来日26年で倒産も経験「シディーク社長」逆転人生

来日26年で倒産も経験「シディーク社長」逆転人生

  • 東洋経済オンライン
  • 更新日:2021/11/25
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東京タワーに出店した味庵・ラムザン・シディークさん(筆者撮影)

11月1日。東京タワーの2階、飲食店や土産物屋が軒を連ねるフットタウンの一角で、華やかなセレモニーが開かれていた。パキスタン料理店「シディークパレス」が、グランドオープンを迎えていたのだ。

パキスタン大使や、東京タワー社長も臨席する中、店を運営する「和新トレーディング」の取締役、味庵(ミアン)・ラムザン・シディークさん(52)が壇上に上がった。日本に帰化したパキスタン人らしく、流暢な日本語であいさつをする。

「日本の中心は東京で、そのハートが東京タワーです。そこに、私たちの店があります。まさか、東京タワーで店ができるとは思ってもいなかったので、皆さんに感謝しています」

東京の象徴でもあり、日本を代表する観光スポットに、海外出身の社長の会社が参入するというのは大きな快挙だ。しかしミアンさんが来日してから26年、たどった道のりはなかなかに険しいものだった。

貿易をやりたくて1995年に来日

「もともとね、貿易をやりたくて日本に来たんですよ」

パキスタン東部ラホールで生まれ育ったミアンさんが大学生のころ、1990年代といえば、日本がまだまだ元気だった時代だ。パキスタンにも日本製品があふれていた。

「車でも家電でも、身のまわりのものはなんでも日本製。こういう商品を、パキスタンにもっと輸入できないかって思ったんです」

ミアンさんの父はさまざまなビジネスを手がける人だった。自転車の部品の生産、生地の販売、それに不動産業まで多角経営を行うその背中を見てきたミアンさんは、「自分もいつかは商売をするもんだと思っていた」のだそうだ。そんな志を持って、1995年に日本の地を踏んだ。

まずは言葉だろうと東京・渋谷の日本語学校に通い始めたミアンさんは、生活のためにアルバイトも始めた。カラオケ屋というが、力士やプロ野球選手も顔を出したというから、高級ラウンジのような店だったのだろう。

「昼に学校で習ったことを、夜のバイト先でどんどん試せるんです」

めきめき語学力を伸ばしていったミアンさんは大学に進学するも、いちはやく自分の商売を立ち上げたいという気持ちが大きくなっていく。せっかちなのである。それに雇われるのではなく、自分で会社を回したい、経営者になりたいという独立心は、日本に住む外国人に共通している部分でもある。そして来日わずか2年で、起業に挑むのだ。

「アルバイト先のマネージャーから支援してもらって、私のほかにパキスタン人とインド人、3人で会社をつくったんです」

飲食業での経験を活かすため、そして故郷の味を提供したいと、パキスタン料理店「シディークパレス」の1号店を新宿御苑に出店する。しかし、お客は思うように入らない。最初の1カ月の赤字は92万円に膨らんだ。

この額に怖じ気づいてしまったほかの2人は、やっぱり店を閉めようと提案してきたが、ミアンさんは譲らなかった。やはりパキスタンから来日してきた弟、それにコックと、必死で店を切り盛りした。

「レストランのそばにアパートを借りていたんだけど、そこで弟とコックが寝て、私は車の中で寝るんです。部屋があまりに狭くて3人は入れなかったし、ほかにアパートを借りるお金もなかったしね」

そんなことを楽しげに思い出す。しかも夜のアルバイトも続けていて、そのお金でコックの給料を払った。つまり昼のランチ営業から夜11時まで自分のレストランで働き、それから深夜のバイトに出て、朝方に帰ってきて車の中でまどろむのだ。

「そのころは26歳。若かったよね」

10年あまりで26店舗の飲食チェーンに

そんな奮闘もあって、店は次第に利益を生むようになっていく。順調に売り上げを伸ばし、都内各地に系列店舗の出店も進めた。そして10年あまりで26店舗の飲食チェーンを築き上げたミアンさんは、やり手の外国人経営者としてメディアの取材を受けるようにもなった。

暗転したのは2011年のこと。きっかけは東日本大震災だった。「シディーク」各店で雇っていたパキスタン人、インド人、ネパール人のコックたちが次々と帰国してしまったのだ。津波の映像や、放射能の報道を見た母国の家族が「日本はもう崩壊するのではないか」と心配したからだった。

「当時150人くらいのコックがいましたが、90人が辞めてしまったんです」

そこで新しいコックを何人も雇ったのだが、教育係がいないのだ。店の味を支えてきたベテランたちは帰国してしまっていた。だから新人をいきなり柱として登用せざるをえず、安定していた「シディーク」の味が変わっていく。お客が離れていく。

「それなら、セントラルキッチンをつくろうと思い立ったんです」

1カ所の施設で基本的な調理を行い、それを各店舗に配送するセントラルキッチン方式なら、味の安定化と人員の効率化を図れる。そう考えて、葛飾区にあった中学校の食堂跡地を再利用して稼働を始めたのだが、いったん減ったお客はなかなか戻らない。施設の維持費用だけが膨らんでいく。

そんな折に、セントラルキッチンの設備を見た日本の業者から「ハラルのパウチ商品を生産しないか」と持ちかけられる。イスラムの戒律で食べることを許されたハラル食品は、日本に住むイスラム教徒が急増していたこともあって需要が増していた。チャンスだと思った。

