「第5のグランドスラム」で日本人ペアが快挙。世界屈指の強豪に成長

「第5のグランドスラム」で日本人ペアが快挙。世界屈指の強豪に成長

  • Sportiva
  • 更新日:2021/04/08

ふたりで掲げるクリスタルのトロフィーに、"サンシャイン・ステート"の愛称で知られるフロリダ州のまばゆい日差しがきらめく。

35年の歴史を有するマイアミ・オープンは、格付け的にはグランドスラムに次ぐトーナメント。男女共催であることや規模の大きさからも、"5番目のグランドスラム"と呼ばれてきた大会だ。

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その「第5のグランドスラム」で、青山修子と柴原瑛菜のペアがダブルスの頂点に立った。日本人ペアが同大会の頂点に立つのは初の快挙。チームとしてのランキングを示す「ダブルス・レース」では、今季のトップへと躍り出た。

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マイアミ・オープンを制した青山修子(左)と柴原瑛菜(右)

個別のダブルスランキングでも、ふたりそろって13位。東京オリンピック出場権は6月7日時点の世界ランキングで決まるが、その切符もほぼ手中に収めている。

今や青山/芝原は、いかなる大会でも優勝候補の一角を占める世界屈指の強豪ペアだ。

年齢で10歳差。生まれ育った地も遠く離れたふたりの足跡が交錯したのは、2年前のこと。それも、偶発的な出会いだった。

1998年にアメリカ合衆国で生まれた柴原は、テニスが身近な晴天の地で、家族とともにごく自然にラケットを手にした。8歳の頃には米国テニス協会(USTA)に才能を見いだされるほどの早咲き。元トップ選手たちに師事し、18歳の時にはUSオープン・ダブルスジュニア部門で頂点にも立っている。

かくもテニスキャリア面では順調だった柴原だが、この当時の彼女は、ふたつの迷いを抱えていた。ひとつは、高校卒業と同時にプロになるか、あるいは大学に進むか。そしてもうひとつは、国籍の選択だ。

ひとつ目の迷いに関しては、名門UCLAへの進学を選ぶ。機が熟したら、休学してのプロ転向を視野に入れての選択だった。

ふたつ目の迷いは、もう少し複雑だったろう。日米双方の国籍を持つ柴原は、それまでアメリカ国籍で国内外の大会に出場し、長くUSTAの支援も受けてきた。その恩義も、もちろん感じている。

だが、東京でのオリンピック開催が決まったこともあり、「日本人として、オリンピックに出たい」との思いは日に日に強まった。最大の動機づけは、東京に住む祖父母に、晴れ舞台に立つ姿を見せたいとの願いである。

そうして2年の大学生活を終えた時、彼女はまず、プロ転向の決断を下す。

青山と会ったのは、それから10カ月ほど経った頃。WTAツアー出場の当落線上までランキングを上げた柴原は、出場の可能性にかけ、米国チャールストン開催の大会に向かった。

この時は結果的に、本選には届かない。ただ、ホテルと会場間のシャトルバスで、毎日のように青山と顔を合わせる僥倖には恵まれた。

かねてより青山を敬愛していた柴原は、「機会があったら、ダブルス組んでください!」と申し出る。しかし、その時は青山に「当面は決まったパートナーがいるから」と丁重に断られた。

だが、それくらいであきらめはしない。以降も猛アタックをかけ、3カ月後のサンノゼで、ついに悲願のパートナーの座を射止めた。しかも、初めて組んだ大会で、いきなり準優勝の好成績。この時には、国籍も日本に変えていた。

一方の青山は、柴原と顔を合わせたチャールストン大会で初戦敗退を喫している。

長くダブルスの名手として活躍し、すでに8つのツタータイトルも手にしていた。だが、前年の2018年は無冠に終わっていた。

2019年1月の全豪オープン・ダブルス2回戦で敗れた時は、「私のように体格やパワーで劣る選手は、もっと戦術と技術を磨かないと戦っていけない」と、会見の席で涙を流す。当時の彼女は、悲壮なまでのひっ迫感を背負ってコートに立っているようだった。

8歳でUSTAに見出された柴原とは対照的に、青山は遅咲きの選手だと言えるだろう。

ジュニア時代の目立った戦績はなく、「海外で試合をするという発想すらなかった」と言うほど、華やかな舞台とは無縁だった。地道な努力が花開き、とくにダブルスで頭角を現し始めたのは早稲田大学進学後。在学中に国内のITF 大会(下部大会)優勝などの実績を残し、2010年にプロに転向した。

「グランドスラムに自分が出るなんて、全然イメージできない」と言っていた青山のキャリアが、大きく加速したのが2013年。ウインブルドン・ダブルスでベスト4に進出し、以降はツアーの上位進出常連となった。

ただ、「グランドスラム優勝」を目標に掲げる彼女には、ここ数年の結果やパフォーマンスは、満足いくものではなかったかもしれない。固定パートナーがいないことも、頂点を狙ううえではやはりマイナス材料だ。

そんな折に出会ったアメリカ育ちの日本人は、青山にとっても新たな可能性の扉だった。

素直でポジティブな若い柴原は、何事も吸収が早い。なにより、日本語で密にコミュニケーションを取り、試合中にも進化する感覚は、海外のパートナーとでは得られなかった充実感だ。

初めて組んだサンノゼ大会後は、ふたりでスケジュールを確認しあい、同年9月からペアを組もうと約束する。そこから4大会後に初タイトルを掴むと、続くモスクワ大会でも優勝。翌年2月には早くもツアー3勝目を手にする。青山が同じパートナーとともに3度以上優勝するのは、初めてのことだった。

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プレー面で言えば、上背に恵まれた柴原は、カリフォルニア仕込みのキックサーブとスマッシュが得意。一方、154cmの青山は、低い姿勢でネット際を端から端まで走り、身体ごとボールに飛びつくようなボレーを武器とする。

その青山の姿を目の当たりにしながら、柴原は「自分も速く動くイメージを作り、マネしている」と言った。青山が柴原の可能性を押し広げ、柴原は青山に足りない上のスペースをカバーする。テニスの特性的にも相性のいいふたりは、あの時、あの一点で、最もお互いを必要とするタイミングで遭遇した。

マイアミ・オープン優勝後の会見では、「子どもの頃から出たいと思っていた大会で、優勝できたのはスペシャル!」と声を弾ませる柴原の横で、青山は「まだ信じられない」と、つぶやくように言った。

そのなかでふたりが声を揃えたのが、「大きな自信になった」という事実。

まだまだ伸びしろも残すふたりが次に掴むビッグタイトルは、グランドスラムか、あるいはオリンピックか......?

いずれにしても、ふたりが歩調を重ねて進むかぎり、その先には新たな「初」が待っている。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki

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