YMOの歴史を追ったヒストリー本を書きました

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  • 更新日:2021/04/08

文=吉村栄一 協力=KADOKAWA

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2016年のトーク・ショーで(撮影:三浦憲治)

また遠足から寄り道ですみません。

今回、3月12日に上梓したイエロー・マジック・オーケストラ、YMOの伝記本の紹介をしてよろしいということで、お言葉に甘えて本について触れさせていただきます。また、出版社(KADOKAWA)の好意で、本の一章をまるまるここで公開いたします。

本のまえがき、あとがきなどでも書いているよう、この本はもともと、2013年に21世紀に再再結成したYMOの活動が一段落し、その21世記のYMOの記録をまとめておこうと思ったことがきっかけでした。

が、その準備を進めていくうちに、やはり21世紀のお話だけではなく、その前段である20世紀、すなわち結成から解散(散開)までの1970〜1980年代のYMOの記録もなければ始まらないと思い至りました。

最初は自分自身がライヴの立ち合いやインタビューも何度も行った21世紀のYMOの話だからと気軽に考えていましたが、20世紀のYMOとなるとまとめるのが大変です。なんといっても、その頃のぼくは福井県福井市という、当時民放テレビは2局、FMラジオはNHKのみという地方都市に住む10代でした。YMOは憧れを持って眺める遠い存在。その音楽や立ち居振る舞いに熱狂しながらも自分の人生とは接点があるはずもない。

はるか遠い場所から見つめる憧れの存在で、生身の人間という実感はありません。あくまでメディアというフィルターを通した存在でした。

それでも、その後に大学進学を機に上京し、出版の世界に関わるようになって次第に音楽の世界、そしてYMO周辺とも縁ができるようになったのは幸いでした。

YMO神話に決別

1990年代にYMOが一時復活した頃にはインタビュー取材をしたり、関連書籍を編集したり。そこでの縁は、21世紀に入り、YMOが再び復活すると、ありがたいことにさらに濃いものとなりました。いろいろなお仕事をご一緒させてもらい、貴重なお話をうかがう機会もたびたび。

しかしそうした、ようやく生身の存在と実感できたYMOと、1980年代の“あの”YMOとそれを取り巻いた状況の空気(それはすなわちテクノポリス東京の空気と言ってもいいでしょう)との距離感は変わらないままでした。

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1981年の東京公演(撮影:伊島薫)

今回、1980年代までのYMOをあらためて捉え直そうと思ったとき、いちばん重要だったことは、生身の実感がない遠い存在だったがゆえに、額面通りに受け取っていた、いわゆるYMOの神話を頭から追い出すことでした。

YMOは解散(散開)後の1980年代半ばから1990年代にかけて、「YMOとはこうだった」「こういう存在だった」とそのカリスマ性を補強するような真偽不明のエピソードや検証なしの論があまりにも多く流通し、神話を形作っていました。

YMOのメンバー自身もいつしかそれらの神話を自らの記憶の上書きとしている面もなきにしもあらず。そのため、自分で編集したり関わったりしたものも含め、今回はYMOが散開して以降に編まれた1980年代までのYMOに関する書籍や著作物は一切参考にしませんでした。

あくまで当時の、リアル・タイムの報道や情報(それらのうち多くも、誤っていたりバイアスがかかったものが多かったのですが)と、当時間近でYMOにかかわった人々への取材から浮かび上がる事実を軸にしました。

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1981年のアルバム『BGM』の広告

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海外進出の真相

YMOの神話に関するものでは、なによりも海外進出とその成功に関するものが多いと思います。90年代に完成した神話に、近年は“クール・ジャパン”や“日本すごい”系の見方による偏向がさらに加えられているような気もします。

YMOの海外進出はたしかにすごかった。しかしそれは、神話になっているようなまばゆい華々しさよりも、メンバー本人たちと周辺の関係者による、もっと泥臭い、努力と創意のなせる技でした。そしてそれはまぎれもなく、戦後の日本の復興と相似形で、昭和の、汗まみれの海外進出の物語。

そうした、海外進出の実相をあらためて浮き彫りにするため、本書では当時の海外の関係者にあらためてインタビューを行い、さらに海外におけるYMOに対する報道記事や広告類を多く蒐集しました。それによって浮かび上がってきたのは、1970年代末から1980年代初頭にかけての、海外から見た日本のイメージが変換されようとしていた、まさにそのときYMOの海外進出が行われたということでした。好意がありつつも誤解とディスコミュニケーションの上になりたった日本のイメージとYMO。これは今日でも、21世紀のYMOをめぐる環境でもいまだ解決してないような気がします。

