英国王朝交代史3:ハノーバー朝からウィンザー朝まで

英国王朝交代史3:ハノーバー朝からウィンザー朝まで

  • アゴラ
  • 更新日:2022/09/23
No image

左:チャールズ2世 右:アン女王出典:Wikipedia

ダイアナの先祖は王の愛人だらけ

クロムウェルが59歳で死んだ時には、人々はほっとし、死刑にした国王の息子で大陸に亡命していたチャールズ2世(在位1660~85年)を迎えて王政復古を選んだ。

チャールズはカトリックだったが快活で人気のある王だった。ダイアナ妃とその子であるウィリアム王子はチャールズ2世とフランス人の愛人の子孫である。チャールズ2世の愛妾にルイーズ・ルネ・ケルアイユ(ポーツマス女公・オウビーニュイ女公)があり、そのあいだに生まれたのがリッチモンド公チャールズ・レノックスで、ダイアナ・スペンサーの先祖である。ただし、ルイーズはのちにフランス人聖職者と浮気をしてイングランドを追放された。子孫のダイアナの運命を予感させる話だ。

しかも、彼女の祖先にはほかにも、ヘンリー8世の愛人であるメアリー・ブーリン(チャーチルやダーウィンの祖先でもある)ほか6人の王の愛人がいる。

カトリックへの差別には難色を示したが、議会はカトリックを徹底的に締め付けた。弟で硬直的なジェームズ二世が即位すると議会との対立はのっぴきならないものになって、大貴族たちの要請で娘のメアリーとその夫でプロテスタントだったオランダ総督オレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム。在位1689~1702年)が共同君主として迎えられた。

これが、「名誉革命」(1688年)である。ウィリアムは妻のメアリーより長生きしたのでしばらくは単独の国王となったが、この間はイギリスとオランダは同君連合を構成し、ルイ14世との戦いで同盟した。

アイルランドのカトリックを厳しく弾圧し、今日に至るまでの対立の原因をつくった張本人でもある。次には、メアリの妹、つまりジェームズ2世の娘でプロテスタントのアン女王が即位した。1707年には、同君連合でしかなかったイングランド王国とスコットランド王国が合同しグレート・ブリテン王国が成立し、アンが初代の女王となった。

さらに、ジェームス1世の外孫であるドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルクがジョージ1世(在位1714~27年)として迎えられ、ハノーヴァー朝となった。ジェームズ一世の娘にプファルツ選帝侯妃エリザベトがあり、その娘であるソフィーがゲオルクの母であった。

姓はマウントバッテン・ウィンザーだが :ウィンザー朝

イギリス(連合王国)では、1714年にアン女王が死んだあと、ドイツのハノーバー選帝侯ゲオルグが国王ジョージ1世を兼任することになったが、英語がほとんどできなかった。閣議を主宰できず、首相に任せることになった。

アメリカ独立戦争やフランス革命の時代のジョージ3世のあと、その子どもなどが相次いで即位したが、やがて、5男の娘であるヴィクトリアが即位した。父親のエドワードは、50歳を過ぎても独身だったが、借金を返すためにザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国の公女で未亡人だったヴィクトリアと結婚した。そして、翌1819年にのちのヴィクトリア女王が誕生したが、エドワードはその翌年に死んだ。

No image

ヴィクトリア女王(1887年撮影)出典:Wikipedia

ヴィクトリアの即位が喜ばれたのは、もし彼女がいなかったら、6男のカンバーランド公アーネストが王位につくはずだったが、評判が悪かったので、その悲劇を避けられたからだ。ちなみに、イギリス王が兼ねていたハノーバー王位はこのアーネストが継いだので、イギリスはハノーバーとの王君連合を解消できた。

ビクトリア女王が、結婚したのは1840年で、母の兄の子であるアルバートだった。二人にはエドワード7世や、ドイツ皇后ビクトリアなど四男五女がいたが、子孫たちの何人かは、ビクトリア自身の突然変異にもとづくとみられる血友病に悩んだ。

エドワード7世以降は、アルバート公の実家であるドイツ出身のサクス=コバーグ・アンド・ゴータ家(独語:ザクセン=コーブルク=ゴータ家)が本来の名字であるが、第一次世界大戦でドイツが敵国となったので、ジョージ5世の提唱でウィンザー家に家名を変更した。

ヴィクトリア女王の曾孫にあたるエドワード8世は、アメリカ人で離婚経験がある人妻ウォリス・シンプソンと結婚を望み、最後は、結婚を諦めるよりは退位を選択し、退位後は、パリに住んだ。

「世紀の恋」でエドワードが退位したのち弟のジョージ6世が即位したが、1952年に57歳で亡くなり、長女のエリザベス2世が女王となった。エリザベスの夫のエジンバラ公フィリップは、ギリシャ王家の出身であるが、ギリシャ王家はデンマーク王家の分家である。ジョージ6世の親友で、先にイギリスに帰化していたマウントバッテン公にならってこれを姓としていた。マウトバッテンとは母系でつながるドイツのバッテンベルク家を英語風になおしたものだ。

ただし、四人の妹がドイツ諸侯に嫁ぎヒトラーとの関係が深かったなどの理由もあって、チャーチルはヴィクトリア女王の夫アルバート公と違って王配殿下(プリンス・コンソート)の肩書きを与えず、国家機密へのアクセスも認めなかった。

イギリス王家とフランスとのつながりも強い。フィリップ殿下は、ギリシャ生まれだが、生後一年でフランスに亡命し、義理の叔母であるマリー・ボナパルトの所有するパリ郊外サン=クルーの別荘で住んだことがるし、殿下がイギリスに移った後も母親はフランスに在住した。

チャールズ3世以降については、王家の名前はウィンザーのままだが、王家を離れた場合には、マウント・バッテンを姓とするとしている。

No image

国葬でのチャールズ3世The Royal Family SNSより

※この原稿は、「日本人のための英仏独三国志」からの抜粋短縮版です。英仏独の王家の三つ巴の興亡を描いたもので、「日本人のための日中韓興亡史」はそれと同じ手法で日中韓の歴史を立体的に描きました。地域史の新しい試みです。

【関連記事】・英国王朝交代史①:ノルマン朝とプランタジネット朝英国王朝交代史②:チューダー朝からスチュアート朝へ

八幡 和郎

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加