
宝塚在籍時の苦悩と退団の経緯を語った生尾美作子さん【写真:徳原隆元】
華やかな舞台上でスポットライトを浴び、ファンからも羨望のまなざしを受けるタカラジェンヌ。しかし、その時間は永遠ではなく、退団後に厳しいセカンドキャリアの現実に直面するOGも数多くいます。宝塚歌劇団の世界をOGたちの視点からクローズアップする「Spirit of タカラヅカ」。今回は、男役として活躍し、退団後に遺伝子研究という道に進んだ異色の経歴を持つ、免疫美容家の生尾美作子さんが登場。劇団在籍時の苦悩や退団直後にあった衝撃的な出来事など、宝塚をこよなく愛するフリーアナウンサーの竹山マユミさんが伺いました。
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「中卒は採らない」と言われていた音楽学校受験 同期40人で中卒合格はたった1人
竹山マユミさん(以下竹山):もともと、お母様がタカラジェンヌでいらっしゃったとのことで、やはり小さいときから自然と宝塚を目指していたのですか。
生尾美作子さん(以下生尾):母親を含め、家族の中では“娘が生まれた宝塚へ”みたいなレールはあったのですが、自分自身が目指していたかというと、そうではありませんでした。
竹山:そのなかで宝塚を目指すきっかけは何だったのでしょうか。
生尾:「タカラヅカ花の指定席」(関西テレビ系列、1984年4月28日から1995年1月28日まで毎月最終土曜日に放送された宝塚歌劇団の舞台中継)という番組です。当時、バレエのレッスンの時間まで家で待っていたときに、たまたまテレビをつけたら涼風真世(67期、元月組トップスター)さんが出ていたんです。それを見たときに衝撃が走りました。そしてすぐに「私、ここに入ります」って決めました。「入りたい」のではなく「入ります」と。そのとき、私は将来の目標を見つけました。
竹山:急にスイッチが入ったんですね。
生尾:はい。その日から私は宝塚歌劇団に入るためにいろいろ頑張りました。ほとんど勉強をしなくなってしまったので、成績は急降下。でも、ありがたいことに母が「あなたは勉強しなくていい。ただ、手に職をつけなさい。やるんだったら必死になってやりなさい」と言ってくれたんです。「宝塚は本当にいいところだから」って。それが12歳のときでしたね。
とはいえ、私が受験する年は「中卒は採らない」と言われていたんです。でも、募集要項に受験資格は15歳から18歳までと書いてあるってことは、1%は可能性がある。だから私は「この1%で必ず入る」と家族に言っていました。母からは「今年は採らないって劇団が言っているのだから、落ちても仕方ないから覚悟はしておいてね」と言われていましたが、合格できたんです。同期40人中、中卒は私1人だけでした。
竹山:ご家族もさぞ喜ばれたでしょうね。
生尾:祖母が喜んでくれて、母が喜んでくれて、父も喜んでくれた。私が宝塚に入りたいと言ったのも、自分のためじゃなく、家族に喜んでもらいたいから目指していたんだということに気づきました。なかでも、料理職人をやっていた堅物の父の顔がゆるんでいたのを見たときは、うれしく思いましたね。
竹山:そうですよね。だってお父様はタカラジェンヌだったお母様を見初めたわけですから。家族が喜んでくれたというのはうれしいことでしたね。
生尾:やはり家族は支えになります。親の喜ぶ顔を見たいと思って頑張っているというのは少なからずあると思うんです。なので、やはり両親にあの経験をもう一回させてあげたいという思いで今も生きているんですけど、なかなか親孝行ってできないですね。両親が生きている間に、親孝行をしたいと思います。
同期は全員が「お姉さん」 価値観や思考が理解できない日々
竹山:中学校を卒業なさって、音楽学校に入ってからは親元を離れて寮生活を送られていたのですか。
生尾:私は自宅から通っていましたが、大変でした。梅田から始発5時台の阪急電車に乗って宝塚音楽学校に行き、着いてからお掃除。授業が全部終わって家に着くのが午後10時とか11時でした。そして寝て、また5時には……。寮は寮で大変ですけど、自宅は自宅で大変でしたね。
竹山:中学校を卒業後に入学されたのが生尾さん1人だったということは、ほかのみなさん全員がお姉さんということになりますよね。同期の絆を含め、関係性というのはいかがでしたか。
生尾:同期のお姉さんの「当たり前」がわからないんです。高校に行っていたお姉さん方の考え方、価値観も、思考もわからない。同期から「どうしてできないの」って言われても、できない理由がわからなくて……。
竹山:多感な時期の2~3歳差というのは、いろいろなことを吸収する時期でもありますしね。
生尾:ひと言で言うと、つらかった。でも「つらい」と言葉に出して言うことが申し訳なかった。やはり私は宝塚に“入れていただいた”という立場。上級生の方がよくおっしゃっていたのが、「あなたの後ろで42人が泣いているんだよ」という言葉でした。入試の倍率が42倍だったのですが、自分が入らせていただいたことによって、落ちている人もいる。そんななかで、つらいとか苦しいとか悲しいとか言っていられないというのはありました。せめてもう1人、中卒の同期がいてくれたら良かったのにと思います。
竹山:中学校を卒業した年代で乗り越えなくてはいけないハードルとしては、高かったですね。でも、中卒は採らないと言っていたなかで1人だけ合格したということは、劇団側の期待が大きかったのですね。
生尾:それは本当にありがたいなと思います。でも、私はやはり人と競争するのが苦手なんです。譲っちゃう性格で、競争や争い事でも一番になると申し訳なく思っちゃう。よく言えば優しい、悪く言えば逃げちゃう性格なんです。
竹山:宝塚においては、そういった性格はいかがでしたか?