こうして、第一部はYMOの過去を遡る旅となりましたが、第二部は逆に、ぼく自身が取材して見聞きしたYMOのメンバーによる証言が核となっています。メディアというフィルターを通さず、自分の目で見て、耳で聞いた21世紀のYMOの歴史。

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2011年、ロサンジェルス、サンフランシスコにて31年ぶりの米国公演(撮影:吉村栄一)

20世紀とちがって、恒常的に活動するのではなく、ときどきに集まって音楽を奏でた21世紀のYMOは、だからそのときどきに報道されることによって点としての活動は見えましたが、その全体像をまとめた記録はこれまでなかったと思います。

時代とシンクロするYMO

21世紀のYMOはそのときどきの断続的な活動であることで、逆に惰性的なあり方ではなかったということでもあります。

やるべき意義があるときだけYMOをやる。

21世紀に復活したYMOの活動にチャリティ目的のものが多いのはそのためでしょう。

気候変動や原発事故、戦災、病気のこどもとその親への支援。

1980年代までの尖ったYMOとはまたちがう顔がそこにはありました。

東日本大震災のような社会を揺るがす大災害もYMOの活動に大きな影響を与え、時代とシンクロせざるを得ないアーティストとしてのYMOの姿も描写したつもりです。

こうした活動の足跡はなんとしてでも記録として残すべきだと思ったのも、この本の執筆の動機のひとつでした。

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2007年、京都東寺でYMO復活!(撮影:平間至)

YMOは2007年にその名義を復活させて2013年までYMOとしての活動を行ないましたたが、その間、メンバー3人が揃って取材を受けたり、公開で話をした機会は稀。

ぼくの記憶ではたぶん6回。そのうちのひとつは2008年のロンドン公演の際に海外のメディアからのインタビューで、それと2007年のNHKによるテレビ・インタビューを除くと、3人が揃ったYMOとしてのインタビューは僥倖にもぼくが聞き手になることができました。

それ以外の、メンバー3人の個々のYMOの活動に関するインタビューもまじえ、この第二部では後世に残すべきYMOの発言を書籍という形で残せたかなと少しほっとしています。

そんなYMOの歴史を綴った本書の中から、今回はYMOが海外に飛び出した最初を描写した第一部第二章を紹介いたします。

第2章

イエロー・マジック・オーケストラ、ついに世界へ

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1979年、ロンドン公演の楽屋で(撮影:鋤田正義)

トミー・リピューマとホライズン・レーベル

トミー・リピューマは1936年にオハイオ州で生まれたアメリカ人音楽プロデューサーだ。

20代の半ばから音楽の仕事に携わるようになり、以降はオハイオの独立レコード会社を皮切りに、マーキュリー、リバティー、A&Mなどいくつものレコード会社の仕事をするようになる。1970年代にはジョージ・ベンソンの『ブリージン』ほか、クインシー・ジョーンズ、アル・ジャロウなどヒット作のプロデュースで名前が知られるようになった。

1978年の秋には再びA&Mに所属して、副社長兼、A&M内レーベルの“ホライズン”のクリエイティヴ・ディレクター、統括責任者の任にあった。

1978年にアルファレコードと契約したA&Mレコードは、日本のフュージョン・ブームを知り、それらの中の有望なアーティストをホライズン・レーベルから全米、ワールド・ワイドにデビューさせる計画を持っていた。世界的に盛り上がりを見せていたフュージョンであれば、ポップスとちがい言葉の壁がなく、ジャズやフュージョンの分野での日本人プレイヤーの技能の確かさもトミー・リピューマが主な仕事の場としているニューヨーク(A&Mがあるロスアンジェルスではなく、トミー・リピューマが手がけた多くのアルバムはニューヨークで制作されている)では知られてもいた。

ただ、このときトミー・リピューマの中には日本のアーティストに関する具体的な情報はまだほとんどない。季刊『アドリブ』誌1978年冬号のインタビューでは、日本のアーティストで知っているのは、交遊関係のあるジャズのミュージシャン兼プロデューサーのマイク・マイニエリから教えてもらった渡辺香津美のみだと語っている。まだこの時点では、その渡辺香津美がアルファレコードからデビューするイエロー・マジック・オーケストラというバンドのライヴにギタリストとして客演しているということも知らない。

