『アニメージュとジブリ展』に潜んでいた「アニメブーム終焉」の真実(藤津亮太)

『アニメージュとジブリ展』に潜んでいた「アニメブーム終焉」の真実(藤津亮太)

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  • 更新日:2021/05/03
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緊急事態宣言を受けて開催中止となった『アニメージュとジブリ展』だが、アニメ評論家・藤津亮太は、展覧会の導入部分に展示されたグラフが「アニメブーム」について大きな真実を伝えていることに気づいていた。「アニメブーム」は1980年代半ばには終わっていた?

『アニメージュとジブリ展』の背景

4月22日に『アニメージュとジブリ展』に足を運んだ。この展覧会は、アニメ雑誌『アニメージュ』の記事などを通じて、雑誌創刊から、アニメ映画『風の谷のナウシカ』を経て、スタジオジブリ第1作である『天空の城ラピュタ』が生まれるまでを扱ったもの。展覧会は当初、5月5日までの予定だったが、緊急事態宣言の発出を受けて25日以降は中止となってしまった。

当時のアニメを取り巻く状況に詳しくない人のために、この展覧会の背景をまず簡単に説明しておこう。

1978年、徳間書店が『アニメージュ』を創刊する。同誌は大手出版社による定期刊行されるアニメ雑誌の嚆矢である。現在スタジオジブリのプロデューサーとして知られる鈴木敏夫は、創刊時は同誌の副編集長であった。鈴木は取材を通じて、宮崎駿と知己を得ることになる。そこから同誌で宮崎によるマンガ『風の谷のナウシカ』が連載されることになり、同作は1984年に宮崎自身の手でアニメ映画となる。この『風の谷のナウシカ』のヒットを受け、宮崎の次作のために制作スタジオを設立することが決まり、1985年、徳間書店をバックにスタジオジブリが設立される。そして、翌年の1986年に、スタジオジブリ第1作となる『天空の城ラピュタ』が公開さたのだ。こういう経緯を踏まえての今回の展覧会なのである。

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『アニメージュとジブリ展』入口に飾られた歴代の表紙 (藤津撮影)

このようなコンセプトだから、展覧会の“ヘソ”となっているのは『風の谷のナウシカ』である(『ラピュタ』に関する部分は案外少ない)。なのでまず『機動戦士ガンダム』を中心にアニメブームの盛り上がりが紹介され、その中で『アニメージュ』という媒体がどのような挑戦を行ったかが紹介される。そしてブームの中で『アニメージュ』に紹介されたさまざまなクリエイターが、『ナウシカ』に参加したことがピックアップされる。たとえば会場には美術監督の中村光毅の背景画がまとまった数で展示されていたが、これは中村が『ガンダム』と『ナウシカ』両方に参加しているからだ。この「アニメブーム」から『ナウシカ』に至るという骨格に、さまざまな枝葉を繁らせるかたちで、展覧会は構成されていた。

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『アニメージュとジブリ展』で展示された竹谷隆之監修の「風使いの腐海装束」(藤津撮影)

ちなみに、この展覧会の“副読本”として最適なのが『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』(大塚英志/星海社新書)だ。これは当時の徳間書店のビルの2階で、漫画雑誌の編集に携わっていた、現在批評家の大塚英志が、『アニメージュ』などに関わっていた当時の若者たちの様子を中心に記したもので、それがどんな意味を持っていたか、ということについて考察している一冊だ。展示されている『アニメージュ』記事が、どのような人たちのどのような意識から生まれていたものか。そしてそれはサブカルチャーの歴史にあってどういう意味があったのかが記されているのである。だからたとえば、展覧会のオーディオガイドに出演しているスタジオジブリの高橋望も、もともとは『アニメージュ』の編集者なので、本書の後半でコメントと共に登場している。

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『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』大塚英志/星海社

そのように考えると、この展覧会は「人」を切り口にした展覧会だった。たとえば展覧会公式サイトでは展覧会の趣旨について「本誌(引用者注:『アニメージュ』のこと)を作るうえで確立していった鈴木流のプロデュース術とはどういうものであるか、それが後の作品制作にどのような影響を与えたのか、スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫の、“編集者”としての『もう一つの仕事』に着目します」と説明する。実際の展覧会はここまで前面に“鈴木推し”を打ち出しているわけではないが、当然ながら鈴木が展覧会の背骨として存在していることは間違いない。そしてその背骨の周囲に、『アニメージュ』と関わりがあった宮崎駿をはじめとするさまざまなクリエイターの名前が並んでいるのである。

だからこそ、というわけではないけれど、僕は展覧会を観ながら、むしろそこで語られる「人」ではなく、「時代」について考えていた。展覧会のテーマではないにもかかわらず、さまざまなところからにじみ出る、1978年から1986年にかけての「時代」の空気について。

