「五・一五事件」の青年将校はなぜ減刑されたのか? 政党政治への国民の失望 〈井上寿一(学習院大学法学部教授)〉

「五・一五事件」の青年将校はなぜ減刑されたのか? 政党政治への国民の失望 〈井上寿一(学習院大学法学部教授)〉

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  • 更新日:2023/05/26
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

深刻な経済危機、足を引っ張り合う二大政党、軍部に期待を抱き始める国民...。昭和7年(1932)の五・一五事件の前後、日本の社会に何が起きていたのか。それらを大きな視点から捉え直すと、事件の持つ意味が浮かび上がってくる。

※本稿は、『歴史街道』2023年6月号特集「五・一五事件の真実」から一部抜粋・編集したものです。

【井上寿一(いのうえ・としかず)】
学習院大学法学部教授。昭和31年(1956)生まれ、東京都出身。一橋大学社会学部卒。同大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。学習院大学学長などを歴任。第二十五回吉田茂賞受賞。主な著書に『論点別 昭和史 戦争への道』『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』『機密費外交 なぜ日中戦争は避けられなかったのか』『矢部貞治』などがある。

政党政治の頂点を示した浜口内閣

五・一五事件が起こった当時の日本は、昭和4年(1929)にアメリカで始まった世界恐慌、翌年の昭和恐慌と続く深刻な経済危機のさなかにあった。

この時期に政権を率いたのは、立憲民政党の浜口雄幸首相である。浜口内閣は経済危機を乗り切るため、第一次世界大戦時に休止していた金本位制を復活させるとともに、徹底的な緊縮財政を打ち出していた。

金本位制に戻ることで円の価値を高め、緊縮財政で支出を抑制すれば、経済は回復すると説いた。国民はこれを支持し、昭和5年(1930)2月の総選挙では立憲民政党が大勝している。

浜口内閣の経済政策は、基本的に「お金を使わない」方向であるため、経済的には当面、今よりも苦しい事態になる。減税や積極財政で景気を刺激する政策の方が、普通は国民受けがいいはずだ。

しかし、この時点では多くの国民が、「ここを耐え忍べば、経済はよくなる」という浜口の方針に賭けたのである。

浜口は首相就任当初から、「消費に対する政府および国民の一大節制を断行する」と、緊縮財政の必要性を訴えていた。

また、対外的には協調外交の方針をとり、困難な外交交渉の末、同年、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶことに成功する。この条約は、国際協調の観点からも緊縮財政の観点からも実現が期待されていたものであった。

ところが、条約の批准をめぐって、勝手に政府が軍縮条約を結んできたことは、天皇の「統帥権を犯している」として、海軍などが浜口内閣に反発した。

これが統帥権干犯問題である。浜口は一歩も引かず、天皇の最高諮問機関であり、手ごわい相手である枢密院に対しても果敢に論争を挑み、最終的に枢密院の同意も取り付けて、条約の批准に成功する。新聞などのメディアも浜口内閣の外交を評価した。

昭和5年は後世から振り返ると、軍部や枢密院という守旧勢力を敵に回しながらも、政党内閣が政策を貫いたという意味で、戦前の政党政治が頂点に達した年だと評価できる。

この時は、国民もメディアも政党政治を高く評価し、そのわずか2年後に五・一五事件が起こるとは、考えもおよばない状況だったのである。

青年将校たちの焦り

しかし、軍部の側から見れば、第一次世界大戦に端を発する深刻な問題があった。

史上初の世界大戦を目の当たりにした日本の軍部は、「これからの戦争は、国家を挙げた総力戦になる」と実感した。そして、すべてを戦争に注ぎ込むような国家体制をつくらなければ世界と伍していけない、と考えるに至る。

ところが、第一次世界大戦後の世界は、大正9年(1920)に国際連盟が発足し、国際協調とデモクラシーの時代に入っていく。日本もその流れに沿った結果、軍人は非常に肩身の狭い立場に追いやられていた。

よく引用されるように、軍人というだけでお見合い相手も紹介されないといった青年将校たちの結婚難や、列車で子どもがぐずっていると、母親が「言うことを聞かないと、将来、軍人にしますよ」と叱ったとのエピソードがある。

