今年話題の2ブランドから考える、ラグジュアリービジネスの行方

今年話題の2ブランドから考える、ラグジュアリービジネスの行方

  • Forbes JAPAN
  • 更新日:2021/11/26
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2021年度の「毎日ファッション大賞」新人賞・資生堂奨励賞が、「CFCL」のCEO、高橋悠介さんに贈られました。

ブランドネームのCFCLは、「Clothing for Contemporary Life(現代生活のための衣服)」の頭文字から生まれたもので、まだ立ち上がって一年あまりというのに、海外にも販売網をもち、日本でも各種メディアにとりあげられてまたたく間に知名度を上げました。

3Dニットに特化しており、デザイナーのエゴを強く出さないモダンで風通しの良いデザイン性も好感がもてるのですが、なによりもブランドコンセプトに今っぽさを感じました。「ソフィスティケーション、コンシャスネス、コンフォート&イージーケア」。サステナビリティを今さら打ち出していないところが、「時代をおさえている」という印象です。

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コンシャス・ラグジュアリーとは

ここで使われている「コンシャスネス」ですが、実は現在のラグジュアリービジネス業界のキーワードになっているのが、ほかならぬ「コンシャス・ラグジュアリー」です。

2000年代の初めから、「エシカル(倫理的な)ラグジュアリー」という言葉が使われ始めたのを筆頭に、ラグジュアリーには形容詞をつけて語られるようになりました。2008年あたりには「リスポンシブル(責任ある)ラグジュアリー」がバズワードとなり、その後、「サステナブル(持続可能な)ラグジュアリー」へ。2017年頃からは、「コンシャス(意識の行き届いた)ラグジュアリー」という語が主流となっているのです。

サステナブルからコンシャスになった理由は、一つには、言葉そのものが流通しすぎて陳腐になったこと、さらに、サステナビリティが選択肢ではなく当然の前提になっていることが挙げられます。

こうした用語は誰が最初に用いたかということは特定できませんが、英ファイナンシャルタイムズが主催するラグジュアリー業界の年次会議などを通して一気に認知度を高めてきました。

ここでいうコンシャスとは具体的にどういうことかといえば、次のようなことです。

地球環境に配慮していること、生産から廃棄に至るすべてのプロセスにおいて透明性が確保されていること、人権が考慮されていること、文化の盗用をおこなっていないこと、フェアな商取引がおこなわれていること。そうしたすべてに対して意識が行き届いたラグジュアリービジネスをおこなっていることが、コンシャス・ラグジュアリー。さらにいえば、ビジネスをおこなう送り手の自覚も含まれましょう。

実際、「コンシャスネス」を掲げるCFCLの高橋さんは、受賞インタビューで「次世代のために責任を果たしたい。ゼロから自分の会社を設立すれば、最初は小規模だとしても、責任をもった、一貫したもの作りができる」と語っています。ブランド名に自身の名を投影しなかった理由についても、「デザイナーの美意識を投影する衣服を作るより、社会に対する意思表示を明確に示すことが重要」と答えています。

CFCLの高橋さんはまた、「イッセイ・ミヤケ・メン」のデザイナーを務めていたという経歴を、ブランド資産として「意識的に」活用しています。こうした「コンシャス」な戦略をもつ若いデザイナーが登場し、活躍していることに注目したいです。

高橋さんが「コンシャスネス」を謳う背景には、米国の非営利団体が運営する民間認証制度「Bコーポレーション」の取得を目指すという意図もあります。Bコーポレーションは、地域や環境に配慮した事業活動をおこない、基準を満たす企業に与えられる認証で、世界で約4000社に広がっています。もしCFCLが認証されたら、日本のアパレルでは初。投資対象としての企業価値の上昇についても、当然、彼はコンシャスであると思われます。

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CFCLの高橋悠介CEO (c) Yosuke Suzuki

19世紀のコンシャスと21世紀のコンシャス

以上のような多岐にわたるニュアンスを含むコンシャス・ラグジュアリーという言葉は最近、頻出しておりますが、実は今になって出てきた言葉というわけではなく、19世紀の中ごろにも多く使われています。安西さんの調査によれば、”conscious luxury”は1850年ごろ突出し、1860年代、70年代をピークに以後、ゆるやかに減少していますね。