1980年代半ばには終わりを迎えた「アニメブーム」

どうして「時代」のことを考えてしまったかといえば、展覧会の導入部分にあるグラフが展示されていたからだ。このグラフは、『アニメージュ』1998年1月号の連載「データ原口のアニメのはらわた」第17回に掲載された「TVアニメ放送本数の真実」というものだ。このテレビアニメの放送本数の変遷を記した折れ線グラフを見ると、この展覧会が扱う1978年から1986年までの8年間の大半が「アニメブーム」と呼ばれる時期と重なっていることがわかる。そしてこのブームは1980年代半ばには終わりを迎えているのである。

この展覧会では「アニメブーム」から「スタジオジブリの誕生」へとつないでいるため、冒頭のグラフでも示されている「アニメブームの終わり」に言及されることはない。もちろんこの展覧会は「アニメブーム」の展覧会ではないから、終わりに言及されないことにはなんの問題もない。だが、当然ながら「不在の存在」というものは、とても気にかかるものなのだ。

そもそも何をもって「アニメブーム」と呼ぶのか。製作委員会方式が普及し深夜アニメが始まる1990年代末までは、テレビアニメの放送本数が「ブーム」を判定する目安となる。いくつかの作品のヒットが、単独ヒットの枠を超え、アニメファン全体を増やし、それによってテレビ局やスポンサー(そして出版メディア)が、「アニメに商機あり」と力を注ぐようになる。そしてさらにアニメ・シーンが盛り上がる。テレビアニメの制作本数の増加は、このような正のフィードバックが発生していることのバロメーターとして考えることができるからだ。

ブームの起爆剤となったのは1977年に劇場公開された『宇宙戦艦ヤマト』だ。1974年のテレビアニメを再編集した同作は、ティーンエイジャーのファンに支えられ大ヒットを記録し、封切り前に映画館前に徹夜で行列するファンの様子と共に一種の社会現象として、マスメディアで取り上げられた。そしてこれは個別に活動していたファン同士が、より広い範囲で同好の士が存在することを実感することにもつながった。そもそも、同作の宣伝の過程で「漫画映画」「テレビまんが」といった従来の言葉を排し、意図的に“アニメ”と謳ったという指摘もあり、(以前から使われていたものの)現在の意味合いに近いかたちで「アニメ」という単語が定着したのがこの時期であった。

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『宇宙戦艦ヤマト』が描かれた『アニメージュ』創刊号(藤津私物)

こうして「アニメファン」の存在が可視化されたことで、出版業界はさまざまなアニメの出版物を企画するようになり、『アニメージュ』が誕生するのもこうしたムーブメントの中で起きたことだった。1978年は夏に『ヤマト』の続編映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』も控えており、『アニメージュ』の創刊号の表紙が『ヤマト』であるのはごく自然なことであった。

「ロリコントランプ」を忘れるわけにはいかない

そして1979年には『ヤマト』が可視化したティーンエイジャーのファンを想定して企画された『機動戦士ガンダム』が放送開始となる。ちなみに1970年代後半はティーンエイジャーのファンの発見と併せて、人口の多い団塊ジュニア(1971年から1974年に生まれた世代)も存在しており、この幅広さがアニメの制作本数を増加させていくことになった。

たとえば『アニメージュ』編集部による『TVアニメ25年史』(徳間書店*絶版)は1979年の項に以下のように記す。

飛躍的に作品本数が増えた、この年から数年間が、まさしくTVアニメの黄金期となる。動物物、ロボット物、ギャグ物、メルヘン物、魔女っ子物、スポ根物、ホームコメディ物、宇宙物と、ありとあらゆるジャンルのオンパレードであった。

『TVアニメ25年史』(徳間書店)

以降、1984年までテレビアニメの放送本数は(ほぼ)右肩上がりで増えていき、1984年には78タイトルにまで増加する。1976年の37タイトルと比べて倍増である(数字は『アニメ産業レポート2020』より)。そしてその内容も、『ヤマト』『ガンダム』のヒットを受けてティーンエイジャーを意識したものが増えていく。それはさらに「アニメブーム」を盛り上げていくのだった。

この1980年代前半の盛り上がりというと、『アニメージュ』1982年4月号の付録についた「ロリコントランプ」を忘れるわけにはいかない。これはさまざまなアニメの美少女キャラクターを集成したトランプで、なぜ“ロリコン”と銘打たれたかを雑駁にまとめるなら、当時は今なら「美少女に萌えること」を“ロリコン”という言い回しで表現していたからなのだ。その点で、この「ロリコントランプ」は、当時のファンのノリを反映した——それはつまり編集部とファンの間のある種の共犯関係を感じさせる——付録だった。この「ロリコントランプ」も、展覧会ではガラスケースの中に展示されており、当時を知る往年のファンの人たちが大いに反応していた。

なお1982年は多くの女性ファンを『六神合体ゴッドマーズ』が魅了していた年でもある。そのため『ゴッドマーズ』が4回表紙を飾り、そのうち3回が男性キャラクターが取り扱われている。アニメブームとは、二次元のキャラクターを実在のアイドルのように愛好するという楽しみが一気に広まった時期でもあるのだった。

