横須賀にたたずむ「戦艦三笠」 保存運動のきっかけは何と旧敵国・米国司令官によるものだった

横須賀にたたずむ「戦艦三笠」 保存運動のきっかけは何と旧敵国・米国司令官によるものだった

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  • 更新日:2023/03/18
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神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)

陸上固定は1926年から

アメリカ海軍横須賀基地に程近い三笠公園(神奈川県横須賀市)に戦艦三笠が陸上固定の記念艦としてたたずむこととなったのは、1926(大正15)年11月からのことである。

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それから100年近く、三笠は海を望む公園の歴史的モニュメントとして、またあるときには日露戦争を描いた映画やドラマの撮影舞台として使われ現在に至っている。

戦艦三笠は、1902(明治35)年3月にイギリスのヴィッカース社で完成した最新鋭の戦艦だった。常備排水量1万5000t、連装12in主砲塔を艦の前後に各1基搭載という基本デザインは、同時代のイギリスやアメリカの戦艦でも多く見ることができたおなじみのスタイルだった。

しかし、意外なことに現存している20世紀初頭に完成した戦艦は世界で唯一、この三笠だけである。欧米にも著名な艦はあったのだが、それらは全て解体もしくは処分され現存してはいない。

戦艦の建造設計においては常に先進かつ、歴史的軍艦の保存に熱心だったイギリスにも現存していないのである。そうした中、なぜ三笠は生きながらえることができたのだろうか。

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東郷平八郎像(画像:写真AC)

日露戦争の最新鋭戦艦

戦艦三笠という具体的な艦名は知らずとも、日露戦争(1904~1905年)における日本海海戦とそれを指揮した連合艦隊司令長官・東郷平八郎の名を耳にしたことが無い人は少ないだろう。

三笠は当時の連合艦隊旗艦であり、世界最優秀との誉れも高かった最新鋭の戦艦だった。日露戦争こそは明治期の日本が世界の大国の一員に名を連ねるきっかけとなった一戦であり、その勝敗において極めて重要な転機となったのが日本海海戦だった。

日露戦争の終結後、東郷平八郎と彼が司令官として乗艦した三笠はともに勝利の立役者として国民的な人気を得ることとなる。三笠は日露戦争後も1921(大正10)年まで現役にあったが、同年のワシントン海軍軍縮条約の結果を受けて退役の後に解体されることが決定した。

さらに、解体を待っていた1923年9月に起きた関東大震災の際、予備役として保管中だった横須賀港の岸壁に衝突したことで損傷し着底してしまう。

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神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)

民間からの保存運動

これにより三笠の解体は早まることとなる。

しかし、前述の通りこの時点での三笠は国内でもその名を知られた日本海軍の象徴的存在だったことから、廃艦からの解体という報道がなされると民間からの保存運動が立ち上がることとなる。

これは当時としては異例なことであり、運動の高まりとともに政府も保存に向けて具体的に動き出すこととなった。軍縮条約の結果を受けての廃艦ではあったものの必ずしも解体しなければいけなかったわけではなく、三笠の同型艦だった敷島と朝日はともに武装や装甲を大幅に減じた上で練習特務艦に生まれ変わることとなっていた。

記念艦として保存が決まった三笠は、将来的に戦艦としての復帰を不可能とするために、艦を現在の位置に移動させた上で艦首を皇居の方角に向け岸壁に定置された。

艦の周囲には大量の砂を投入することで陸上に固定された状態となり、喫水線下の艦内にもコンクリートが投入された。上甲板の装備類は多くが残されたが、主砲や副砲などの武装は全て撤去され代わりにダミーの複製品が載せられた。記念館としての工事が完成したのは冒頭に記した通り1926年11月のことである。

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三笠公園(画像:写真AC)

運命を大きく左右した第2次大戦

以来、三笠は国民の多くに親しまれるとともに横須賀の観光名所ともなった。ところが第2次世界大戦がその運命を大きく左右することとなる。

1945(昭和20)年の敗戦とともに、三笠は記念艦としての地位を失い、事実上無管理状態となった。それに加えて国民感情の荒廃から、装備品の鋼材や甲板の木材の深刻な窃盗被害にさらされることとなる。

しかしここで意外なとある人物が三笠に救いの手を差し伸べる。その人物とはアメリカ海軍の最高位士官だった海軍作戦部長のチェスター・ニミッツ元帥である。

かねて東郷平八郎に心酔していたニミッツは東郷が指揮した三笠の荒廃を心苦しく思い、被害を最小限に食い止めようとしたがそれもかなわず。

1950年代初めには艦上にダンスホールや水族館が設けられるなどのアメリカ軍人向けの娯楽施設になってしまった。

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神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)

修復保存運動は英字新聞から

こうしたさらなる無残な状態は、日々の生活に追われていた多くの日本人にとっては関心の外ではあった。

しかし、1950年代半ば頃に日本国内で出版されていた英字新聞であるジャパンタイムズへのひとりのイギリス人による三笠の荒廃を憂う旨の投稿がきっかけとなり修復保存運動が持ち上がることとなる。

この運動には既に日本を離れ引退していたニミッツも賛同、運動は内外で次第に盛り上がって行くこととなる。三笠の修復保存に関する予算が大蔵省(現・財務省)の承認を受けたのが1959(昭和34)年。直ちに修復工事が開始され、完成したのは1961年のことだった。

現在、横須賀で堂々とした姿を披露している三笠ではあるが、その上部構造物でオリジナルな箇所は少なく主砲もダミーである。しかし艦体そのものは建造以来のオリジナルであり、象徴的ないかりやその鎖もオリジナルである。

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神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)

極めて異例な2度の保存

1900(明治33)年前後に就役した各国の戦艦は、その後にイギリスで完成した画期的な高性能大型戦艦であるドレッドノートとの比較で「前ド級戦艦」と呼ばれているが、既述した通り、ワシントン海軍軍縮条約によって廃艦からの種別変更を経た後に解体された。

もしくは、標的艦としての処分などの運命をたどった艦がほとんどであり、三笠の様に2度にわたって保存艦となったのは極めて異例である。

何よりもその数奇な運命の背景にあったのは民間からの多くの声に加えて、かつては戦場で対峙(たいじ)していた敵側司令官の協力があったという事実にも、三笠という艦とそれを指揮した東郷平八郎の国際的な知名度と評価の高さが伺い知れる。

個人的には、主砲塔や副砲を収めたケースメート部などに加えて艦橋などの主要な上部構造物だけでも建造当時のオリジナルにより近いスタイルに復元してほしいところだが、今となってはそれも困難だろう。

願わくば、この先も長く横須賀の海岸にその姿をとどめてほしい近代化遺産である。

矢吹明紀(フリーランスモータージャーナリスト)

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