岡田彰布、張本勲、江本孟紀...プロ球界レジェンドが味わった“幻のセンバツ”という悲哀

岡田彰布、張本勲、江本孟紀...プロ球界レジェンドが味わった“幻のセンバツ”という悲哀

  • デイリー新潮
  • 更新日:2023/01/25

「あの子は化ける」

第95回選抜高校野球の代表36校が1月27日に決定するが、過去には不祥事による出場辞退、推薦辞退で“幻のセンバツ”の悲哀を味わった球界のレジェンドたちもいる。【久保田龍雄/ライター】

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高校時代に挫折を味わった張本勲氏

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甲子園を目指して強豪校に転校したが、“大人の事情”で夢を断たれたのが、張本勲氏である。

地元の名門・広島商に入学できず、野球では無名だった松本商(現・瀬戸内高)定時制に入学した張本氏は、昼間は学食でアルバイト、夜は授業の毎日で、練習する時間がほとんどなかった。

チームも夏の予選1回戦で敗退し、「これではいかん」と、関西の強豪・浪華商(現・大体大浪商)、平安(現・龍谷大平安)への転校を熱望した。経済的な理由から家族は反対したが、野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化ける」とあと押ししてくれた結果、浪華商への転校が決まる。

当時タクシーの運転手をしていた兄が、毎月の給料の半分にあたる1万円を送金してくれるのを頼りに大阪で下宿生活を始めた張本氏。甲子園出場の夢をはたすことが何よりの恩返しと信じ、ひたすら野球に打ち込んだ。

だが、転校直後の9月に野球部は上級生部員のしごきが明るみになり、1年間の対外試合禁止処分を受けてしまう。「まだ3年の春と夏がある」と気持ちを切り替えた張本氏は、1957年9月、謹慎明けの新チームで4番センターとして公式戦初出場。場外に飛んだ打球が電柱の器具を直撃し、周囲が停電したという伝説の“停電ホームラン”をはじめ、練習試合を含む13試合で打率.560、11本塁打と打ちまくり、大阪大会Vに大きく貢献した。

“鉄拳制裁”問題で突然の休部に

ところが、センバツ出場につながる近畿大会を前に、2年生部員の“鉄拳制裁”を指示したとして、突然休部を言い渡される。

「殴打事件のとき、私はその場にいなかったんです。当時の部長が私に話も聞かず、高野連に書類を出した」(週刊文春2009年3月26日号「私の履歴書」)。

問題が大きくなる前に、スケープゴートをつくって、処分を免れようとした“大人たち”の犠牲になった形だ。

その後、浪華商は近畿大会で4強入りし、翌58年のセンバツ代表校に選ばれたが、一般生徒の恐喝事件により、出場辞退に追い込まれた。

一方、「春はダメだったが、最後の夏こそ」とラストチャンスに賭けていた張本氏は、5月に休部が解除されたものの、「解除後、3ヵ月は公式戦に出場できない」という高野連規約により、“最後の夢”も消えた。

プロで首位打者7度などの偉業を達成したレジェンドは、「私はそれでも、この悔しさをエネルギーに変えて、プロ野球で生かせたが、高校時代の野球人生の挫折により、恵まれた素質をあたら散らしてしまったチームメイトは少なくない」(ホームラン1996年8月号掲載「遥か彼方の甲子園」日本スポーツ出版社)と回想している。

優勝候補から一転…

センバツV候補のエース・4番だったにもかかわらず、大会目前に不祥事で辞退する羽目になったのが、高知商時代の江本孟紀氏である。

1963年春、江本氏や浜村孝(元西鉄、巨人など)らの“黄金世代”が入学すると、当時の松田昇監督は2年後のセンバツVを目標に、下級生のときから使いつづけた。

そして、3年計画の最終年、秋の新チーム結成直後に5敗ともたついた高知商だったが、9月下旬から怒涛の16連勝を記録し、四国大会でも今治西を7対3、高松商を8対4と力でねじ伏せて優勝。翌65年のセンバツに文句なしで選ばれた。

ところが、3月6日になって、野球部員が暴力事件を起こしたことを理由に、出場辞退が決まる。当時の高知新聞によれば、事件は、2月21日午後6時30分ごろ、帰宅するためにバスに乗った他校の男子生徒が、高知商野球部員2人が座っていた最後部席の空いていたスペースに座ろうとしたことから、いざこざが起き、降車直後に腹を蹴られるなどの暴行を受けたという。男子生徒は腸破裂による腹膜炎を起こし、開腹手術を受ける大事となり、事件も明るみに。

学校側は加害者の2人を無期停学、2ヵ月以上の休部処分にしたが、「学校が(県高野連に対応を任せて)事態を静観しているのが潔くない」と批判の声が上がると、「県民の誤解を招かぬよう、この際はっきりした態度を打ち出すべきだ」として、センバツを辞退した。

優勝候補から一転、連帯責任で1年間の対外試合禁止処分を受け、卒業まで失意の日々を過ごした江本氏は、自著「野球バカは死なず」(文春新書)で、「そこから俺は変わった。人生、何が起こるかわからない。何が起きても怖くない……ある種の開き直りや、悪く言えばヒネた考え方をする性格になったようだ」と振り返っている。

阪神・岡田監督も憂き目に

今季15年ぶりに阪神の監督に復帰した岡田彰布氏も、2年時のセンバツが推薦辞退という形で幻と消えている。

1973年夏、1年生ながら北陽(現・関大北陽)の左翼手(打順は2番、または7番)として甲子園に出場した岡田氏は「あと4回も出場できると思っていた」という。

新チームではエース・3番と投打の中心を務め、秋の近畿大会で東山、天理を下して4強入り。準決勝で優勝校の向陽に0対1と敗れたものの、夏春連続甲子園出場は当確だった。

だが、推薦校に決まったわずか3日後の翌74年1月19日、応援部のしごき事件が発覚したことを受けて、推薦を辞退。2度目の甲子園は、野球部員とは直接関係のない事件で幻と消えた。

高校最後の夏も大阪大会決勝で惜敗し、甲子園出場は1回限りで終わった岡田氏は、遠かった甲子園への道をしみじみと回顧するように、地区予選でプレーした日生球場を「僕らにとっては野球の聖地でした」(週刊現代2021年9月9日号「私の地図 あの場所に帰りたい」)と最も印象深い場所に挙げている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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