ともあれ、トミー・リピューマは日本のアーティストのデビューのための音楽状況の視察もかねて、1978年12月に来日することになった。A&Mレコード所属のニール・ラーセンが出演するアルファ主催の音楽イベント『フュージョン・フェスティバル』にタイミングを合わせてのものだった。トミー・リピューマがプロデュースしてきたほとんどのアルバムでエンジニアを務めているアル・シュミットも同行していた。

アルファ・フュージョン・フェスティバル

この年の12月2日から10日に渡って新宿の紀伊國屋ホールで行なわれた『フュージョン・フェスティバル』はA&Mレコードとの契約を勝ち取ったアルファレコードのこれからを華々しく紹介するお披露目イベントでもあった。キャッチ・コピーは「We Believe in Music 」。

「フュージョンを代表するスーパー・ミュージシャンが繰り広げる音楽の祭典! そこには来るべき80年代のミュージック・シーンの予感ときらめきが乱舞する。(A&Mホライズンの名プロデューサー、トミー・リピューマがニール・ラーセンと共に来日!)」

広告などでこう銘打たれたイベントは次のような日程と出演者で開催された。

・12月2日(夜のみ)
大村憲司/ニール・ラーセン

・12月3日(昼、夜)
吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月4日(夜のみ)
吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月5日(夜のみ)
細野晴臣&イエロー・マジック・オーケストラ/ニール・ラーセン

・12月6日(夜のみ)
吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月7日(夜のみ)
大村憲司/ニール・ラーセン

・12月8日(夜のみ)
吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月9日(昼、夜)
大村憲司/ニール・ラーセン

・12月10日(夜のみ)
細野晴臣&イエロー・マジック・オーケストラ/ニール・ラーセン

ベナード・アイグナーは、クインシー・ジョーンズらとの仕事で評判だった黒人シンガー&キーボーディスト。吉田美奈子がセカンド・アルバムでアイグナーのヒット曲のカヴァーを歌うなどして日本でも知られ、この1978年にはアルファレコードから渡辺香津美、深町純、村上秀一らをバックに迎えた日本オリジナルのアルバム『リトル・ドリーマー』を制作していた。

当時、アルファでこのベナード・アイグナーのレコード制作を担当していた宮住俊介は、2000年代に開設したブログで、この『フュージョン・フェスティバル』について、興味深い記述をしている。

当初、この『フュージョン・フェスティバル』にはイエロー・マジック・オーケストラの出演は予定しておらず、それ以外の出演者でイベントを発表したところ、売れ行きが芳しくなく、そこでイエロー・マジック・オーケストラを急きょブッキングしたという内容だ。

チケットの売れ行きが不振なのは、出演者がこの頃まだ知名度が足らなかったからだという分析があったらしい。

もちろんイエロー・マジック・オーケストラにしたところで、ブッキングした時点ではファースト・アルバムの発売をしたばかりのバンドで知名度という点ではゼロに近い。前章にあるよう、イエロー・マジック・オーケストラのプロモーションに困って、しかたなくフュージョンというくくりにしてこのイベントにブッキングしたという経緯もあった。

しかし、これも先に紹介したようにイエロー・マジック・オーケストラのデビュー・アルバムの発売時は、アルファはイエロー・マジック・オーケストラを固有のバンド、グループというよりは細野晴臣のプロジェクト的な広報、宣伝をしている。

海のものとも山のものともつかない新人グループではなく、はっぴいえんど以来、数は多くなくてもそれなりの固定ファンのついている細野晴臣のファンにまず目を向けてもらおうという戦略だ。

宮住俊介のブログにもこうある。

「背に腹は代えられない。(イエロー・マジック・オーケストラは)フュージョン・ミュージックとはまったく無縁のサウンドではありましたが(中略)350人ぐらいの小さなホールですから、細野さんの信奉者だけでも、なんとか2日くらいはいっぱいになるのではないか。(中略)期待通り(?)YMOの出演する2日間は、あっという間に完売しました」

実際にこのイベントの告知の広告でも、イエロー・マジック・オーケストラは「細野晴臣&イエロー・マジック・オーケストラ」という、細野晴臣の名前を前面に出した表記になっている。

