1通の葉書で絶縁、墓石の名前だけで生存確認をしていた母。認知症のおかげで親子の幸せな時間が戻った

1通の葉書で絶縁、墓石の名前だけで生存確認をしていた母。認知症のおかげで親子の幸せな時間が戻った

  • 婦人公論.jp
  • 更新日:2021/10/14
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イラスト:浜野史

家族の病をきっかけに、関係が修復されることもあれば、知らなかった一面を目の当たりにし驚愕することもあるようです。母親に「隙がない」と疎まれ、「実家の鍵を返して」と言われて疎遠になっていた奥居祐有子(仮名)さんの場合は…

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「ママの通帳が見当たらないの」

父と早くに死別し、20年以上一人きりで暮らしてきた母が、階段を踏み外して左大腿骨を骨折したのは今から4年前のことである。入院をきっかけに、認知と行動が不安定になり始めた。

得意だった料理は、時々お味噌汁を作る程度に。作ったことすら忘れてしまい、何日もほったらかす。母の家で夕飯を作り、「おかずは冷蔵庫に入れておくよ。ごはんは解凍してね」と言い残しても、翌朝おかずはそのまま残され、ごはんは新たに3合も炊いてあったりする。食事したことを忘れることもあった。

お金の管理も怪しくなった。話し合って、母の貴重品は私が預かることにしたが、「通帳がない」「印鑑がない」と昼夜構わず私の携帯を鳴らす。その都度「昨日、私に預かってって言ったよね。持っているから大丈夫。安心して」と伝える。すると「良かった。ありがとうね。お仕事中にごめんね」と言って電話を切る。

その1時間後にまた、「ママの通帳が見当たらないの。あなた、知ってる?」とかけてくる。イライラする心を抑えつつ、「私のところにあるからね。明日持っていこうか?」と言うと、「あればいいのよ。ごめんね」と電話を切る。その繰り返し。

仕事で2泊3日の出張に出たことがあった。出かける際、電話には出られないこと、通帳を預かっていることは紙に書いて伝えたし、何よりこの時ばかりは仕事に集中したかった。だが出張から戻ると、私と連絡がとれずパニックになった母が、銀行に「通帳紛失届」を提出していたことが発覚。しかも「祐有子が通帳を返してくれない」と親戚中に電話をかけまくっており、叔父からは「母親を泣かせるな!」と怒鳴られた。

「不安にさせてごめんね」と声をかけるも、「うん? 何のこと?」と小首をかしげている母を、「もう……」と抱きしめる。だがこうした穏やかな母娘の関係は、長い音信不通の果てのことだった。

「実家の鍵を返しなさい」という葉書が

私は結婚後、夫の仕事の都合で長い間海外で暮らしていた。幼子との異国での生活は楽ではなく、日々を乗り切るのに精いっぱい。しかも各地を転々としていたため、母へ心を向ける余裕はなかった。

時々届く母からの手紙は、弟のN雄一家がどれだけよくしてくれるか、N雄の子どもがどれだけ優秀かが綴られており、最後には「では、どうぞお元気で」とそっけない。こうした手紙を受け取るたび、やりきれなさに悲しくなった。

日本への帰国が決まったことを電話で報告した時も、「あら、それはよかったですね」と一言。そして「こちらは不自由なくやっていますので、お気遣いはけっこうですから」と一方的に切られた。

帰国後、意を決して実家を訪ねると、はじめのうちは機嫌の良かった母が、徐々に私を批判し攻撃してくる。でも、来たからには知りたい。

「どうして私を責める言い方ばかりするの」

何年も聞きたかったことを泣きながらぶつけた。すると母は「あなたはね、隙がなさすぎなのよ。N雄みたいにボーッとしてりゃよかったのよ!」と言い放ったのだ。ずっと弟とは異なる扱いを受けてきた理由がわかってよかったじゃない。そう何度も自分に言い聞かせた。

そして翌日、「実家の鍵を返しなさい」とだけ書かれた葉書が母から届いたのだ。決別ともとれる言葉に体が震えた。以来、私は連絡を絶った。母の生存は、年に数回の父のお墓参りの際、墓石に彫られた名前が増えていないかで確認するしかなかった。

今は小さくて可愛いおばあちゃんに

8年ほど経ったある日のことである。弟から突然「母さんが大変なんだ。会ってもらえばわかるから。もう俺だけじゃどうしようもない」という電話が入った。冷静さを装うが心臓の鼓動がいつもより速い。

一人で実家を訪れるのは怖すぎて、息子と娘についてきてもらった。深呼吸して、ピンポーン。「祐有子! あらぁ孫たちまで!」。満面の笑みを浮かべ、一回りも二回りも小さくなった認知症の母がそこにいた。

母は、「どうしてしばらく来なかったの?」と問う。私は、「来なくさせたのはママでしょ!」とふくれる。ようやく言ってやれることに満足しながら。母は下を向いて聞いている。曲がった背中をさらに縮め、「ごめんね、ママ、そんなこと言ったの? 全部忘れちゃって覚えてないのよ」としくしく泣く。

そして、「あなたを保育園に預けていた時のことだけど」と、いくつもの昔話を聞かせてくれた。母には幼子だった頃の私の印象が強いようだ。その深い愛情に導かれ、今の私があることに改めて気づかされる。

元気だった頃の母は気が強く、自分が悪くても絶対に謝らなかった。だが今は、小さくて可愛いおばあちゃんになった。認知症は人格を崩壊させる、と言う人もいる。でも母は違う。昔よりも表情が豊かになり、人格的にも深みや厚みが増した。

面倒なことはあっても、母が認知症になってくれたおかげで、私は母との幸せな時間を得ることができた。あのまますれ違っていたら、墓石に刻まれた名前を見た瞬間、私は自分を責め、母を責めたに違いない。

これまでの時間を取り戻すかのように、私は実家に通い、母と話をした。その後、母は一人暮らしができなくなり、施設に入居。1ヵ月後には末期のがんであることがわかった。私たちは文通を重ねた。ある日の母からの手紙にはこうある。

「ずっと会うことのなかった祐有子ちゃんとお話ができて、私の娘がこんな可愛い顔をしていること、やさしい気持ちの娘だと知れてホントに良かったと、寝る前に泣いてしまいました。神様が取り計らってくださったのでしょうか」

再会を果たしてわずか1年後、母の名前が仲のよかった父の隣に刻まれた。母は認知症になり、私のもとに母として帰ってきてくれたのだ。

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