障がい者や被災者に神の試練と言えるか。旧約聖書「ヨブ記」に抱く違和感

障がい者や被災者に神の試練と言えるか。旧約聖書「ヨブ記」に抱く違和感

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  • 更新日:2021/07/21
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神の試練について深く考えさせられる旧約聖書の「ヨブ記」ですが、支援の現場に身を置く方がそこから感じるのは、信徒とはまた異なるもののようです。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、要支援者への学びの場を提供する「みんなの大学校」を運営する引地達也さんが、「ヨブ記」の中にある自身がどうしても解けない難題を記すとともに、同記に対する複雑な心情を吐露しています。

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苦難の中にある人に語る「ヨブ」の苦難

支援が必要な人に対する活動をしていると宗教的な信念で行動する人と出会い、共に行動することがある。

自然災害や障がい者支援、子供のサポートや高齢者との活動でも、「隣人」に向けて自分のある力を発揮するのは、人が元来から持つケアの感覚を行為化したもので、そこに信条や理念が加わると、行動がスムーズになるようだ。

キリスト教の信徒とともに活動を共にした経験からは、さすがに「愛」を説く宗教との支援は相性がよい。

その中にあって、私が解けない難題が1つある。

旧約聖書のヨブ記の記述である。

「理不尽にも」神に試され次々と苦難に陥れられるヨブを「神の御業」なのだと納得することは中々難しい。

これは「障がい」がある状態の方々や災難に見舞われた人に「神からの試練」などと言えないことにつながっている。

だから、ヨブの試練を、どう解釈すればいいのかいまだにわからない。

わからないまま時を重ねて、支援をし続けながら、やはりわからないことを再度考えると、この先もわからないのだろうか、と絶望的にもなってくる。

ヨブ記は旧約聖書の「律法」「預言書」「諸書」のうち諸書にあたるもので、死海南部に住む神を崇める裕福な男性ヨブの話である。

多くの子供と家畜を持つ幸福なヨブが罪のないままその信仰を疑うサタンの仕業により、すべての子・財産を失う。

それでも信仰を貫くヨブにサタンは健康を奪うことでさらに信仰を試そうとするが、絶望的な苦悩にあっても神を求める。

友人3人はそのヨブの変わり果てた姿に、ヨブの「罪」に言及するが、ヨブは、自分は罪を犯していないと主張する。

最後はその信仰ですべてが回復し、財産や子供も倍になって与えられる結末となるが、やはり何か釈然としない思いが残る。

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サタンはヨブが正しく信仰が揺るぎないのは「裕福であるから」だとか「健康であるから」だとして、財産を奪ったり、皮膚病に罹患させたりするのだが、そのサタンに神が「それではやってみるがよい」と同意を与えるのが、悔しい。

いたずらに試練を与え、人の命が奪われ、戻らない命を粗末にしている印象がぬぐえないのだ。

ヨブはそれも試練と受け止めたのであろうか。

倍になったことで祝福なのだろうか。

旧約聖書は歴史書でもあるから、それは記述した物語である。

そのうえでヨブの苦悩はどう伝えればよいのだろう。やはり分からない。この残酷物語の解釈は、単純に神を偉大なものとして、どんなことがあっても信仰が優先されることを説くことが基本かもしれない。それでも、苦しむ中にあって信仰のない方々の支援の中で、この不条理をどう考えればいいか、

私はまだ迷走している。

社会のスティグマ、動かない体、周囲の「働け」の圧力、その中心にいる当事者が生きるのがつらいと思う時、誰が救えるのだろうか。

もちろん「救い」などという超然な行動など出来るはずがなく、ただ、その苦しさを「苦しい」という事実のみを共有することしかできない。

それも慰めに過ぎないから、せめて継続的に一緒によい方向に歩むこと、その手を放さず、関係性を保ち続けるしかない。

ヨブの試練が続く人々には、一緒に、もしくは私一人でもよくなる奇跡を信じて待っている私がいる。待ち続けることが支援だと信じて、私は支援という仕事をしているのだと思う。

そう考えると、ヨブ記の教訓は私にとって、信じることを強めてくれるメッセージとなっている。

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image by:jorisvo/ Shutterstock.com

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