「まるで眠っているようだ」アントニオ猪木の訃報を受けた力道山未亡人は深夜に遺体と対面した【力道山未亡人~元日航CA・田中敬子の数奇な半生~#1】

「まるで眠っているようだ」アントニオ猪木の訃報を受けた力道山未亡人は深夜に遺体と対面した【力道山未亡人~元日航CA・田中敬子の数奇な半生~#1】

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  • 更新日:2022/11/25
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敬子さんの出版記念パーティーでは猪木にビンタ(写真提供/敬子さん)

“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。(連載の第1回)

【写真】猪木の激闘の様子、夫・力道山に猪木の死を報告する田中敬子さんが手を合わせる姿

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「お車の用意は出来ております」

2022年10月1日、土曜日。

午後5時から内幸町のレストラン「アラスカ」で、イベント会社を経営する鈴木裕枝のバースデーパーティが催された。

大勢の来賓が集まった。大相撲の高安、歌手の佳山明生、タレントのマッハ文朱、東京オリンピック・パラリンピック担当大臣をつとめた櫻田義孝衆議院議員の姿もある。総勢40名。座が盛り上がらないはずがない。

終盤に差し掛かった頃、ロングのワンピースに淡い灰色のカーディガンを羽織った白髪の婦人が壇上に上がった。一礼したのちマイクを握ると、ピアノの伴奏に合わせて「I was waltzing~」と『テネシーワルツ』を朗々と歌い上げた。

「昔の友人に恋人を紹介したら、その友人に恋人を奪われた」という歌詞が、誕生日のお祝いに相応しいとも思えなかったが、どうしても今日はこの曲が歌いたかった。抑えの効いたボーカルが場内に響き渡る。

婦人は田中敬子といった。

この日の主役である鈴木裕枝にとって、81歳の田中敬子は母親のようであり、気兼ねなく話せる親友のようでもある。敬子が壇上から降りると、拍手が鳴り止むより早くレストランの支配人が「お車の用意は出来ております」と耳打ちした。

「ありがとうございます」

そう言って掌を表に向けると、時計の針は午後9時を指していた。敬子はこの後のことを考えた。あまり遅くなってもいけない。でも、直行するのもどうかしら。もう酔ってはいないけど躊躇がないこともない。別のテーブルでは二次会の話も聞こえてくる。二次会は深夜まで続くに決まっている。その後で合流出来なくもないが、そんな気にならないこともわかっていた。

虎ノ門の方角に流れる赤ら顔の来賓に別れを告げながら、敬子はタクシーに乗り込む。

運転手が行き先を求めるように横顔を見せた。喫茶店にでも寄ろうかと脳裏をよぎったが、それも気が進まない。珈琲一杯で厳かな雰囲気が取り繕えることもないはずだ。

敬子は行き先を告げた。あの人なら許してくれるはず。「小さいことは気にするな」と主人も言ってくれるに違いない。そう思うことにした。白金高輪のマンションに着くと、玄関には大きな革靴がいくつも並んでいた。その光景はどこか懐かしく、促されるまま中に入ると、夜10時近くにもかかわらず、リビングには喪服に身を包んだ大柄な男の姿があった。

敬子の姿を認めた何人かがおもむろに立ち上がると、体を折るように叩頭した。敬子も目礼で返す。小川直也以外は誰かわからなかった。名前を聞いてもわからないだろう。

寝室に足を踏み入れると、ベッドに遺体が安置されていた。まるで眠っているようだと敬子は思った。

アントニオ猪木である。

「猪木さんですか、主人が……」

猪木と初めて会ったのは、敬子が力道山と交際を始めた時期、1962年の秋頃だったろうか。

箱根までゴルフに行く日の早朝、力道山の住む赤坂のリキ・アパートの前に、ゴルフバッグを車のトランクに運び入れる若者の姿があった。19歳のアントニオ猪木である。

力道山がマンションから出て来た。

「敬子、紹介する。アゴだ」

「あ、どうも」

「おはようございます」

「この頃は付き人は卒業していたはず」と敬子は記憶するが、それでも、力道山は何かにつけて「アゴ」と呼ぶこの青年に用事を言い付けた。

「アゴを呼べ」

「アゴ、ウチまで上がって来い」

猪木自身は「力道山には殴られたり蹴られたり散々な目に遭った」と述懐してきた。おそらく、そういうことは頻繁にあったのだろう。ただし、敬子はその場面を見たことがない。給仕係の「ボンちゃん」(田中米太郎)をぶん殴った場面は何度か目撃している。でも、猪木に手を上げている場面には、終ぞ遭遇しなかった。

むしろ、誰よりも可愛がっているように見えた。寵愛と言っていい。珍しいものが手に入ったらいつも「アゴを呼んでやれ。アゴにも食わせよう」と言った。すぐさま敬子は、アパートの敷地内に建つ選手の寮に電話を入れる。猪木本人が出るのはわかっていた。電話番だからである。

「猪木さんですか、主人が……」

敬子が用件を伝えようとすると、力道山は受話器をひったくって、決まってこう告げるのだ。

「誰にも見つかるな。こっそり上がって来い」

サイドビジネスに熱心だった力道山は、その打ち合わせを自宅でやることも珍しくなかった。銀行員、税理士、弁護士、会計士が自宅に集まる。そんなときもこう言う。

「アゴ、肩が凝った。揉みに来い」

青年に肩を揉ませながら、ビジネスの話を進めるのである。つまり「お前も一緒にこの話を聞いておけ」ということだ。こんな弟子はどこにもいない。だから、後年の猪木がやたらビジネスに手を出しても、敬子はさして不思議に思わなかった。不動産、輸入販売、店舗経営、学校経営……。すべて力道山の受け売りである。影響を受けないはずがないからだ。

猪木がいわゆる“ジジイ殺し”だったのは有名な話だろう。政治家、企業家、教育者、文化人、裏社会の大物に至るまで籠絡されたものだが、言うなれば、力道山こそその第一号だったのかもしれない。

ジャイアント馬場を指して「特別扱いだった」と言う人は多いが、敬子にはそうは見えなかった。馬場のことは“ヒット商品”として扱ったにすぎない。特別扱いは猪木の方なのだ。猪木こそ力道山の後継者だった。

その猪木が息を引き取って、静かに横たわっているのである。

脳裏によぎった59年前の「亡き夫の姿」

敬子が猪木と最後に話したのは、一カ月前の8月25日のことだ。

新型コロナウィルスの蔓延や、猪木の病状の進行もあって頻繁に会う機会は失われたが、ここ数年は月に一度、敬子から携帯電話を鳴らすようにしていた。この日もそうだった。

「元気?」

「いやあ、元気を売っていた俺が、売る元気もなくなってねえ」

「張り合いないのね」

「ムフフ」

「じゃあね。また、かけるからさ」

「はい、では」

これが最後の会話となった。

2日後、日本テレビの『24時間テレビ』に車椅子姿の猪木が出演した。「思ったより元気そうじゃん」と敬子は思った。2歳下の猪木は弟のようである。馬場は3歳上。その年齢差が、夫亡き後の今日までの関係性となった。静かに眠る“弟”の前で、神妙に手を合わせた敬子は心の中でこう祈った。

「猪木さん、主人に会ったら、くれぐれもよろしく伝えて下さい」

「あなた、猪木さんがそろそろお見えになる頃かと思いますけど、『アゴ、よく来たな』って迎えてやって下さいな」

敬子の脳裏に、59年前、同じように横たわる亡夫の姿が甦った。

(文中敬称略。以下次回、毎週金曜日配信予定)

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