誰も本心では信じていない民意に全てを委ねる訳

誰も本心では信じていない民意に全てを委ねる訳

  • 東洋経済オンライン
  • 更新日:2022/06/23
No image

政治家やメディアがなんら実体のない「民意」を持ち上げることによって起きていることとは?(写真:Rhetorica/PIXTA)

7月10日には参議院選挙の投開票が行われる。選挙とは「民意」を問うものであり、民主主義の根幹をなす制度といわれる。だが、今日の不安定な政治や、国民の政治への無関心は、政治家やメディアが、なんら実体のない「民意」を持ち上げることによって、もたらされているのではないか。

ウクライナ危機、コロナ禍、グローバル経済の矛盾、民主主義の危うさなど、現代社会の重要な問題について、思想家・佐伯啓思氏が文明論的視座から論じた新刊『さらば、欲望 資本主義の隘路をどう脱出するか』(幻冬舎新書)から一部抜粋してお届けする。

民意という亡霊がうろついている

「ヨーロッパをひとつの亡霊がうろついている、共産主義という亡霊が」というよく知られたマルクスの言葉にならえば、今日、「日本をひとつの亡霊がうろついている、民意という亡霊が」といってもさしつかえなかろう。

もちろん、マルクスとはまったく違った意味である。亡霊がやがて世界を支配することを期待したマルクスとは逆に、今日、われわれにとりついている亡霊は、われわれを破滅へと導くものかもしれない。

ここで亡霊という比喩が多少意味をもつのは、それが、実体でもないが、かといってまったくの幻覚でもない、という点にあろう。確かな存在でもないが、まったく存在しないというわけでもない。有と無の間を揺れ動く、この不確かであやふやなものがわれわれの社会に憑依(ハウント)している。憑依されたものは、「ミンイ、ミンイ」と騒ぐが、それが何を意味しているのかは誰もわからない。「ミンイ」では言葉の重みにかけるので、「国民の意思」と政治学風に言い換えても事態は変わらない。

にもかかわらず、新聞、テレビ等のマスメディアを通して、連日、この言葉によって視覚聴覚を刺激されておれば、いつのまにか、「民意」やら「国民の意思」なるものが本当に臨在しているかのように思われてくる。姿形をもたない不確かなものを、あたかもそこにあるかのように捉えること、すなわち評論家の山本七平のいう「臨在感的把握」が生み出される。

「亡霊」というより「言霊(ことだま)」とでもいうべきであろう。「民意」や「国民の意思」という言葉が、何かある価値をもってひとつの規範となる。言葉の「霊」がわれわれを支配する。「言霊的臨在」である。

それが、この21世紀の、かつてない科学やデータの時代、両方合わせてデータ・サイエンス万能の時代にあっても、決定的な役割を果たしている。脳科学がすべてを解明できるかのように喧伝される時代に、「言霊」がわれわれの脳を占領するという不可思議な霊的憑依が生じているのだ。

もちろん、言霊的憑依現象は「民意」だけではない。今日、次々と新手のミニ言霊が浮かびあらわれる。「多様性」「LGBT」「データ」「実証」「可視化」「説明責任」「SDGs」「クリーンエネルギー」「脱炭素化」「改革」、それに依然として「経済成長」。少し前までは、「平和」「平等」「民主」「人権」が圧倒的に憑依能力をもっていた。その意味するものが不透明であるがゆえに、引用者の都合のよいように解釈され、一定の気分を伴って社会の空気を支配する。

ここで私が論じてみたいのは、もっぱら「民意」、つまり「国民の意思」である。この、有るとはいえないが、無いともいえない「憑依的存在(憑在)」が、どれほどデモクラシーと呼ばれる今日の政治を不安定化しているかが私には気になるからだ。

「民意」の便利使いをするメディア

一例をあげれば、2021年10月末の総選挙で、自民党も立憲民主党も議席を減らした。そこでたとえば朝日新聞は社説で次のようなことを書いていた。「甘利幹事長の小選挙区での落選は、自民一強体制への批判という民意の表明である」と。また、毎日新聞の論説には次のようにある。「与党も野党も決定的に勝たせない、というのが民意である」と。