この回想をもとに、9日に渡る『フュージョン・フェスティバル』の座組をあらためて見直すとわかることがある。

招聘したA&Mレコード所属アーティストであるニール・ラーセンと組になっているのは大村憲司とイエロー・マジック・オーケストラ。

そう、ニール・ラーセンと組になっているのは、まず大村憲司。ニール・ラーセンとともに、ホライズン・レーベルのトミー・リピューマがやってくる以上、トミー・リピューマに大村憲司というアーティストとその音楽を印象づけたい。これは当然だろう。この頃にアルファレコードがホライズン・レーベル、ひいてはその親会社のA&Mレコードから世界デビューさせたいアーティストの筆頭は大村憲司だったのだから(渡辺香津美はアルファレコードからリリースしてはいたが日本コロムビアの専属アーティストになっていた。このことも後にイエロー・マジック・オーケストラの運命に大きく関係する)。

その一方、ニール・ラーセンの出演するステージで客席に空席が目立ってはアーティストにもトミー・リピューマにも面目が立たない。そこで350席完売まちがいなしの固定ファンがいる細野晴臣のイエロー・マジック・オーケストラと組ませる。

こうした配慮のもとでの座組だったのだろうが、これが運命を開いた。

もちろん、イエロー・マジック・オーケストラのだ。

12月5日にニール・ラーセンとイエロー・マジック・オーケストラの、いまでいう2メン・コンサートを見終わったトミー・リピューマは興奮して周囲の関係者に叫んだという。

「イエロー・マジック・オーケストラは売れるぞ!」

この『アルファ・フュージョン・フェスティバル』でイエロー・マジック・オーケストラが披露した曲は、ライヴ・デビューの10月以降に行なってきたイベント出演やライヴ・ハウス規模のコンサートで演奏してきた曲目の短縮版。

「ファイヤークラッカー」、「ビハインド・ザ・マスク」、「中国女」、「東風」、「プラスティック・バンブー」、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、「ジ・エンド・オブ・エイジア」、「コズミック・サーフィン」、ピンク・レディーのヒット曲「ウォンテッド」のカヴァー、「千のナイフ」で、「プラスティック・バンブー」「ジ・エンド・オブ・エイジア」「千のナイフ」は坂本龍一のソロ・アルバムの曲。

細野晴臣の名前を前面に出してはいるが、細野晴臣曲は「コズミック・サーフィン」のみ。このコンサートの観客の反応について、細野晴臣はよほど驚いたようでいまに至るも「どよーんとした反応が返ってきて驚いた」という当時の心境を語っている。

それはそうだろう、細野晴臣の名前に惹かれてやってきた多くの観客の望みは、やはりはっぴいえんどとは言わないまでも、当時の細野晴臣のトロピカル三部作『トロピカル・ダンディ』『泰安洋行』『はらいそ』のような世界が提示されることだっただろう。それがシーケンサーとシンセサイザーによるイエロー・マジック・オーケストラ。細野晴臣の表現による「一種異様な反応」になることは無理がない。

ところが、熱狂的な反応を示したのがトミー・リピューマだった。

イエロー・マジック・オーケストラはいける! と、なによりも判断させた曲はコンサートの冒頭の「ファイヤークラッカー」、そして細野晴臣作曲の「コズミック・サーフィン」だったようだ。

5日のコンサートの直後、トミー・リピューマはアルファレコード社長の村井邦彦、制作責任者の川添象郎にイエロー・マジック・オーケストラのアメリカ・デビューを進言。

この『アルファ・フュージョン・フェスティバル』でのトミー・リピューマのイエロー・マジック・オーケストラに対する熱烈な反応には、川添象郎が事前にホテルにシャンパンを持参してお互いにほろ酔いになってから会場に連れてくるというトリッキーな手段も背景になっているのだが、さすがは名プロデューサーだ。酔っていてもこのときの直感が間違っていなかったことは翌年すぐに証明されることになる。

そして新宿紀伊國屋ホールでの『フュージョン・フェスティバル』の最終公演にしてイエロー・マジック・オーケストラの2回目の出演となる12月10日のステージでは、開演前に司会者がこう高らかに宣言している。

「イエロー・マジック・オーケストラのアメリカのA&Mレコードからのデビューが決まりました! それもなんと、いまアメリカでもっともポピュラーなスタイルである30センチ・シングルです! やがてイエロー・マジック・オーケストラの音楽がアメリカで大ヒットすることと確信しております! それでは紹介したいと思います、細野晴臣とイエロー・マジック・オーケストラです!」

