闇の権力者よりタチが悪い。日本の政治を支配する不気味な沈黙

闇の権力者よりタチが悪い。日本の政治を支配する不気味な沈黙

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  • 更新日:2021/04/07
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現在の日本の政治を覆う闇は、これまで語られてきたものとは全く質が異なるようです。今回のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』では米国在住作家の冷泉彰彦さんが、その闇の正体暴きを試みるとともに、変質した日本の国家と国民の関係性を解説。さらに民間も政治も劣化が進むこの国にあって、消去法とは言え菅首相に国家運営を任せるしかない理由を記しています。

主権者が権力を委任しなくなった未来国家ニッポン

現在の政治状況は、不気味な沈黙が支配しています。その正体について、何も怖いもののない田原総一朗氏などは、かなり鋭く状況を指摘しています(複数のインタビュー記事による)。

「政府内は、IOCと同じく五輪を開催したいと考えている」
「五輪を開催できないとなると、選挙はいっそう厳しくなる。すると、菅首相では戦えなくなるだろうというのが一致した見方」
「そのため、自民党内では、菅首相とポスト菅のどちらで戦うのかについての選択で悩んでいる」
「開催に向けた大きなポイントは、ワクチンの一般接種」
「だが、接種の見通しは立たない」
「ワクチン確保の本格交渉は、河野太郎のワクチン担当兼務(2021年1月18日)から、そのため接種スケジュールが遅れた」

まあ、そうだろうなと思う内容ですが、この程度の内容でもちゃんと指摘できているのが田原さんぐらいというのは、闇が深い感じがします。

闇というと、どこかに怖い権力があって、その権力に官僚組織やメディアがひれ伏している、そんなイメージですが、今回の政治の闇というのは、ちょっと深さが違うようです。強い権力が形成されて、そのために人々が弾圧されている、そこで自由な発言が封じられているのでは「ない」からです。

むしろ、進行している事態は反対であり「主権者が権力を委任しなくなった」という政治的な現象が起きているのではないか、私にはそう見えます。2010年代ぐらいから、個人的に日本というのは「課題先進国」として見てきているのですが、その延長で、ついに日本というのは、機能としての政治権力が成立しない、そんな不思議な「未来国家ニッポン」に変容しつつある、そんな評価をしないといけないようです。

五輪に関してがまずそうです。東京の高齢者などには「これ以上、騒がしい国際行事はイヤ」という感情があり、更に「国と都の税金が浪費される五輪には反対」という意見、そして「外国人観光客ばかりで町が荒らされるのはイヤ」という感情論も乗っています。

そうした「オリジナルのアンチ五輪」が、今回のコロナ禍によって「外国人観客はイヤ」となり、それを政府に呑ませたら、次に想定されるのは「役員、選手団、スポンサー枠の入国反対」となるに違いありません。

そんな中で、日本でのプレ五輪の国際大会に「ビザを出すな」とか「14日の監禁検疫とPCR陰性は絶対」「日本の住民との接触禁止」などの条件が競技別に炎上して行く可能性があります。そして、どこかの時点でポイントがゼロになると、五輪としては全体がゲームオーバーになる、そんなストーリーが見えます。

では、そんな面倒なことをしないで、サッサと中止してしまえばいいのですが、主権者はそうした委任もしていないようです。中止したならしたで、「自民党の失政だ」とか「安倍内閣の官房長官だった菅氏は共犯」だと叩くでしょうし、そうした圧力を感じていると、内閣も官僚組織も「中止の場合のコスト」を正直に国民に説明する勇気もなくなるでしょう。

ということで、有権者の総体としては五輪を淡々と開催することには反対であり、では勇気を持ってスパッと引くように「五輪反対という政策へ向けて主権を行使する」わけでもない、つまり本件に関しては、国家とカネがズブズブに泥沼に飲み込まれているのを、ひたすら政治家に責任をかぶせて、憤慨しつつ見物するという事態に陥っています。

この五輪が良い例ですが、日本という社会が直面している他の課題についても同じような状況があるわけです。

まず新型コロナのワクチンの問題があります。どうして確保が遅れたのか、それは厚労省が「アンチワクチン世論」とそれを煽ってきたメディアによって、過去半世紀の間、負け続けてきた歴史があるからです。戦略的に先手を取って進めては、反ワクチン派の炎上作戦には勝てない、だから欧米での巨大な成功事例を待って進めたい、そんな思惑もあったのだと思います。

世論つまり有権者の亡霊に厚労省は恐れおののき、必死になって自分たちを守ろうとした結果ということです。

その一方で、ワクチンを使わない対策ということで、世論に媚びた「ゼロコロナ」政策などを掲げる政党もあるわけで、これは高齢者の感情論を丸のみすれば、当面は票になるという悪質な姿勢以外の何ものでもないわけですが、世論の方は目が肥えていますからそう簡単には騙されないでしょう。

つまり、枝野方式の「徹底した感染対策でワクチンに頼らず感染制圧、経済は徹底バラマキで回す」というセットメニューは、財政赤字が怖いとか、借金を次代に残すのがイヤという都市の高齢層の感覚には合わないということです。

エネルギー政策も同時です。原発再稼働はイヤ、英語公用語化や徹底した教育改革もイヤ、ということだと、世界が激怒するまでモクモク化石燃料焚いて製造業をやった後は産業を畳み、全土がペンペン草、国民は消滅して全員が千の風に化けておしまい、ということになりかねません。

