編集部にスパイも 保阪正康が読み解く週刊朝日と戦争報道「そこに冷静な思考はない」

編集部にスパイも 保阪正康が読み解く週刊朝日と戦争報道「そこに冷静な思考はない」

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  • 更新日:2021/02/23
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保阪正康(ほさか・まさやす)/1939年生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学を卒業後、編集者を経て作家に。『昭和陸軍の研究』など著書多数。2004年、第52回菊池寛賞受賞。近著に『陰謀の日本近現代史』(朝日新書) (c)朝日新聞社

権力はメディアを操って戦意を高揚させ、国民を戦争に導く。利用されたメディアは、戦争で売り上げを伸ばす。過去、何度も繰り返されてきた戦争とメディアの関係だ。

【年表】「週刊朝日」と戦争はこちら

太平洋戦争中の週刊朝日も例外ではなかった。開戦前から「日米の対立は宿命である」と題した記事を掲載するなど、日本中が焦土になった戦争を賛美した過去がある。

実際の誌面はどのようなものだったのか。記者たちは軍の圧力にどのように屈していったのか。本誌「週刊朝日」は99周年を迎える今年、昭和史を研究するノンフィクション作家で、近著に『陰謀の日本近現代史』(朝日新書)がある保阪正康氏を取材し、これまであまり触れられてこなかった戦争中の記事を検証した。

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記事が“興奮”している。一目でそれとわかる誌面だ。

ハワイ・オアフ島の真珠湾に日本海軍350機が奇襲攻撃を仕掛けた1941年12月8日、日本は米国を相手に戦争を始めた。これが破滅への道につながったことは今では誰もが知るところだが、開戦特集を組んだ週刊朝日(12月28日号)には、戦争を賛美する言葉が躍った。

「皇道世界維新戦」「日本は神国である」「八紘一宇」……。真珠湾攻撃は国民にとって「待ちに待った開戦だ」と、うかれたトーンが目立つ。保阪氏はその意味をこう分析する。

「当時の週刊朝日の誌面を読むと、記事に『戦争の物語性』を入れることを重視していたことがわかります。世界史的な文脈から戦争を必然的なものと位置づけ、日本人は他民族より勝っているという根拠なき優越感が語られている。そこに冷静な思考はありません」

開戦特集号では、大本営海軍報道部の平出英夫大佐のインタビュー記事「ハワイ マレー沖 両大海戦を讃ふ」が8ページにわたって掲載された。

平出は、奇襲作戦が成功した理由は、「米軍は土日に訓練を休むから」という珍妙な分析を披露。こう語っている。

「日本の海軍には土曜も日曜もない、いわゆる月月火水木金金という曜日でやっているし、夜になれば、さあ、これからが猛訓練だというわけで、とても訓練の状況が違うのです」

そして、日本兵の「精神力」が、米軍に打撃を与えたと力説する。

「(米軍は)三足す二は五と考えている。ところが、日本のは掛け算です。三掛ける五、或いは三掛ける十という掛け算をしたのです。それを向うは知らなかった。掛け算とは何かというと、日本は精神力或いは訓練というふうな目に見えないもので掛け算をした!」

戦局の見通しも後から見ればあきれるほど楽観的だ。開戦時、日本は経済制裁を受けていて、石油の輸入が制限されていた。国内の石油備蓄は1年半程度しかない。もちろん、そんな“不都合な真実”は記事では紹介されない。むしろ、奇襲攻撃を受けた米軍側の立て直しが遅れると見て、平出はこう主張した。

「三年後に(米軍が戦艦を)補充できるまでは駄目でしょう。(中略)或いは(渡洋作戦は)永久にできないかもしれません」

現実は3年後、日本の主要都市は米軍の空襲作戦で焼け野原になった。

このころ、週刊朝日には軍人が登場する対談や座談会形式の記事が頻繁に掲載されている。「戦争の物語化」を進めたい軍の意向があったと思われるが、読者からの評判も上々だったようだ。

『朝日新聞出版局50年史』によると、41~42年ごろの週刊朝日の発行部数は35万部。それが、開戦の国民的興奮に乗って約50万部まで伸びたという。軍の意向に協力したことで、売り上げが増加したのだ。

こうした誌面がつくられた背景には厳しい統制もあった。戦時中の週刊朝日編集部員の一人は、戦後に朝日新聞社の社内報でこう証言した。

「軍の圧力はひどく、検閲はきびしい。二言目には“発行停止にするぞ”とおどされる。軍からは、毎日のように禁止事項を伝えてくるので、とても細目をおぼえ切れず、社内に検閲専門のセクションを置いて、いちいち相談して記事をつくるというありさま」

それどころか、編集部内には軍の“スパイ”のような部員もいたという。

「某という部員が軍を通じて部内をひっかきまわしたことさえあった。軍からは、つぎつぎと御用記事を持ちこんでくる」(元編集部員)