生尾:宝塚歌劇団で長期間にわたり在団し続けて頑張っていくには、やっぱりそれが弱かった部分かなって思いますね。

男役から突然、娘役への転向を決めて周囲を驚かせた生尾美作子さん【写真:徳原隆元】
男役から突然の娘役転向宣言 プロデューサーに「次の公演から娘役になりたい」
竹山:最初、配属になった星組はどういう雰囲気だったんですか。
生尾:星組はやっぱりエネルギッシュでしたね。当時は麻路さき(69期)さんがトップスターさんで、のちにトップになられた稔幸(71期)さんがいました。男役さんの群舞がかっこいい組でしたね。その分、稽古場は厳しかったですが、男役に対しての美学がありました。品がある男役、というのが星組の強さだったのかなと思います。
竹山:キリッとした表情でみなさんが大階段を降りてこられるのは、今でも目に焼き付いている光景です。
生尾:私が初めて組子として入らせていただいて、男役の群舞の中に入れてもらったときはしびれましたね。もともと宝塚ファンだったので。自分もそこにいるのに、後ろからトップさんとか、何年もやってらっしゃる男役の上級生の方々の背中を見たときに「うわー、宝塚すごいな」って。言葉では言い表せないぐらいゾクゾクするものがありました。
竹山:そんななかで、男役をされていたのに娘役へ転向されました。どんなきっかけと経緯があったのでしょうか。
生尾:もともと、宝塚に入るときは娘役志望でした。身長が162センチに満たないくらい低く、体重も38キロくらいで、いわゆる娘役の体格だったんです。でも音楽学校に入ってから4~5センチぐらい背が伸び、166センチくらいになったことで、娘役になれなかったのです。研6(入団6年目)のとき、「ベルサイユのばら」では男役で衛兵隊をやっていましたが、入団したときからどうしても着たかった輪っかのドレスを着た娘役の方を見たときに、やはり私はこれを着たいと思ったんです。
その頃、私はいろいろな意味でぶっ飛んでいたので、ファンの方がいる前でプロデューサーさんを呼んできて「私、次の公演から娘役になりたいと思います」って言っちゃったんです。もう前代未聞もいいところですね。
竹山:そこでプロデューサーさんはどのような反応だったのですか。
生尾:「えっ、男役辞める?」ってびっくりしていましたね。ファンの方も驚いていましたが、私は「娘役になりたいから、なるね~」といった感じで、あっけらかんと……。
竹山:ご苦労はなかったのですか。男役から娘役って、声も仕草も、何から何まで違いますよね。
生尾:私はそこの部分においてとくに苦労はなかったのですが、今でも足を開いてしまうという“男”として生きてきた名残は、恥ずかしながら残っています。

生尾美作子さん(左)とインタビュアーの竹山マユミさん【写真:徳原隆元】
中国公演を最後に退団 帰国の飛行機で思いもしなかった出来事が
竹山:そんななか、退団されるタイミングは早かったですよね。どのようにお決めになったのですか。
生尾:私は2002年の中国公演を最後に辞めました。本来なら、日本の宝塚大劇場で退団して大階段を降りて、現役中にお世話になったファンのみなさま、応援してくださった方々に紋付袴でごあいさつするものなのですが、自分の中で“競い続ける”という環境に心の限界がきていました。役や歌のソロをもらっても、プロデューサーさんに「いらないです」と言っていたくらいですし。トップになるとか、有名になりたいという欲は、正直あまりなかったのかもしれません。ただ、あの憧れの宝塚の舞台に立っているだけで毎日がとても幸せでした。
でも、退団することになったとき、それから先の人生に大きく影響する“心の傷”を負うような出来事があったのです。
竹山:それはどんなことだったのですか。
生尾:1か月弱の中国公演が終わり、帰国の飛行機に乗ってみんなで帰る際、私の席だけみんなと違ったんです。今まで一緒に頑張ってきた、家族みたいな仲間であるみんなは固まって座っているのに、私だけすごく離れた後ろの席でした。そこでプロデューサーさんに「どうして私だけこの席なのですか?」と聞いたら、「もう宝塚を辞めた人間だから。一緒の飛行機に乗れるだけでもありがたいと思って」って言われたんです。そのときに「私はもうみんなと仲間じゃないんだ。“ひとり”なんだ」って。自分の中で退団したことの重大さに気づいたというか、すごくショックでした。
帰国して、最後に空港で星組組子で集まって「お疲れ様でした」ってごあいさつをして帰っていくのに、私はその場に加われなかった。「ここにいてはいけないんだ」と思い、帰りの空港からの電車の中、1人で号泣しました。このときに、自分の中の何かが弾けたというか、生きていかなきゃいけない強さが生まれたのかもしれません。24歳のときでした。
退団後、職を探すも…「そのときは何もできることがなかった」
竹山:そのときの心境は察するに余りあります。ご自身の決断とはいえ、やり切って退団されるということではなかったがゆえに、受け止め切れなかったということでしょうか?