「平和な時代に、無駄飯を食っている人たち」という軍人への偏見や蔑視感が、国民の間で根付いてしまっていた。総力戦体制を構築しなければならないのに、日本国民は軍人の社会的地位を低く評価し、デモクラシーの名のもとで安閑としている。

そうしたなか、イギリスの提唱で日本、アメリカ、フランス、イタリアの第一次世界大戦の戦勝国が参加したロンドン海軍軍縮会議が行なわれ、政府主導で保有する補助艦に制限を加える条約が結ばれた。

そして国民もこれを支持しており、もはや合法的なやり方では総力戦体制はつくれないのではないか──五・一五事件は、そう思い詰めた海軍の青年将校たちが非合法なテロやクーデターを自己正当化し、直接行動におよんだことで引き起こされたといえよう。

国民の軍部への評価が一変した出来事

昭和5年11月、浜口雄幸首相が、東京駅で右翼に銃撃される暗殺未遂事件が発生した。実行犯の「統帥権干犯」への憤りから発したこの事件が、その後の軍部の決起に間接的な影響を与えたのは間違いない。

もっともこの段階では、先に述べたように国民の多くは政党内閣を支持しており、軍人蔑視の感情を持っていた。明白な転換点となったのは、翌昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を発端とする満洲事変である。

浜口内閣が昭和6年4月に総辞職した後、政権は立憲民政党の第二次若槻礼次郎内閣が引き継いでいた。

若槻内閣は事変の不拡大を模索したが、関東軍は独断で拡大路線を突き進み、それに引きずられて世論も大きく転換していった。若槻内閣が方針とした日中提携の外交を、「弱腰」と非難し、軍の行動を支持するようになっていく。

その世論の転換に重要な役割を果たしたのが、新聞などのメディアだった。当初は速報合戦に始まり、やがて満洲事変を擁護し、焚きつけるような報道姿勢に転換していった。

柳条湖事件は、後世から見れば関東軍によるものだとわかるが、当時の日本国民は「中国側が仕掛けたもの」と信じていた。軍部は中国を懲らしめ、満洲国という理想の国家をつくろうとしている──そう思い込んだ国民は、軍部への評価を一変させていった。

若槻内閣は12月には総辞職に追い込まれ、その後を継いだのが、立憲政友会を率い、五・一五事件で暗殺される犬養毅首相である。

翌年3月には、満洲に住む諸民族による国家、という体裁をとった「満洲国」建国が宣言された。五・一五事件のわずか2カ月前のことである。

政党政治への疑念

国民の心が政党政治から離れていったのは、何も満洲国への熱狂だけが理由ではない。

浜口首相の暗殺未遂のあと、野党の立憲政友会は重傷の癒えない浜口を無理やり国会に引きずりだし、論争でやり込めることを繰り返した。これを見せられた国民は、党利党略の渦巻く酷薄な政治の世界に幻滅したことであろう。

もっとも、与党の立憲民政党にも問題があった。ロンドン海軍軍縮条約について野党の追及を受けたとき、国会で「天皇陛下がよかったと仰っているからいいのだ」と答弁したからである。

天皇の権威を持ち出して政策を正当化するのは、政党政治ではあってはならない。ところが条約締結は「問答無用」のお墨付きを得て、帝国議会で採決された。

当時は立憲民政党と立憲政友会の二大政党が競う状況にあったが、こうした党利党略に走り、泥仕合を演じる政党政治に、国民は辟易しつつあった。

そこへ満洲事変が勃発し、報道される戦果に接するうちに、「純粋で私利私欲がなく、真に日本のことを考えて行動しているのは軍人ではないか」として、国民の評価が変化していったのである。

五・一五事件の後、新聞に掲載された首謀者の青年将校たちの動機を読むと、失業者の増加、農村の貧困などを問題とし、現代風にいえば社会的格差の是正を訴えている。

これを受け、「テロリズムは決して肯定できるものではないが、首謀者たちは日本社会の現状を憂え、やむにやまれず直接行動に出た」と当時の国民の多くが同情を寄せ、事件を起こした青年将校たちの減刑を嘆願する署名運動が始まった。