とはいえ、19世紀におけるコンシャス・ラグジュアリーは、現代とは意味が異なります。産業革命によって階級に流動性が生まれ、ラグジュアリーを用いた階級上昇や成り上がり排除が意識されていた当時は、「高価で贅沢な生活様式を意図的に外に向かって見せびらかすこと」というニュアンスで使われていた可能性が高いのです。当時のラグジュアリーの一側面を表現するとすれば、「スノッブすぎる洗練のパフォーマンス」に近い。

社会階級が今以上に重要で、それが外から見える生活様式によって決定されることもままあった時代において、外の世界から「ラグジュアリー」と見えることを意図的に誇示することが、コンシャス・ラグジュアリーの意味だったと想定されます。

同時代を生きたヴェブレン(1857-1929)が、『有閑階級の理論』(1899)でコンスピキュアス・コンサンプション(誇示的消費)という語を用いたことともつながってきます。「高級品の誇示的消費は、有閑階級の紳士の評価をあげる手段である」とヴェブレンは喝破していました。

同じ「コンシャス」でも、19世紀においては、「狭いサークル内という外部」に対して意識が強く向いていたのに対し、21世紀では地球全体と自分の内部に意識が向いているという方向の違いを見て取ることができます。

とはいえ、現在の「コンシャス」という用語にしても、広く流通しきればやがて飽和し、また新しい言葉で飾られていくだろうなと思わずにいられないうさんくささも感じています。社会集団が一斉に同じ価値観を正義とする状況自体そのものが、警戒しなくてはならないのではないか、とも感じています。

さて、安西さん。ラグジュアリーに対するこうした社会の意識の変化をどのように読み解くべきでしょうか?

米国の戦略コンサルタント企業・ベイン&カンパニーは、ラグジュアリー領域に関する2000年から2008年までの期間を「大衆化」と特徴づけ、リーマンショックからの回復以降のおよそ5年間を「中国人市場の拡大期」と区切りました。そして2015年周辺からの時期を「ニューノーマル」と名づけています。その頃から、新しいラグジュアリーが探られ始めたと見て良いです。

16歳からファッションモデルとして活動し、現在は米国でサステナブルファッションのシンクタンクを主宰しているハンガリー人のサーラ・ベルナートも同様の見方をしているようです。

彼女は今年、博士号を取得したのですが、ソーシャルメディアでその報告をするに際し、次のように綴っていました。

「2015年頃、『ヒューマニティ・ラグジュアリー』や『コンシャス・ラグジュアリー』という言葉がでてきました。そこでさまざまな市場分析レポートを読んだのですが、それらの表現の深い意味を把握できているとは思えなかったのです。心理学やマーケティング、デザインを学部や修士課程で勉強してきましたが、フンボルト大学博士課程で自らラグジュアリーを研究しようと決意したのは、これがきっかけでした」

ブルネロ・クチネリから得た気付き

この投稿で、ぼくは彼女にとって鍵となった2つの言葉を知り、どれだけの頻度で英語の書籍において使われてきたのだろうとGoogle Ngram Viewerで調べてみました。

まず「ヒューマニティ・ラグジュアリー」は検索にマッチしません。まあ、ヒューマニティはあまりに当たり前すぎて、書籍に記載されるまでもないのかと思いました。次に「コンシャス・ラグジュアリー」を入れたら、下記のグラフとなってでてきました。これを中野さんに共有したのが、今回のテーマのスタートです。

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社会的な関心や注目の方向としては、中野さんの書かれたようなところだと思います。言葉の選択に好みはあるかもしれませんが、ぼく自身は、「人々の社会意識への高まり」として捕まえていました。環境はのっぴきならない状況になりつつある。同時に、ジェンダーギャップや人種差別など人権に対する人々の感度は増してきた。この連載も、その前提の上で進めてきました。

しかし、「待てよ」という思いが、この2週間、徐々に強くなってきました。「本当にぼくは分かって書いてきたのだろうか……」と考え始めたのです。その契機は、10月28日、ミラノのストレーラー劇場でファッション企業「ブルネロ・クチネリ」の家族財団が開催したプレス発表です。

