カール・マローン――“メールマン”と呼ばれたスコアリングマシンの知られざる物語【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

カール・マローン――“メールマン”と呼ばれたスコアリングマシンの知られざる物語【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

  • THE DIGEST
  • 更新日:2021/09/16
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最近のNBAでは、スター選手に魅力的なニックネームがつけられなくなっている。“CP3”や”KD”はイニシャルやそのアレンジで、“キング・ジェームズ””グリーク・フリーク”もプレースタイルを想起させるものではない。

また、“エア・ジョーダン”“ヒューマン・ハイライト・フィルム”“グライド”など、創造的なニックネームがあふれていた1980~90年代を懐かしむ人も多いのではないだろうか。

カール・マローンに与えられた“メールマン”もそうした傑作のひとつだ。ほとんどの試合に出続け、常に20点以上の得点をゴールに届け続けた史上屈指のスコアリングマシンを表現するうえで、これほど的確なネーミングはなかっただろう。

そんなマローンはルイジアナ州に生まれた。9人兄弟の8番目で、4歳の時に父が家を去ってからは、母シャーリーの手で育てられた。小さい頃は札付きの悪ガキだったが、昼間は工場でフォークリフトを操り、夜は子育てに奮闘する母の姿を見て育つうちに、何事にも全力を尽くして取り組む姿勢が植えつけられていった。

“メールマン”と呼ばれるようになったのは、その母の勧めで進学した地元のルイジアナ工科大学時代だった。ある大雨の日、マローンの試合を観戦していた新聞記者が「雨の日も雪の日も、ダブルチームでも"メールマン"は止められない」と書いたのがきっかけだった。

この記者も、自分の命名が30年後まで残ると思っていなかっただろう。なお、3年生の時に参加したロサンゼルス五輪代表選考会では、未来のパートナー、ジョン・ストックトンと初めて出会っている。

85年のドラフトでは13位でユタ・ジャズから指名され「ユタ市でのプレーが楽しみです」と抱負を述べた。彼はユタが都市ではなく州名であることすら知らなかったのだ。それでも雑音や重圧の少ないユタは、マローンがバスケットボールだけに打ち込むには格好の地だった。

パワーフォワードでありながらガード並みの走力を備え、ジャンプシュートも楽々と決める彼のプレースタイルは、ゴール下での汚れ仕事を請け負う選手が大半だったポジションのイメージを一新するものだった。

4年目の88-89シーズンは平均29.1点で得点ランキング2位。マイケル・ジョーダンがいたためにタイトルは取れなかったものの、以後4年連続で2位につけた。リバウンドも常に上位に入り、同年から11年連続でオールNBA1stチームに選出された。

これだけの活躍ができた理由としては、まず他の選手に先駆け、ウェイトトレーニングを取り入れていたことが挙げられる。オフシーズンは毎日4時間ジムで身体を鍛え抜き、シーズン中も試合の前後にトレーニングルームに籠って、体脂肪率5%以下の見事な肉体を作り上げた。

この屈強な体格を存分に生かして、マローンはインサイドで他の選手たちを圧倒した。さらに、その肉体美で多くの女性ファンを虜にもした。若い頃のマローンは、NBAでも指折りのモテ男だったのだ。

トレーニング効果でコンディション調整も完璧になった。「カールが疲労を訴えるのを聞いたことがない」(ストックトン)、「シーズンが進むにつれて、ますます強靭になる。年に200試合あればいいと思ってるくらいだからな」(入団当時のヘッドコーチ、フランク・レイデン)。ジャズ時代の18年間で、出場停止処分以外の理由で欠場したのは5試合だけだった。

そしてもちろん、最大の要因はストックトンとの鉄壁のコンビネーションだった。「俺にとって彼は兄弟のようなもの。彼に手を出すのは、俺に手を出すのと同じことさ」と語っていたように、彼らの関係は単なるチームメイト以上のものだった。速攻の時も、ピック&ロールでも、測ったような適切なタイミングでストックトンからボールが送られ、マローンはそれを正確にゴールへ配達した。

史上最強のダイナミック・デュオを軸として、ジャズはウエスタン屈指の強豪チームとなった。だが、あいにく80年代後半はロサンゼルス・レイカーズの全盛期。マジック・ジョンソンの引退後もポートランド・トレイルブレイザーズやフェニックス・サンズ、シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)が台頭し、彼らの行く手を阻んだ。92、94、96年と、1年おきにカンファレンス決勝までたどり着いても、それ以上先には進めずにいた。

92、96年はオリンピックで金メダル。オールスターMVPにも89年と地元開催だった93年の2度輝いた。元ミス・アイダホを妻に迎え4人の子どもにも恵まれた。広大な農場を購入し、子どもの頃からの憧れだった大型トレーラーも何台も乗り回した。彼の人生に欠けていたのはただひとつ、究極の目標であるチャンピオンリングだけだった(後編に続く)。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2010年7月号掲載原稿に加筆・修正。

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