海軍の青年将校たちは、五・一五事件に呼応して変電所などを襲った愛郷塾 (水戸で組織された農本主義の私塾)のメンバーに比べ、相対的に刑が軽かった。その背景には、軍部が事件を政治腐敗のPRに利用したこと、減刑嘆願を海軍が官製国民運動として仕掛けたことの二点を指摘できるであろう。

社会主義的な理想まで説き始める軍部

犬養首相を暗殺した青年将校の証言で、「犬養個人に怨みはない。政党政治を象徴する人物としての犬養を暗殺しただけだ」という趣旨の説明があった。これは国民感情にも訴えるものがあったのだろう。

「憲政の神様」といわれた犬養首相の死を悼む一方で、犬養が率いる立憲政友会の現状は正さなければならない。こうした考え方のなかで、手段はよくないが目的は評価できるという見方が広まっていった。

現代の私たちの価値観からすると、「政党が善玉、軍部が悪玉」であり、軍部の横暴によって政党政治がつぶされ、軍国主義一色になったと理解しがちである。

しかし当時の現実からすれば、「政党政治がうまく機能しないのであれば、軍部に政治を任せてもいいのではないか」と、国民に思わせるだけの状況が揃っていたのである。

実際、軍部も、軍部の指導によって「社会主義」の理想を実現しようとする国家社会主義的な考えを持つ者が増えている。

なかには「相続税を100%課税にして相続を認めない」「土地の私有は千坪までとする」といった極端な富の再分配を説き、国民を軍部に引き付けようとする者まで出てきていた。

国家社会主義は、国に総動員体制を確立するには非常に便利な思想であり、軍事化することで社会が平準化する側面もあるため、軍国主義との親和性がある。

軍部が社会の矛盾を解決し、改造してくれるという期待を国民が抱いたことで、軍部は対外戦争や軍事力の拡大により積極的に動けるようになった。

その意味で五・一五事件は、その後の日中戦争、太平洋戦争につながる国民意識を醸成するきっかけになったといえる。

五・一五事件に始まる対外戦争への道

五・一五事件をきっかけに軍部の力が強くなると、昭和11年(1936)の二・二六事件のころには、陸軍皇道派の青年将校のクーデターを陸軍が鎮圧するという展開に、「軍部がなければ、クーデターを防げなかった」とプラスの評価がされるようになる。

軍部が起こした事件を軍部が鎮圧したことで、より軍部の立場が強くなるという不思議な現象が起こっていたのである。

昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍いずれかの発砲をきっかけに、偶発的な軍事衝突が起こる。この盧溝橋事件を発端として、泥沼の日中戦争が始まるのだが、ここまでに軍部の力が強くなっていなければ、全面戦争に突入することはなかったかもしれない。

しかしこの段階では、すでにシビリアン・コントロール(文民統制)は効かなくなっており、広田弘毅外務大臣が不拡大方針を掲げて和平交渉を試みても、軍部をおさえることはできなかった。

この日中戦争の長期化が、のちに米英などを相手にした太平洋戦争に拡大していくことを考えると、太平洋戦争の敗戦からさかのぼって、その遠因を五・一五事件に求める見方は十分に成り立つ。

五・一五事件は、テロやクーデターとしては非常にずさんな計画で行なわれており、それ自体に評価すべきところはない。だが、こうした事件がのちの歴史に大きな意味を持つことは往々にしてある。

昨年7月の安倍晋三元首相の暗殺事件も、実行犯の動機は非常に個人的なものだったが、結果的には日本の国内政治を大きく揺るがすものになったことは周知の通りだ。もちろん、同列に語ることはできないが、要人の暗殺というのは一国の社会や歴史にそれほどの意味を持ってしまうことがある。

二・二六事件との比較から考える

五・一五事件そのものの原因をたどるならば、ロンドン海軍軍縮会議に行きつく。首謀者たちの裁判の公判記録を読むと、条約締結における「統帥権干犯」への憤りは、国際連盟において満洲事変が強く非難されたことへの怒りにつながっている。