この宣言を聞くと、この時点ではファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』の全米での発売よりも先に、まず「ファイヤークラッカー」の12インチ・シングルのアメリカ発売をトミー・リピューマが提案したのではないかと思われる。

アメリカで、地方の弱小レコード会社のいち宣伝マンから、メジャー・レコード会社で自分のレーベルを持つプロデューサーにまでのし上がってきたトミー・リピューマは、当然、ショー・ビジネスの世界での切れ者でもある。嗅覚は鋭い。

たしかに大村憲司や渡辺香津美など、『フュージョン・フェスティバル』で目の当たりにしたアーティストの技量や音楽性の確かさには注目しただろう。

だがしかし、優秀なフュージョンのアーティストもアルバムも、自身のホライズン・レーベルにはすでにある。そこにないもの、新しいもの、話題を呼ぶものはなにか? レーベルの成功の糧となるものは?

それが12月5日に観たイエロー・マジック・オーケストラだった。

シーケンサーとコンピューターによるマシーナリーなビート、グルーヴ。シンセサイザーによる東洋的なメロディ。そして冒頭のコンピューター・ゲームのサウンド。

一流の音楽ビジネスマンでもあるトミー・リピューマは、イエロー・マジック・オーケストラの音を聴いたとたんに閃いたにちがいない。

これはディスコで受ける! と。

イエロー・マジック・ディスコ

この1978年当時、世界はディスコ・ブームのまっただなかにあった。ディスコを舞台とした1977年のアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の大ヒット以来、ディスコ・ミュージックの隆盛が続いていた。『サタデー〜』の主題歌を演奏するビージーズや、『YMCA』のヴィレッジ・ピープルのようなキャリアのあるロックやファンク・バンドによるディスコ・ミュージックはもちろんだが、それよりも新奇なアイデア一発で世に出てくる正体不明の匿名的なアーティストによるディスコ曲の大ヒットも連発した。

前述のドイツの“Dschinghis Khan”による「ジンギスカン」など、国籍も正体も不明で、しかし踊れてなにかしらのフックがある曲。記名性やキャラクター性の強いポップスやロックとちがい、匿名であっても、いや、匿名だからこそ、アイデアとグルーヴの強さ、新奇性だけでワールド・ワイドで突然の大ヒットが可能となる。そんな世界がこの当時のディスコならではのおもしろさと強みだった。

また、そうしたいわばノベルティ的なヒットがある一方で、後にアーティストとして継続的に活動しヒットを続けたことで記名性の強いイメージになったのが、「怪僧ラスプーチン」をヒットさせたボニーMなど。ディスコでのヒットをきっかけに存在感を高めていったアーティストも多数いたのだ。

トミー・リピューマの頭の中に、イエロー・マジック・オーケストラでディスコ・ヒットを実現しようというヴィジョンが浮かんだとき、おそらくは同じく当時のディスコ・ヒット曲であるドナ・サマーの「アイ・フィール・ラヴ」がイエロー・マジック・オーケストラと強くシンクロするイメージがあったのではないだろうか。これは慧眼で、YMOはまず期待のディスコ・バンドとして海外でシングルのリリースのほか、数多くのディスコ・コンピレーションに収録されることで知名度を高めていった。

ドナ・サマーはアメリカ人のシンガー。アメリカでデビューをしているが、華開いたのは拠点をヨーロッパに移して後のことだ。イタリア人の作曲家/プロデューサーのジョルジオ・モロダーと出会い、ドイツのミュンヘンからジョルジオ・モロダーが得意とするシーケンサーとシンセサイザーを駆使したエレクトロニックなディスコ・ミュージックを発表するようになってから。ミュンヘン・サウンドと呼ばれたその代表的な作品が1977年の大ヒット曲「アイ・フィール・ラヴ」だった。

これらジョルジオ・モロダーが手がけた作品群がイエロー・マジック・オーケストラ結成とファースト・アルバムの大きなヒントになったことはすでに述べたとおり。

おそらくトミー・リピューマはイエロー・マジック・オーケストラのアルバムを聴いて、瞬時にこれらとの関連性と大きな可能性を感じたにちがいない。

『アドリブ』誌1979年春号で、トミー・リピューマはイエロー・マジック・オーケストラに対するファースト・インプレッションについてこう語っている。

「細野晴臣とイエロー・マジック・オーケストラはオリジナリティという意味で最高だよ。彼らは人のコピーじゃない。そのやり方といいユーモアといい、曲自体にもすべての面でオリジナリティにあふれている。今回、日本に来て聴いた最高のアルバムだ。とにかく大ショックで興奮している。日本のアーティストでもっともプロデュースしたいグループだ」

