「成功確率は1割でいい」メガヒット商品「湖池屋プライドポテト」の生みの親の信念 湖池屋社長・佐藤章

「成功確率は1割でいい」メガヒット商品「湖池屋プライドポテト」の生みの親の信念 湖池屋社長・佐藤章

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  • 更新日:2023/05/26
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本社のすぐそばにある小さな森は、お気に入りの場所。ときどきふらりと訪れる(撮影/伊ケ崎忍)

湖池屋社長、佐藤章。ポテトチップスのトップランナーだった湖池屋。しかし、2016年に佐藤章が社長に就任したとき、会社は苦境に陥っていた。佐藤が手掛けたのは、原点に返ること。社名を漢字に戻し、ロゴを刷新。高くても品質のいい「プライドポテト」で売って出た。それが大当たりし、売上高は500億円規模に。思い切りやれ。小さくまとまるな。萎縮する社会に「挑め」と発破をかける。

【写真】講演が終わると、名刺交換を求める人たちで長蛇の列ができた*  *  *

今年3月8日、中部マーケティング協会が主催する講演会の壇上に、湖池屋社長、佐藤章(さとうあきら・63)の姿があった。約400人の聴衆を前に、冒頭から繰り出されたのは、佐藤流の経営の考え方だ。

「社長もやっていますが、心は商品開発にあります。私の中では、経営戦略ニアリーイコール商品戦略です。分業もいいですが、一気通貫こそが熱を生む。大切なのは、心に響く商品づくりです」

53回目を数える由緒ある場に招かれた理由は明白だ。湖池屋の大躍進である。佐藤が社長に就任した16年、会社は苦境に陥っていた。売り上げはじりじりと下がって赤字に転落。ところが、このとき約300億円だった売上高は、今や500億円規模。7年で倍増も視野に入る勢いなのだ。

もともとマーケティングの世界では、よく知られた人物だった。キリンビール在職時代、缶コーヒーの「FIRE」、ノンアルコール飲料の「キリンフリー」などのメガヒットを次々に手がけた。その本領は、社長に就任して最初に開発した「湖池屋プライドポテト」でいきなり発揮された。当時は入社2年目で、人事に所属していた野村紗希(30)は、その衝撃を記憶している。

「まったく初めて見るポテトチップスだったからです。社員の多くが戸惑っていました。こんな高い価格のものが本当に売れるのか。こんな新しい容器が受け入れてもらえるのか。いろんな部署で、不安や疑念が広がっていました」

コストをかけ、味に製法に徹底的にこだわった。スナック菓子では珍しい白を基調にしたデザインを採用。寝かせるのではなく縦型で自立するパッケージとした。キーワードは、大人、女性、本物志向。狙ったのは、新しいマーケットだった。

■ドイツ人家庭教師に学んだシュタイナーの自然哲学

20億円を売り上げればヒットというスナック菓子の世界で、新商品はあっという間に40億円を突破する。会社はメガヒットの対応にてんやわんやに。そして若手が商品開発に抜擢(ばってき)され、野村もその一人となる。ずっと心に秘めていた思いを佐藤に語ったのは、このときだ。お洒落(しゃれ)な若い女性が自分のために買いたくなるようなスナック菓子を作りたい。野村は今、最年少の次長として思いの実現に奮闘する。佐藤はいう。

「いくらデータを見たり、リサーチをしても、見えてこないものがあるんですよ。それを大事にしてほしいんです。自分の思い、世界観です」

父は証券会社勤務、母は祖父の家業である割烹店(かっぽうてん)を切り盛りしていた。10歳上の兄がいるが、早くに結婚して家を出たので、一人っ子のように育った。絵を描いたり、ものを作ったりするのが好きだった。小学校に入る前、自分で厚紙を切り、イラストも描いて作ったカルタが今も残る。教育熱心だった母は、わざわざ学区外の小学校に通わせた。やがて割烹店に来ていた早稲田大学教授から興味深い提案をされる。英語の家庭教師をつけてはどうか。こうして中学時代に出会ったのが、ドイツ人のケルスティン・ティニ。後にノーベル賞の賞状を作る装丁家となる女性だ。佐藤はいう。

「アインシュタインを教えたルドルフ・シュタイナーが作った神智学という学問を英語で学びました。自然哲学とも言います」

空を見上げれば、スケールの大きさがわかる。火をみれば、心も燃えてくる。海の深さを知れば、冷静になれる……。実は人は自然から大きな影響を受けていると学んだ。2年半ほど学び、早稲田大学高等学院に進学、以後はバスケットボール漬けとなる。インターハイに出場するレベルの部。1日1千本シュートを打ち、コートを30往復走る日々。高校で親しくなったのが、同じくハードな練習で、後に花園に行くラグビー部の佐々木卓(63)。現在、TBSテレビの社長を務める。