要するに青年将校たちは、「国際協調」「軍縮」という世界の潮流そのものに不満を募らせていたのである。

昭和7年(1932)2月から3月にかけて、政財界の要人を狙った連続テロ「血盟団事件」が起こった。これにより第二次若槻内閣の蔵相だった井上準之助、大物実業家の団琢磨が暗殺されている。

血盟団の中心人物・井上日召らは「一人一殺」を掲げ、事後の具体的な構想もないままに、順番に要人を殺害することのみを目的としていた。それでも井上が指摘した政治家や財閥関係者の腐敗は、軍人の共感を呼び、この文脈のなかで五・一五事件も決行されている。

こうして政権転覆のような大きな計画性もない、情緒的、空想的なテロリズムとして五・一五事件は起こった。

のちの二・二六事件と比較すると、二・二六事件は本当に皇道派の軍人政権ができるかもしれない一歩手前まで行っており、陸軍も当初はそうなることを容認していた。海軍や財界などが支持しなかったこともあり、陸軍の統制派が鎮圧に動いた。

対する五・一五事件はその経緯からすればお粗末なものだが、国民が軍人に対して寄せた共感と好意は、二・二六事件とは比較にならないほどに大きかった。

2つの事件の違いの背景には、昭和6年12月の犬養内閣から昭和11年の二・二六事件で暗殺されるまで、蔵相を務めた高橋是清の積極財政政策で、日本経済が復活を遂げていたことが挙げられる。

統計的に見ると、昭和10年(1935)、11年は戦前の日本経済のピークであった。日本は恐慌による経済危機から、いち早く脱却できた国なのである。

五・一五事件が起こった昭和7年は、よく知られているように、東北を中心とした農村部の困窮がとくにひどかった。ところが昭和11年は違った。ようやく経済的に落ち着いてきたときに二・二六事件のようなクーデターを起こされても、国民が共感できるものはなかったのである。

五・一五事件前後の経緯から何を学ぶか

五・一五事件前後の時代背景を見てきたが、現代の私たちはそこから何を学ぶべきか。今までは、満洲事変から太平洋戦争敗戦に至る昭和初期を、「軍部の横暴に国が支配された暗黒の時代」とする解釈が一般的だった。

しかし、ここで見落としてはならないのは、「国民感情」や「国民の支持」だ。それらを背景に軍部の台頭が加速していったことは、これまで述べた通りである。

以上の歴史から私たち国民が学ぶべき教訓は、健全な政党政治を守り、育てていくことであろう。

戦前の立憲民政党と立憲政友会の二大政党制が、党利党略を優先した足の引っ張り合いに堕していたことは否定できない。

互いに政策を訴えて論争し、有権者にどちらがいいか決めてもらうのが健全な二大政党制だとするならば、相手のミスを誘って自滅させたら自動的に政権が転がり込んでくるというやり方は、二大政党制の悪いところが出てしまったケースといえる。

「政策論争のない政党政治はいらない」と国民が思ってしまったのも、無理からぬところがある。

しかし政党政治への失望によって、結果的に、国民自らが軍部の台頭を招き寄せてしまったことの意味は重大だ。

政党政治の発展と民主主義成熟には、時間がかかる。国民には、政党政治をあきらめることなく、忍耐強く見守り、育てていく姿勢が求められる。各政党の政策をよく見定め、一回一回の選挙で意思表示をしながら、政党政治が健全に機能するように導いていく心構えが国民に必要なのだ。

現代政治を見わたすと、主に1990年代以降は政党が次々に生まれては消え、すべての名前を思い出すのも一苦労である。

与党・自由民主党と野党第一党の日本社会党の対決構図になった昭和30年(1955)からの55年体制は、40年近く続いた。その時代に比べて現代は、「政党の使い捨て」のような状況に陥ってしまっている。

犬養首相を暗殺した青年将校に共感を寄せるのではなく、国民の代表として選ばれた政治家による政党政治に期待し、支持することが、最終的に国民全体を未来の悲劇から救う──。五・一五事件は、そんな教訓を投げかけているといえないだろうか。

井上寿一(学習院大学法学部教授)

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