同席していたトミー・リピューマの片腕であるエンジニアのアル・シュミットも同意して、こう語る。

「あのサウンドならアメリカでも十分に通用するよ。録音も見事だ」

そして、イエロー・マジック・オーケストラの音楽をぜひ自分にミックスさせてほしいとも発言している。

イエロー・マジック・オーケストラの世界デビューに向けてのお膳立ては整った。

変貌するイエロー・マジック・オーケストラ像

まず決まったのが、日本版『イエロー・マジック・オーケストラ』の音をアル・シュミットがアメリカ~ワールド・ワイド向けの音像にリミックスすること。これは、海外の市場に合わせるという目的があるにせよ、それ以上にアル・シュミットが言っているよう、この新しい音楽を自分の手でミックスしてみたいというエンジニア魂が刺激されたということもあるだろう。

リミックスには細野晴臣自身が立ち会った。1979年2月12日から16日までの5日間をかけて、ハリウッドにあるキャピトル・レコードのスタジオで行われたリミックス作業は、基本的には日本版の音を尊重して、そこに多少の改変を加えるというもの。

主な変更点はアル・シュミットがこだわったというキャピトル・スタジオ自慢のエコー・ルームでエコーをかけ直したほか、「東風」に12インチ・シングル用だった吉田美奈子のヴォイスをダビングし、「アクロバット」をカットしてアルバムを「マッド・ピエロ」で締める。全体的に音が派手になり、アルバムをすっきりとした構成にしている。

このリミックス作業が行なわれたのは、細野晴臣の自室で3人がコタツに入り、世界進出の夢を語ってから、まさに1年後。

それからさらに32年後、YMOが2011年にロスアンジェルスでコンサートをしたときのメンバーのホテルは、スタジオのあるキャピトル・レコードのビルの近くにあった。現在はロスアンジェルスに居住している元アルファレコード社長の村井邦彦からホテルにおにぎりが差し入れられ、ベッドをコタツに見立てて3人で写真も撮った。

このとき、細野晴臣は1979年2月のロスアンジェルスでのリミックス作業を行なったときの心境を、いわく言いがたい感慨があったと語ってくれたが、夢がついに実現する喜びはもちろん、さまざまな思いが去来したことはまちがいないだろう。

そしてさらに、イエロー・マジック・オーケストラのアメリカでの成功を確実にするためにトミー・リピューマはひとつの仕掛けを施すことになる。

その仕掛けとは、イエロー・マジック・オーケストラのイメージを、西洋的な視点から見た、カリカチュアライズされた、あるいは誇張された日本~ジャポネズムとすること。疑似オリエンタリズムと言ってもよい。いまに至るもハリウッド映画で描写される日本~東洋の、当事者からすると不自然きわまりない偽の東洋。当然イエロー・マジック・オーケストラのメンバー個々のキャラクターや顔も隠す。

ここでの西洋視線のカリカチュアライズされた日本のイメージは、すなわち旧来からの「フジヤマ・ゲイシャ」的なステレオタイプなものと、1970年代後半からアメリカではとくに意識されるようになっていた電子部品や自動車、家電製品などのモダンなテクノロジーの日本を合成したもの。コンピューターやシンセサイザーを駆使しつつ、ところどころに東洋的な音色や旋律も交えたイエロー・マジック・オーケストラのハイテックな音楽にぴったりのイメージづけをすることで、彼らの音楽を西洋社会~ワールド・ワイドで受け入れられやすいもの、話題になりやすいものにすることだった。

そのためにA&Mレコードがまず行なったことはジャケット・デザインの差し替えだった。日本版のアール・デコ調の調度のイラストではリスナーにインパクトを与えることができないという理由で、アメリカ、ならびに世界各国で発売する『イエロー・マジック・オーケストラ』のジャケットは、その奇抜でオリエンタルな音楽にふさわしいものにするという判断だ。

