戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【一】

戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【一】

  • Japaaan
  • 更新日:2020/08/03
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昔から、戦場で男性に負けず劣らず武勇を奮い、大活躍した女性のエピソードはたくさんあります。

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ですが、その多くは陣頭指揮を執ったというものが多く、武勇や技量がものを言う一騎討ちとなると、その数はやはり限られて来ます。

今回は賤ヶ岳の戦いをはじめ、虎退治など数々の武勇をもって恐れられた猛将・加藤清正(かとう きよまさ)に一騎討を挑んだお京(きょう)の方の武勇伝を紹介したいと思います。

お京の方のプロフィール

お京の方は肥後国(現:熊本県)に生まれましたが、正確な生年月日や出自、両親の名前などについてはよく判っていません(木山弾正室などと伝えられるのみ)。

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加藤清正に一騎討ちを挑んだ木山弾正正親(イメージ)。

後に夫・木山弾正正親(きやま だんじょう まさちか。こちらも生年不詳)が加藤清正に一騎討ちで討たれるのが天正十七1589年。清正は永禄五1562年生まれの清正は当時28歳なので、互角以上の勝負を演じた正親の享年は35~40歳前後が限界(※当時の40代は初老の感覚)と考えられます。

正親が天文十九1550年~弘治元1555年ごろの生まれとして、仮にお京の方が5~10歳年下だったとして、彼女は弘治元1555年~永禄八1565年くらいの生まれと見れば、後に登場する息子の年齢も十分に確保可能です。

(※以降、お京の方は永禄三1560年、正親は天文十九1550年生まれとして話を進めていきます)

ちなみに「お京」という名前についても、後世の人が語り伝える便宜上つけたものだそうで、本名は不明となっています。

剛毅木訥は仁に近し……「どもり弾正」正親との幸せな新婚生活

そんなお京が正親と結婚したのは、恐らく15歳となった天正二1574年前後。正親は若い頃から武芸に秀で、父・木山弾正正友(まさとも)の頼もしい後継者として将来を嘱望されていましたが、一つコンプレックスがありました。

その立派な風貌や朗々たる声に似合わぬ吃音症(どもり)で、人と話をするのが苦手だったため、人は正親を「どもり弾正」などと囃したてることもあったそうですが、お京は「剛毅木訥は仁に近し」とばかり気にしません。

お京の方と「どもり弾正」木山正親(イメージ)。

「言葉の巧みさなどよりも、あなた様が喜ばせて下さろうと、一生懸命にお話し下さる心の優しさが、私は何より嬉しいのです」

「それに古来『巧言令色鮮し仁』と申すではありませぬか。あなた様は口先だけでうわべを飾るより、懸命に汗を流して奉公なさるお姿こそお似合いなのです」

誰が何と笑おうと、あなた様は私にとってただ一人の大切な伴侶。そう言われて、やる気にならない男はいないでしょう。正親はより一層奉公に励み、夫婦仲も睦まじく長男・傳九郎(でんくろう)、そして後に横手五郎(よこての ごろう)と称する次男を授かります。

相次ぐ戦さと島津氏の侵攻

さて、そんな新婚生活などお構いなしに水を差すのが乱世の習い……という訳で、正親は相次ぐ戦さに駆り出されます。

天正八1580年は盟友の甲斐宗運(かい そううん)を救援するべく旦過瀬(たんがのせ。現:熊本県熊本市)で城親賢(じょう ちかかた)と名和顕孝(なわ あきたか)らを撃退。大いに武功を立てました。

翌天正九1581年には薩摩国(現:鹿児島県西部)の大大名・島津(しまづ)氏に降伏し、その先鋒とされたかつての盟友・相良義陽(さがら よしひ)を響ヶ原(ひびきがはら。現:熊本県宇城市)で撃退、再び甲斐宗運の窮地を救います。

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「あなた、どうかご武運を……」出陣する正親に太刀を渡して鼓舞するお京の方、そして仲良し夫婦に嫉妬する家来たち(イメージ)。

「やれやれ……ずっと騎馬でおるから、鞍の冷める暇がないわい」

ところで木山氏は肥前の戦国大名・竜造寺(りゅうぞうじ)氏に臣従(※厳密には竜造寺氏の被官である阿蘇氏に臣従)していましたが、天正十二1584年3月に沖田畷(おきたなわて。現:長崎県島原市)で主君・竜造寺隆信(たかのぶ)が討死。

竜造寺の家督を継いだ隆信の嫡男・竜造寺政家(まさいえ)は、それまで島津氏と対決姿勢を示していた父の方針を一変、従属する意向を明らかにします。

「何と弱腰な!おめおめ島津に屈しては、亡き御屋形様に申し訳が立たぬではないか!」

これをよしとしない正親らは政家を見限り、木山本家の木山左近大夫惟久(さこんのたいふ これひさ。木山城主)ともども、縁戚関係にあった本渡(ほんど。現:熊本県天草市)城主の天草種元(あまくさ たねもと)と連携。島津氏に対して徹底抗戦の意志を示しました。

正親は惟久から赤井城(現:熊本県益城町)の守備を任されますが、天正十三1585年に島津氏の侵攻を受け、善戦するもあえなく陥落。

「おのれ島津……今はこれまで!」

惟久は木山城から脱出(その後、上洛して連歌師として活躍)。正親も敵の手に渡さぬよう、赤井城に火を放ち、本渡城へ落ち延びていくのでした。

【続く】

※参考文献:
国史研究会 編『国史叢書. 將軍記二 續撰清正記』国史研究会、1916年
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年
松田唯雄『天草温故』日本談義社、1956年

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