どう見ても恣意的というほかない。「民意」の便利使いである。自民党も立憲民主党も確かに議席は減らしたものの、その意味はまったく違っていた。共産党との共闘を企図した立民は、明らかに敗北した。自民の議席減は、前回選挙での野党の大混乱に起因する地滑り的勝利から 通常水準に戻っただけで、それでも261議席の絶対安定多数を確保した。これは十分に勝利である。しかも小選挙区の当落は、この選挙制度と選挙戦略によるところが大きい。にもかかわらず、どうして「民意」を持ち出したいのだろうか。

理由ははっきりしている。そこに「国民の意思」というものを読み込みたいのだ。「意思」とはやっかいな言葉である。強い信念や信条がそこには示されており、確固たるものが暗示されている。その結果、「国民の意思」を人質にとれば、正当性が生まれる。朝日は、「民意」という言葉を無理やりに人質にとって、「自民一強体制」への批判を正当化しようとし、毎日は与党の勝利を認めまいとする。自らの主張を「民意」によって正当化しようとしているだけである。

「民意」にすり寄る政治家

もちろん、これは朝日、毎日という反自民系の新聞だけのことではない。与党支持派は、この結果を、自民による政治の安定こそは「民意」であるというであろう。ここでもまた「民意」を持ち出す。

No image

選挙は「民意」を問うものだということになっている。さして主張のない候補者に限って、自分こそは「民意を国会に届ける」と選挙で訴え、新たに選出された首相は、これまた必ず「民意を大事にする」というのが通例になっている。「民の声は天の声」といわんばかりに、政治家は「民意」にすり寄る。まさしく言霊憑依である。しかし、「民意」とはいったい何なのであろうか。なぜ誰もそれを問おうとはしないのか。

それも理由ははっきりしている。まともな政治家が本心から「民意」を信じているなどとはまず考えられまい。まともな政治家であれば、「民意」などというよりも前に、世界や日本社会についての自らの見解や信念があるだろう。

また、マスメディアの政治部の記者やジャーナリストがこれまた本心から「民意」を正当なものと信じているとも思えない。その危うさなど、普段からいやというほど見聞きしているだろう。政治家やジャーナリストがもし本当に民意など信じているとすれば、われわれは、とんでもなくナイーブで子供じみた情報環境に置かれているということであり、それこそが恐るべき事態というほかない。

ナチスは民意の支持を得て政権をとった

にもかかわらず、われわれは「民意」なるものを擬装し、その前にぬかずき、そこで思考を停止する。どうしてそんなことをするのか。これも答えは簡単で、民意とは何かを問うことはまさしくデモクラシーとは何かと問うことであり、民意の正当性に疑問符を突き付けることは、デモクラシーの正当性を疑うことになるからである。

No image

政治家もマスメディアも、まさしく、デモクラシーという土俵の上で仕事をしている。当然、この土俵を疑うわけにはいかない。土俵が崩れれば、彼らの存在意義もなくなってしまう。どんなりっぱな金魚でも金魚鉢が壊れてしまえば生きることはできない。だから彼らは、自らが信じてもいない「民意」なるものを、信じたことにするほかないであろう。この擬装によって、デモクラシーを成立させようとするのである。

ところが「民意」なる言葉を絶対化してしまったために、逆に、デモクラシーまでもが崩壊することもありうる。きわめてわかりやすい例をあげれば、1930年代のドイツでナチスは圧倒的な「民意」の支持を受けて政権をとった。そしてそれがデモクラシーを崩壊させたのである。

われわれはナチスからも「民意」の危うさを学んだはずであり、それを無条件に信じることなどできるはずはない。にもかかわらずそれを手放すこともできない。こういう奇妙なディレンマに陥っている。本心では信じていない民意にすべてを委ねるほかないのであり、それが、今日の、政治への不信、政治の不安定、政治への無関心、政治のエンタメ化の核心にある。とすれば、これは「民意が政治を崩壊させる」というべき深刻な事態ではなかろうか。

(佐伯 啓思:京都大学こころの未来研究センター特任教授、京都大学名誉教授)

佐伯 啓思

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加