その教育改革ということでも、本来は小中のレベルでもしっかりした能力別カリキュラムを運用すべきなのですが、政治的にできない。そこで、都市部の富裕層は子どもを塾に行かせて中学から私立に行かせるという奇々怪々なことが、延々半世紀続いているわけですが、改まりません。

そんな中で、国家というものが変質してきているように思います。まず、精神的な帰属の対象ということがなくなりました。右派の言論の中には、東條政権以降の敗戦政策を叩くのは「反日」だというレトリックがありますが、では、右派の世論が「親日」であり国家への精神的帰属をしているのかというと、どうも違うようです。

国家というものを、イデオロギーを軸とした言葉のゲームの「土俵=リング」としては使っていても、国家そのものへの信任とか帰属というのはどんどん薄くなっているようです。

何を言っても、裏では「アカンベー」している感じがあって、その立場から見ると左派の言論には「より単純な一生懸命さ」があり、だからこそ叩くのが面白いということになっている、それ以上でも以下でもない、そんな印象もあります。

その証拠に皇室の権威というのも、気がつくとかなり怪しいという感じになりました。内親王という「機関」について、中の人がちゃんと機能を演じる姿勢がないとなると、今度は観客の方も皇室に「統合のシンボル」として精神的な委任・依拠をしなくなる、そんなマイナスのスパイラルが動いているかのようです。

こうなると、上皇夫妻が機関と中の人との折り合いを必死でつけて、近代の中における皇室制度というのを30年模索してきた蓄積も、どんどん食いつぶされてしまう危険を感じます。

現代の日本において、国家というのは、納税と行政サービスのバーターで考える単なるNPOの一種であり、納税が義務である分、国民は相当のカスハラが許されるという不安定な関係になっているようです。その結果として、大規模な社会の建設主体としての国家ではなくなりました。

夜警国家という考え方があって、小さな政府に徹して、福祉や公共サービスは最小限にする、但し安全保障と治安維持だけはするという考え方があります。ですが、安全保障に関しては昨今の右派は何の躊躇もなくアメリカに丸投げですし、国内治安に関しては「良くて当たり前」であり、そのくせ警察のことは誰も尊敬していません。ですから、夜警国家でもないわけです。

そんな中で、内閣総理大臣というのは、学級崩壊した底辺校の校長のようなポジションになっています。亡くなった思想家の吉本隆明(ばななさんのお父上)は「大統領や総理大臣が、町内会の水くみ当番のようになり、誰もその役に執着せず、輪番でその役を代わるようになれば、国家権力は消滅する」というようなことを、60年代末から70年代に述べていました。

団塊世代を中心とした当時の若者の一部は、これに熱狂したのです。当時の若者にとっては、国家権力というのは途方もなく大きな悪であり、つまり悪しきベトナム戦争を遂行するアメリカに協力し、途上国独裁を続けることで格差を放置する巨悪と思っていたわけです。

少なくとも佐藤栄作に対しては、そう思っていました。ですから、国家権力が「水くみ当番」になる日が来れば、日本人全員が自由になれると思っていたのでした。

それから50年、2021年の現在、総理大臣というのはほとんど「水くみ当番」になってしまいました。けれども、単なる水くみ当番ではありません。村人たちは、当番の汲んできた水が冷たければ怒り、温(ぬる)ければ怒り、途中でこぼせば怒り、だからといってバケツ一杯に入っていないと怒るわけです。

ですから、当番の義務を淡々とこなせばいいのではなく、順番が来ないことを祈る、そんな役目とも言えます。

ですから、ポスト菅などと言いますが、例えば岸田、石破などという面々は、例えば五輪のやめ方、ワクチンの普及方法について、菅さんより「まし」であったり「違う」何かを持っているのかというと、そうでは「ない」と思われます。

となると、「こうした状況で総理になりたい」といっていること自体が、最初から無能の証明になっているような感じもあり、暗澹とした思いがするのです。

一方で、世間にはマスク警察、自粛警察がうごめいているわけですが、これは、戦国時代の野武士、地侍のようなものです。ちょっとでも護衛が弱ければ、残党狩りにあってあえなく落命する、そんな感じです。

ですから、内閣総理大臣の伊勢神宮参拝も、どことなく神君伊賀越えよりもっと惨めな感じがしてなりません。

強く思うのは、枢軸日本の名誉回復というファンタジーとしての右派と、あらゆる軍事的なものを否定するファンタジーとしての左派、いずれも全く地に足のついていない中で、左右対立から建設的な合意形成がアウトプットして出てこないという問題が1つあります。

もう1つは、民間主導の経済合理性と国家主導の計画経済の「どちらを強化するのか?」「どちらが有効なのか?」という問いは、もう全く意味がなくなっており、現在は「民間も政治もどちらも等しく劣化が進んでいる」という認識です。

この2つの原点を探りながら、日本の文化、伝統、思考様式の中にある「それでも残る美点・長所」をえぐり出して、どこかで「経済社会の衰退速度をスローダウン」できないか、そんなことを思うのです。

そう考えると、個人的には菅さんというのは消去法で残ります。石破や岸田では、あるいは野党では、何が問題かも分かっていないからです。

太郎さん(河野)には希望を感じますが、彼には教育改革(公立小中の能力別)と雇用改革(解雇規制の解除)、英語公用語化、そして旧枢軸の名誉を切り捨てた上での自主防衛(ただし、非核兵器、軽武装)という4大改革をやって欲しいと思います。

コロナと五輪の敗戦処理で太郎さんを潰してしまっては、ラストチャンスを失うことにもなりかねません。(メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』より一部抜粋)

image by:首相官邸

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冷泉彰彦『冷泉彰彦のプリンストン通信』

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