1978年にイタリア中部のウンブリア州で創業したブルネロ・クチネリは、1985年から、人口およそ500人の小さな村・ソロメオで中世からある丘の上の街を再生。それが完成すると今度は平野の風景を美しくすることに尽力。パンデミック下においては、在庫になった商品を世界中の困った人たちにプレゼントしました。

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ブルネロ・クチネリの本社があるソロメオ村

クチネリ氏が、「この次に、”人間らしい社会”のために貢献するには何をすべきか?」と自問した結果導かれた答えが、ソロメオに「ユニバーサル図書館」をつくるプロジェクトです。

20〜30万冊からスタートし、最終的に40〜50万冊を所蔵する図書館を2024年に開館する計画です。哲学、建築、文学、詩、職人仕事に特化した書籍を世界中から購入するのですが、選書の基準は「人間らしい世界をつくるのにどれだけ貢献しているか」。現代に生きる著者よりも、古い時代に生きた著者の文章に多くを学んできたクチネリ氏の意向が反映されています。

人が人として扱われないエピソードは、アフリカや中東の悲惨な戦場だけでなく、先進都市の現代的なオフィスにあってさえ、日常茶飯事にあります。

米国の心理学者、スティーブン・ピンカーが『暴力死の人類史』に記すよう、確実に無残な死は減少し続けているかもしれません。しかし、仮に『人間らしさの人類史』という本があった場合、人間らしい人生がおくれる社会になりつつあるのか? と、ぼくはクチネリ氏の構想を聞いて考えだしたのです。

「人間らしさ」とは何か?

2014年に初めて彼にインタビューして以降、何度も会話を交わし、たくさんのインタビュー記事を読んできました。「肝心なのはウマニタ(「人間性」のイタリア語)だ」と耳にタコができるほどに聞いてきたにもかかわらず、彼が「人間らしい社会のために図書館をつくる」と発表したとき、「人間らしい」の神髄が理解できていなかったと虚を突かれた思いがしました。詩を読みあげるような抑揚で「ウマニタ」と発声したときの響きが、ぼくの心のどこかに刺さったようです。

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クチネリのつくる図書館の外観イメージ

やや細かく書くと、ぼくはこれまで、「倫理的」や「人権」という表現が「人間らしさ」ともっと近似値であると思い込んでいた。ふっと、そう気づいたのです。

クチネリ氏が口に出す「ウマニタ」は、明るく自由奔放、それでいて節度がどこかにあり、ちょっとした逸脱があっても機嫌が悪くならない曖昧さを十分に含んでいる。決して窮屈ではない。きっと、彼が敬愛する古代ギリシャの賢人たちや古代ローマ帝国のハドリアヌス帝は、こうしたところに目線を合わせていたに違いない……と感じたのです。

「人間らしさ」は、いわゆる「人はこうあらねば」と似て非なるものではないか。「人権」や「倫理的」は「人間らしさ」の一部の要素に過ぎない。「人間らしさ」にはもっと多くの要素があり、逆に他の要素と結びつかない「人権」や「倫理的」は極めてメカニックな機能に見えてしまう気がしました。

クチネリ氏も「倫理的」や「人権」という言葉を使わないわけではないですが、「人間らしさ」程には好んで使っていない。推測ですが、彼の目指すところは「魂のありよう」にあるために、肝心なことを表現する言葉の選択も、一面を切り取るようなものをできるだけ避けているのかもしれません。そうした彼の慎重さと深さに接すると、「コンシャス」と「サステナブル」を並べて「社会的に意識の高いあっち方向ね」と一括りにする危険性に思い至りました。

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プレス発表に登壇したクチネリ氏(左)。1000年以上先も見据える彼は、11歳の孫も壇上に誘う

前述のサーラ・ベルナートが「ヒューマニティ」や「コンシャス」に何かを感じ取ったのにも、理由があるのだろう想像します。彼女の祖父はアウシュヴィッツ収容所の生存者で、その後、ハンガリーの人々に科学的知識を啓蒙することに尽力した。彼女は幼少時代に、共産主義時代に人間らしさを失った社会の匂いを嗅いでいたのかもしれません。

クチネリ氏の図書館構想の発端には、人が生きるにあたっての根幹が”詰めの甘いレベル”で話されていることへの苛立ちもあるのでしょう。もっといろいろなことを深く考えていかなければと反省中です。

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