いたかったのは、公共哲学が静態的なものになっていて、動態的な要素を発揮できていないという点である。だからもっと個々人が積極的に公共的な事柄にかかわり、社会を変えて行く必要があると訴えたのだ。しかもその際、公的なもののせいで自分を犠牲にするのではなく、かといって自分を優先するのでもない態度が求められると説いた。一見それは難しいように思われるかもしれないが、誰もが世の中をよくしようと思いながら、同時に自分のやりたいことに邁進することは可能なはずである。

より重要な問題は、一歩踏みだすことによって自らそれを実践できるかどうかである。そもそも公共哲学とは、いかに自分が社会にかかわることができるか本質的に考えるための方法論であるといえる。

その際、いくら机上の空論を並べ立てても、実践することができないなら、あるいはそれをしようともしないのなら、はたしてそこにどれだけの意味があるのかと問うたわけである。考えてみれば、マシードのいう公共的正当化は実践を不可欠とする概念であって、だからこそ彼は裁判やそれに参加する市民の議論を重要視し続けてきたのだ。

今リベラリズムが弱体化し、他の非リベラルな思想、たとえばポピュリズムや権威主義にとって代わられようとしているならば、それはまさに公共的正当化の弱体化を象徴しているように思われてならない。

したがって私たちが行うべきなのは、公共的正当化へのより積極的な参加である。自らが信じる価値を他者にも理解してもらうことで、それを共同体における共通の徳へと磨き上げる努力をし続ける。それこそがリベラルを再構築するための唯一の道であり、また私たち一人ひとりの理想を国家において実現するための唯一の方法なのである。

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