そこで社内のアート・ディレクターのローランド・ヤングが選んだイラストレーターがルー・ビーチ。

ビーチは1947年ドイツ生まれ。幼少時に両親とともにアメリカに移住し、ミネソタ、カリフォルニアなどで育ち、1970年代よりイラストレーターとして頭角を現し、雑誌、新聞、レコード・ジャケットにイラストを多数提供する人気イラストレーターだった(現在では画家に転身)。A&Mレコードの作品のカヴァーもいくつも手がけており、その頃はウェザー・リポートの『ヘヴィー・ウェザー』のカヴァー・イラストも評判になっていた。

イラストを依頼されたビーチは、まずイエロー・マジック・オーケストラの音楽を聴いてみた。そのときの印象はまるで天上の音楽に聴こえたほど衝撃的だったと言う。そしてその音楽にインスパイアされて生まれたのが、海外の音楽ファン、そして日本の音楽ファンにも大きな印象を与えた頭から電線(シンセサイザーのモジュラー・コード)を生やした芸者のイラストだった。

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1979年、全世界で発売されたYMOのファースト・アルバム

「私は日本を象徴するようなイメージとYMOの音楽をミックスした表現をしたかったのです。YMOの音楽はとてもテクノロジックで先進的なものだったから、トラディショナルな日本のアイコンと現代的なアイコンをミックスすることにしました」(2018年)

このイラストのジャケットを見たときのイエロー・マジック・オーケストラのメンバーの反応は決して芳しいものではなかったと、当時のマネージャーの日笠雅水が証言しているが、少なくともインパクトの大きさは誰も否定できないだろう。

余談になるが、イエロー・マジック・オーケストラのメンバーには初期の海外盤のオリジナルのジャケットはアルバムもシングルもおおよそ不興を買ったが、唯一、イギリスでリリースされた「コンピューター・ゲーム(ファイヤークラッカー)」のシングルのみは好評だったという。イエロー・ヴィニールを透明のカヴァーに入れたもので、そこに鋤田正義撮影のアーティスト写真が印刷されたもの。

ともあれ、このルー・ビーチによるイラストからは当時、日本という国が海外からどういう目で見られていたかもよくわかる。ハイテク立国として知られ始めていた新しい日本像と、フジヤマ・ゲイシャの旧来の日本像。それらが合体するとこのようなイメージになるという好例として、比較文化論の教材にしてもいいようなヴィジュアルだ。この日米のジャケット・イメージに関するすれちがいの問題は次作『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』でも再発することになる。

そして、このインパクトの大きい電線芸者の新しいイエロー・マジック・オーケストラのアイコンは、とりわけ海外の音楽ファンには大好評だったようで、その後にマドンナなど大物のジャケットも手がけるようになったビーチの代表作のひとつになった(ビーチは1980年にアメリカ盤シングルの「タイトゥン・アップ」のコラージュを使用したイラストも手がけている)。

また、この『イエロー・マジック・オーケストラ』のジャケットの差し替えの時点で、そこで使用されるための「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」の英文ロゴも新たに作られた。電子回路の配線図をイメージさせるこの秀逸なロゴは、A&Mレコードのクレジット記載作業の漏れによって、これまではロゴもルー・ビーチによるものと誤解されてきたが、実はデヴィッド・アレン(David Allen)という別のデザイナーが作成したものだとビーチは証言している。

実現した夢、世界に蒔かれた種

ワールド・ワイド版『イエロー・マジック・オーケストラ』は1979年5月30日にまずアメリカでリリースされた。シングル「コンピューター・ゲーム(ファイヤークラッカー)」の7インチ、12インチも同時発売。

翌月にはイギリスをはじめとしたヨーロッパ各国、さらに南米、アジアでも発売。

これらの国の多くはアメリカと同様に第一弾シングルには「コンピューター・ゲーム(ファイヤークラッカー)」を選んでいるのだが、イギリスではまず「イエロー・マジック(東風)」がシングルに選ばれている。9月にはすぐに「中国女」もシングルに。坂本龍一は幼少時よりフランスの作曲家を好み、高橋幸宏は「中国女」をロキシー・ミュージックやイタリアのポップスの影響を受けて作曲した。イギリスのA&Mレコードは早くもYMOのシンパになったイギリス人が支社長を務めており、それらの曲にどこかヨーロッパ的な情緒を感じ、すでにニュー・ロマンティックスというシンセサイザー・ポップのアーティストが中心となったムーヴメントの盛り上がりが始まりつつあったイギリスで、イエロー・マジック・オーケストラは、ディスコに狙いを定めたアメリカ市場とは別の売り方が可能だと考えていたのではないだろうか。