社内報では、この某という部員は戦後に自殺したと書かれている。

戦局が日本に不利になっても、記事の内容は変わらなかった。43年11月21日号では、学生が戦地に送り込まれた学徒出陣を大特集している。

このときは文部大臣の岡部長景がインタビューに応じ、学生に向けて「喜んで国家の大使命達成の人柱となってもらいたい」と、戦死を奨励した。記事には、岡部が出征する学生のために作詞した「海ゆかむ」という曲も、楽譜付きで紹介されている。保阪氏は言う。

「記事にある岡部文部大臣の言葉からは、知的な訓練を受けている学生を、戦地という暴力の場に出陣させることの苦しみがあまり感じられません。戦時とはいえ、教育が軍事に屈服している様子がよくわかります」

一方、記者たちの中には厳しくなる検閲と闘う動きもあった。それでも、「せいぜい、小さな囲み記事で、ささやかなレジスタンス(抵抗)を続けるのが精一ぱいだった」(前出の元編集部員)という。

保阪氏はこの「ささやかな抵抗」に注目すべきだという。その一つが、42年1月11日号に掲載された鈴木貫太郎海軍大将のインタビュー記事だ。

鈴木は、敗戦が濃厚となった45年4月に首相に就任した。首相在任時は終戦工作に奔走した鈴木だが、42年1月の記事では真珠湾攻撃を「まったく大戦果でしたナ。有難いことです」と評している。

ただ、現実派の鈴木らしく、作戦の分析は他の軍人より冷静だ。奇襲の成功は、荒れていた天気が回復し、燃料補給が順調だったことが大きかった。そのことを「天佑」(天の助け)と表現し、作戦への評価は「まかり間違えば全滅する覚悟」と厳しかった。

保阪氏は、鈴木がこの記事で「海軍の優秀な戦略家」として佐藤鉄太郎の名前をあげていることに驚いたという。

「佐藤鉄太郎は、明治から大正にかけての海軍の理論家です。彼は、陸軍が満州を植民地にすることに反対し、日本は専守防衛に徹するべきだと訴えました。その佐藤の名前をあえて出したのは、侵略的な要素が強い日本軍の現状について、『もっと防衛的であるべきだ』と言いたかったのではないでしょうか」

記者があからさまに「戦争反対」を訴えれば、軍部から目を付けられる。そこで記者は海軍大将である鈴木に語らせることで、戦争の危険性を訴えたかったのかもしれない。

戦争末期には、隠された反戦メッセージが目立つようになる。

45年7月15・22日号には、海軍大佐の高瀬五郎による「勝つ途(みち) 近きにあり 本土決戦に備へる国民の態度」と題した記事が掲載された。軍人、民間人ともに多くの犠牲者を出した沖縄戦が終わった直後だったが、高瀬は沖縄戦を「陸海軍としては来るべき作戦に対する自信を得た」と総括し、戦争完遂を訴えている。

ところが、同号には「ポツダム記者会談」という外国人記者同士の会話を描いた謎の戯曲台本も掲載されている。舞台設定は「新聞特派員の宿舎で交わされた会話」。米国のトルーマン大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の間で行われたポツダム会談の背景について分析したものだ。

内容は際どい。台本の中の<ところで、この会談で対日策はほんとに取り上げられるか>との問いに、英国人記者が<チャーチルが総選挙に勝つか負けるかによってきまると思う。僕の見るところでは、保守党は惨敗だね>と返す。保阪氏は言う。

「実際、この記事のとおり、45年7月の総選挙ではチャーチル率いる保守党が敗北しました。当時の情勢を的確に分析しています。週刊朝日の記者の中に、英語に堪能で、国際情勢に精通した記者がいたのでしょう」

米国人記者には、沖縄戦が終わった後の戦局の見通しについて、<米軍だけの力で悠々と対日戦は片づけられる、というのが米政府の肚(はら)らしい>とも語らせている。

日本軍が負けることを想定する内容など、検閲を通るはずはない。なぜ、これが掲載できたのか。保阪氏は言う。

「敗戦が濃厚になると、検閲もだんだん機能しなくなった。検閲をする側にも、敗戦後の戦争責任の追及を避けたいという思いがあったからです。記者もそのことを理解して、このような形であれば検閲も通ると考えたのでしょう」

時代は変わっても、一歩間違えばメディアが権力の手先になり、都合よく利用される構造は今も変わらない。私たちは過去から何を学べばいいのか。保阪氏は、こう話す。

「近現代史を学ぶのは、誰かの責任を追及するためではありません。社会の制約があるなかで、その時代の人たちはどう生きたのかを知ることに価値がある。記事に書かれた言葉も、メッセージは一つとは限りません。その文章が本当に伝えたいものは何か。眼光紙背に徹して読むことです」

45年8月15日、日本は戦争に負けた。週刊朝日8月12・19日号の誌面には「善敗者として発足せよ」と題したコラムが掲載され、そこにはこう書かれていた。

「日本始まって以来の大失敗の原因は広く探らねばならない」

その言葉は、戦後75年が経った今でも意味を失っていない。(本誌・西岡千史)

※肩書は掲載時のもの。文中の敬称は一部省略、引用は必要に応じて現代仮名遣いに改めました。

※週刊朝日  2021年2月26日号

西岡千史

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