こうしてテレビアニメの中に、ティーンエイジャーを意識した作品が増えていく。1983年には43タイトルが新たに放送されているが、ざっと3分の1程度が、ティーンエイジャーのアニメファンを意識した作品になっている。

ロボットアニメの本数を調べてみる

しかし、このような流れは1984年に大きく変わる。ここからが今回の展覧会では触れられていない、「ジブリ誕生」とはまた別の“結末”である。

というのも1984年7月の時点で、テレビアニメの放送本数が3分の2ほどに減るという現象が起きたのだ。『アニメージュ』1984年9月号は、これを受けて「テレビアニメの“激減“部分をさぐる!」という記事を載せている。

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テレビアニメ激減を記事化した『アニメージュ』1984年9月号(藤津私物)

記事はジャンルごとにその減少数を調べ、ラブコメ学園ものが10本から3本、ロボットアニメが12本から6本と共に大きく減っていることを指摘する。
この記事ではロボットアニメの不振の原因を玩具関係者の談話として次のように紹介している。

「要するにどのメーカーも『ガンダム』のあと、2匹目、3匹目のドジョウをねらっていたわけである。そこへ『マクロス』がでた。『そうか、やっぱりまだ売れるんだ』とばかりに、続々と新製品=新番組を投入したのが、去年(引用社注・1983年)のロボットものの乱立を呼んだわけですね」
「結局、こうして生まれた12本がのきなみ不調だったということですね」

ここでいう不調とは視聴率ではなく商品のセールスの不調である。記事では、セールスの不調の象徴として1984年5月のタカトクトイス(『超時空要塞マクロス』『超時空世紀オーガス』のスポンサー)の倒産を挙げている。

実際にロボットアニメの本数を調べてみると、

■1983年秋番組 10タイトル
銀河疾風サスライガー/光速電神アルベガス/サイコアーマー ゴーバリアン/亜空大作戦スラングル/装甲騎兵ボトムズ/銀河漂流バイファム/聖戦士ダンバイン/機甲創世記モスピーダ/超時空世紀オーガス/プラレス3四郎
■1984年秋番組 6タイトル
特装機兵ドルバック/超力ロボ ガラット/機甲界ガリアン/重戦機エルガイム/星銃士ビスマルク/ビデオ戦士レザリオン
さらに6タイトルのうち、2タイトル(『重戦機エルガイム』『星銃士ビスマルク』)を除くと、後番組はロボットアニメではなくなっている。

一方、ラブコメの減少について同記事は「視聴率がとれなかったこと」が原因としている。こちらも見てみると、

■1983年秋 6タイトル
Theかぼちゃワイン/愛してナイト/うる星やつら/伊賀野カバ丸/みゆき/ななこSOS/さすがの猿飛
■1984年秋 1タイトル
うる星やつら

終了した番組の後番組を見てみると、『Theかぼちゃワイン』の後番組が特別番組枠、『伊賀野カバ丸』の後番組が『ミッキーマウスとドナルドダック』、『みゆき』の後番組がバラエティで、編成局が「ティーンエイジャー」ではなく、ファミリーやキッズにターゲットを変えたことが伝わってくる。

あのとき“祭り”が終わったんだな

このようにして1977年から始まったアニメブームは1984年に終わったのであった。年齢が上のファンを対象とした作品は、主にOVA(オリジナルビデオアニメ)を主戦場として制作されるようになる。そして当時のファンは、しばらく経ってから、ようやくあのとき“祭り”が終わったんだな、と気づくのであった。

もちろんアニメブームの終わりは、テレビアニメの終わりではない。このとき起こったことは、むしろ「テレビアニメの再編」といったほうがいい。アニメはターゲットを未就学児から小学生、ファミリーへと改めて据え直し、つづいていく。このとき、キッズ層だったのが団塊ジュニアよりさらに年下の1980年ごろ生まれた世代。テレビアニメは再び彼らの成長と軌を一にするように、徐々にターゲットを上めの作品が登場するようになり、彼らが中学生になったとき、『新世紀エヴァンゲリオン』が登場するのである。

そして『新世紀エヴァンゲリオン』が製作委員会方式のごく初期の作品であり、再放送で深夜アニメの可能性を示し「今のアニメ」への扉を開きもするのだが、それはまた別のお話である。

アニメブームが『アニメージュ』を生み、そこからスタジオジブリが生まれた。それはそのとおりであり奇跡のような出来事だ。ただ個人的には、そうして大文字で書かれた歴史を前にしたとき、そこからこぼれ落ちた、“1980年前後の祭り”の終焉にまつわる「小文字の歴史」もまた忘れないようにしたいと思うのだった。

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宮崎駿を大特集した『アニメージュ』1982年8月号(藤津私物)

藤津亮太

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