その証拠のひとつに、アメリカではメンバーの写真やキャラクター性を極力隠したプロモーションであったことに対して、イギリスではシングルのジャケットにも広告にも一目見て東洋人だとわかるメンバー写真を、むしろそのことをアピールするかのように大きく使っている。

そのアプローチは正解で、やがてイエロー・マジック・オーケストラはアメリカよりもイギリス、ヨーロッパで大きなポピュラリティーを得ていくことになった。

ただし、もちろん、イエロー・マジック・オーケストラが世界デビューしたこの時点ではアメリカA&Mレコードのディスコ市場に的を絞った戦略は大正解だった。

シングル「コンピューター・ゲーム(ファイヤークラッカー)」はビルボード・チャートの総合60位にランク・インし、ディスコチャート(R&B)では18位とさらに健闘した。

アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』も同チャートで81位。それ以前に同チャートで100位以内に入った日本のアーティストは坂本九、冨田勲、ツトム・ヤマシタだけだった。『イエロー・マジック・オーケストラ』の海外での売上枚数も最終的に100万枚を達成し、結成時の海外進出の夢はついに実現した。

しかし、21世紀の今日、あらためてこのアルバムを契機としたイエロー・マジック・オーケストラの海外進出をふり返ると、その真の功績は、売上枚数の多さよりも、世界中の後進の音楽家たちの中に種を蒔いたことだろう。

海外ではイエロー・マジック・オーケストラの代表曲とみなされている「コンピューター・ゲーム(ファイヤークラッカー)」は、ヒップ・ホップ、エレクトロ・ミュージックの祖であるアフリカ・バンバータをはじめ、多数のアーティストに現在までカヴァー、サンプリングされ続けている。

アフリカ・バンバータは1985年に初来日したとき、雑誌『GORO』(小学館)で細野晴臣と対談を行い、そこで「コンピューター・ゲーム(ファイヤークラッカー)」について、「なんてファンキーなヤツらなんだと思ったね、ブラック・ピープルが最初に衝撃を受けた東洋の音楽が、あの曲だった」と語っている。クラブでDJをするときには、イエロー・マジック・オーケストラのみならず輸入盤で購入した坂本龍一の『千のナイフ』の曲もかけていたとも。

その坂本龍一の「ビハインド・ザ・マスク」も、マイケル・ジャクソンによって「発見」され、数奇な運命を辿っていくことはこの後にあらためて紹介したい。

このようにイエロー・マジック・オーケストラは海外進出を成功させることによって、大スターではなくとも、ミュージシャンズ・ミュージシャンとして音楽ファンの心に強く残ることになった。

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イギリス音楽紙の広告

また、欧米のみならず世界中でアルバム、シングルが発売され、あるいは数多いディスコなどのコンピレーション・アルバムに収録されることで、もしくはラジオでかかることで、イエロー・マジック・オーケストラの不思議なマジックに触れた人々も多いだろう。

宗教学者の中沢新一がネパールで修行中に露店でイエロー・マジック・オーケストラのカセットを購入し、それを日本のグループとは知らないまま聴いていたという逸話は有名だが、世界各国で日本という国の存在すら知らないかもしれない人々が自然とイエロー・マジック・オーケストラの音楽を耳にしたということもきっとあるだろう。それらを聴いた人はそこになにを感じ、その後の人生になにかしらの影響を受けたのか。

こうした人々と音楽の予期せぬ出会いこそが、世界進出というイエロー・マジック・オーケストラ結成当初の夢がはぐくんだ素敵な果実だったと思えてならない。

そして……。

「これは画期的なことだったんだけど、アルファレコードがA&Mと契約したときにA&M内部にアルファの日本人社員を駐在させることを認めてもらったんです。毎週木曜日にある重要なマーケティング会議にも出席できる。

これがあることで、マーケティングの重要な情報とともに、“いまどういうアーティストがこういう作品を作っている”という最新情報を日米で共有できたんです」(村井邦彦・2018年)

このときの会議で議題に出た、イエロー・マジック・オーケストラのレコードがとくに売れている地域、都市のひとつにデトロイトがあったことは、後年のテクノ・ミュージックの歴史を考える上で非常に興味深い。

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