「お互い本当に激しい練習に明け暮れていたんですが、休みの日はよく一緒に演劇や映画や写真を観に行っていました。心の渇きを一緒に埋めに行っていたのかな。僕の中では、彼はそういう存在なんです。だから、ビジネスの世界で有名になったというのは、本当に意外でした」

早稲田大学法学部に進学すると、出会った仲間たちと、今も残る学生向けの同人誌「マイルストーン」を立ち上げた。一方で2年生の終わり頃には就職活動も始めた。自分は何で生きていくのか、早く定めたかった。多くの人に会い、最後に決めたのは、ものづくりをする会社。その中からキリンビールを選んだ。当時、ビール市場で50パーセント超のシェアを持つガリバー企業だった。

「いいものを作るけど宣伝が下手だと面接で教わって。自分の出番があるかも、と思ったんです」

だが、配属は営業。しかも、新入社員の多くが東京に配属される中、一人、群馬や栃木など関東5県をカバーする関東支社に配属になった。

「月曜に出ていって、金曜に戻ってくる出張営業。ベテランばかりなんですよ。ショックでした」

■ドライブーム時の逆境が「FIRE」の大ヒットに

だが、これが後に幸運だったとわかる。関東支社はエリアが広く、営業先も多種多様。問屋、酒屋、スーパー、居酒屋、ゴルフ場……。いろんな業態を見ることができた。ベテランの営業の中で一人、若かったことも意味を持った。一生懸命やっていると、それだけで取引先から可愛がられるのだ。しかも営業の仕事はイメージと違った。

「研修で変わった先生が来るんです。あるときは、寅さんみたいな口上を練習させられて。“寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、結構毛だらけ、猫灰だらけ……”。営業ってもっとスマートなものだと思っていたんですが、“てやんでい”の練習(笑)。このとき自分の中でポロンと何かが弾けた。このくらいハミ出さなきゃダメなんだ、と」

得意の絵で手作りPOPを作り、売り上げに貢献。取引先と酒を飲み、温泉につかり、カラオケに行った。店舗レイアウトもアドバイスするなど思い切った提案で、競合から大幅にシェアを奪った。気がつけば、どんどん営業成績が上がった。いつしか「関東支社のブルドーザー」と呼ばれるようになった。しかし87年、予期せぬ事態が起きる。アサヒスーパードライの発売である。

空前のドライブーム。贔屓(ひいき)にしてくれていた取引先のシェアがどんどん落ちていく。

「ショックでした。しかも単なる新商品ではなくて、スタンダードが変わる、という瞬間でした」

いくら営業力があっても、商品自体に力がなければダメだと痛感した。商品開発に異動を申し出る。90年、希望が叶(かな)ってマーケティング部門に移ったが、待ち構えていたのは、新たな試練だった。用語もわからない。上司の指示すら理解できない。これほど緻密な世界なのか、と驚いた。必要なのは、表面に現れていない消費者のインサイトを理解すること。膨大な消費データと格闘し、消費者インタビューを繰り返す日々。毎週1日4グループ、年間100日以上、生の声、本音やクレーム、不満を聞いた。だが、思うような結果は出せなかった。今は、その理由がわかる。

「ドライを倒そうと、ドライのことばかり考えていたからです。でも、ドライを作っちゃいけないんですよ。むしろやるべきは、逆だったんです」

8年を過ごし、ノンアルコール飲料を手がけるキリンビバレッジへ。そして前の8年間の苦しい学びを、このとき缶コーヒーで生かした。それが、99年発売の「FIRE」。発売わずか4カ月で1千万ケースというお化けヒットとなった。

「当時はバブル崩壊後で世の中のムードは癒やし一色でした。競合の戦略もまさにそう。だから、私は対極に振ったんです。自分の気持ちにエンジンをかけよう。暗い時代に火をともそう、と」

簡単に世に出せたわけではない。社内の反対を何度も何度も押し切った結果だった。だから、思い切ったことをやると決めていた。スティービー・ワンダーが出演したCMは、佐藤が大ファンだったからだ。日本への応援歌を作ってほしいと手紙を書くと、気持ちが届いた。まさかのCM出演。宣伝も大きな話題となり、巨大市場の缶コーヒーの世界で地殻変動が起きた。その後も、「生茶」「アミノサプリ」などヒットを連発する。

「でも、失敗したものもたくさんあるんです。成功確率は1割でいい。普通のマーケターはそうは考えないですけどね。でも、世の中の概念が変わるような商品開発をやりたいんです。思い切ったことをやらないと、つまらないじゃないですか」

(文中敬称略)

(文・上阪徹)

※記事の続きはAERA 2023年5月29日号でご覧いただけます

上阪徹

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