「増産のための資金を銀行で借り入れして、勝負に出たんです」

しかし、思ったほどにはさばけない。経営はどんどん傾いていった。さらに今度は、非常食の製造という仕事も引き受けたのだが、何十万食という量を生産したところで機械の不具合から商品にミスが見つかり、納品できずに大打撃を受けたりもした。

会社を畳んだが、国に帰ろうとは思わなかった

あれこれと手を広げてみたが、もう限界だった。こうしてミアンさんは2016年に、会社を畳んだ。店はほとんど人に譲渡した。

「でも、国に帰ろうとは思わなかったんですよ。もう日本も長いしね」

仕事や実家の用事でパキスタンやほかの国に行くと、3日もすると日本が恋しくなる。成田空港に戻ってくると、すぐにうどん屋や寿司屋に駆け込む。温泉が大好きで、「必ず民宿に泊まるんです。あの朝食がいいでしょう」と力説する。それに会社が苦境の真っ最中だった2012年に日本に帰化したほど、この国になじんでいた。

そのときにつけた日本名の「味庵」は、本名のミアンにちなんだものだ。「味」に関わる商売をしていることから、会社の日本人スタッフに考えてもらったという。

「それにね、“アジアン”とも読めるでしょ」

日本人もパキスタン人も、同じアジア人。そんな気持ちと、名前を与えてくれた日本で、どうにかもう一度やり直したかった。

再起の糸口となったのは、ミアンさんの夫人だった。同じパキスタン人で、小さな貿易会社を営んでいた。それが「和新トレーディング」だ。

この会社の名義で、「シディーク」がいくつか残っていた。加えて、新規に始めたパキスタンマンゴーの輸入が、軌道に乗ってきたのだ。それに、パキスタンのスパイス大手シャン・フーズからの輸入が伸びてきていた。

またセントラルキッチン時代の経験を活かして、ケバブやタンドリーチキンなどオリジナルブランドの冷凍食品の販売も始めて、これもヒットした。日本国内のイスラム教徒増加という波と、ミアンさんのビジネスが、やっとマッチしたのだ。日本人の間に、エスニックブーム、スパイスカレーのブームが起きていたことも後押しした。

「少しずつ業績がよくなり、『シディーク』も何軒か買い戻したんです」

木更津に自宅を移し、農業を始めた

そして自宅は、東京から千葉の木更津に移った。4人の子供たちは都内のインターナショナルスクールに通っていたのだが、その高額な学費が、傾いた家計にはきつかったからだ。

いくらか手ごろなインターナショナルスクールが木更津に見つかり、子供たちには転校させることになってしまったのだが、それでも引っ越してきてよかったと思っている。都内に比べて自然豊かなこの地で、農業を始めてみたのだ。「シディーク」で使う米や野菜をつくるためだったが、次第に面白くなってきた。

「土日は毎日6時から、田植えや稲刈りをしてるんです」

まわりの日本人の住民も、はじめは「ガイジンがなにをやっているのか」と訝しげだったようだ。それでもミアンさんから積極的にあいさつをし、黙々と土と格闘しているうちに、次第に様子が変わってきた。

「視線が、すごくやわらかくなってきたなって感じます。話しかけてくれる人がずいぶん増えました。でもまだまだ、私の溶け込む努力が足りないなって思うけど」

もう1つ、大きな転機があった。農業の仕事を一緒に始めた日本人のつてで、東京タワーの社長を紹介されたのだ。

空き店舗が出るという話に、すぐさま乗った。少しずつビジネスを再建していったミアンさんは、こうしてとうとう東京タワーにまで登り詰めたというわけだ。

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東京タワーのオープニングセレモニーには、パキスタン大使のイムティアズ・アハマド氏(右から2番目)、東京タワー社長の前田伸氏(左から2番目)も臨席(筆者撮影)

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東京タワー2階のフットタウンにオープンした「シディークパレス」(筆者撮影)

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なかなかに紆余曲折の激しい日本での暮らしだが、ビジネスの上で大事にしてきたことを尋ねると、

「まわりで支えてくれている人、一緒に仕事をしている人、出入りの業者、そういった人たちにうそをつかないこと。ごまかさないことでしょうか。会社がたいへんで給料が払えないときも、ちゃんと説明するように心がけてきました。都合が悪くなると電話に出ないようなことだけは、絶対にしたくなかった」

そんな答えが返ってきた。

会社を閉めた日から1日も休んでいない

日本語の座右の銘は、「一生懸命」だ。その言葉通り、いったん会社を閉めたあの日から、ミアンさんは1日たりとも休んでいない。ワクチン接種をして副反応が出たときも、仕事が気になって会社に顔を出した。家族旅行も、出張と絡めた行先だ。

「気が抜けないんですよ。一回、失敗したからね。なにかやっていないと気がすまない」

その勢いで、来年はもっと農業に力を入れようと思っている。キャッサバの生産も始めるつもりだ。どうにも、あれこれとやってみたくなる性分なのだ。

「なんでも手を出しちゃって失敗したこともあるけど(笑)。手を出していかないと成功もないって思っています。それにね、日本は、一生懸命にがんばればちゃんと結果が返ってくる国なんです。日本人が応援してくれるようになるんです」

人生の半分を日本で過ごした親日家は、そう笑うのだった。

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パキスタン人ビジネスマンは挫折を経て、ついに日本の中心に進出した(筆者撮影)

(室橋 裕和:ライター)

室橋 裕和

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