生尾:そういう状況になって、悔しさが沸いてきました。ある意味、あんなに憧れだった、家族があんなに喜んでくれた宝塚歌劇団を辞める選択をした自分に悔しさを感じました。そして、いつかそんな自分を見返してやろうって思いました。宝塚を辞める選択をした自分を認めたかった。宝塚を辞めた選択が正解だったんだっていう居場所を作らないと、と……。
でも、宝塚を退団したそのときは何もできることがなかった。必要とされる場所がなかった。アルバイトもできない。ハンバーガーショップの面接を受けても不採用でした。
竹山:どうしてですか。
生尾:中卒だからです。高校在学中でもないし、高校卒業でもない。コーヒーチェーン店もコンビニエンスストアもダメでした。私には何もできることがなかったんです。そのときに、自分にできることってなんだろうと考えて、やっぱり歌って踊ることなのかなと。宝塚を思い出す環境から離れたかったので「宝塚歌劇団に関係しない」という事務所を紹介していただき、俳優として舞台をやったり、映像のお仕事をしたりしていました。
竹山:それでも、女優活動は1年間だけだったのはなぜですか。
生尾:俳優の活動では、宝塚を辞めなくても良かったんじゃないかって思ったんです。これでは過去の自分自身を見返せない。そこで何を思ったのか、タカラジェンヌで誰もやっていないことを目指そうと、遺伝子研究の道に進もうと決めたのです。
竹山:まったく違う道ですね。なぜ遺伝子研究だったのでしょうか。
生尾:その頃、私は太っていて、何をやっても痩せることができなかったんです。人っておもしろいもので、努力しても変わらなければ、他人の責任にしたがる。私は親のせいにしていました。親が私を痩せられない体にしているんだって。そこで、書店へ遺伝の本を探しにいきました。医学書コーナーに案内してもらいましたが、私には本を読む習慣がない。どうしようかと思って手に取った1冊の本が、遺伝子の研究をしている会社のものでした。すぐに「ここ入ろう」と思って電話して、面接をお願いしました。
竹山:あまりの急展開ですが、結果はどうだったのですか。
生尾:落とされました。入ろうと思った会社は国立大学医学部のベンチャー企業で、英語で書かれている論文を読めて当たり前、ゲノム・医療の専門用語が理解できて当たり前の世界。そこに中卒の私が入りたいって言っても厳しいですよ。でもそこで諦めなかった。もう一回面接を受けようと思った裏にあったのは、あの中国公演の帰りの飛行機の出来事と、なんとしても自分自身を見返したいという思いだったのです。
<次回に続く>
※19日11時45分に記事の一部を修正しました。訂正してお詫びします。
◇生尾美作子(いくお・みさこ)大阪府出身。11月16日生まれ。愛称は「みさこ」。母親、妹もタカラジェンヌの宝塚一家で育つ。1997年に83期として宝塚歌劇団に入団。劇団在籍時は「拓麻早希」の名前で活動した。雪組公演「仮面のロマネスク/ゴールデン・デイズ」で初舞台。男役から娘役に転向し、2002年に退団。退団後は俳優業を経て、DNA研究の会社へ入社。美容・健康の研究を行う。現在は免疫美容家として、人間本来の力を伸ばす美容健康法を提唱している。2023年3月21日より、主宰する「ジェンヌクラス」(旧ジェンヌコレクション)が活動を開始。元宝塚のセカンドキャリアにつながる活動(俳優・MC・美容家・企業等)を個々に提案しながら、SDGs、フェムテック、シングルマザー等の問題にも取り組む。芸能事務所リバイヴ所属。インスタグラム(misako_ikuo)では免疫美容に関する情報などを展開中。
Hint-Pot編集部