
2008年の春季キャンプで金本㊧と握手する杉田さん。フルイニング出場を続ける鉄人を支えた
今年は本当に悲しい知らせが多い気がする。18日の午前には、トレーナーとして1970~2010年の約40年に渡って阪神を支えた杉田由嗣さんが亡くなられたことを球団が発表した。
現役時代の岡田監督も江夏豊も田淵幸一も、数え切れないほどの選手がその手によって癒やされてきた。「もみの杉田」として知られ、強烈なもみと面倒見のよさ、破天荒さで誰からも愛された。選手だけでなく記者もみんな杉田さんにかわいがってもらった。現トラ番キャップの三木建次も若手記者だった頃からお世話になった一人だ。
「初めて銀座の高級クラブへ連れて行ってもらったなぁ。ある新人投手が東京ドームのプロ初登板で好投して、翌日に杉さんがその選手を銀座でねぎらったんや。『こぶ平も来い』と言われて僕も行くことになった」
今では「ビヤ樽」として知られる三木だが、当時は「こぶ平」とも呼ばれていた。きらびやかな扉の向こうには、赤いじゅうたんにグランドピアノ。静かに上品に、知的なお話と上質なお酒を楽しむ空間が広がっていた。新人投手もこぶ平も目をパチクリさせていたが、杉田さんは「野球選手は頑張って活躍したらこういうところに来られるんやぞ! 一流選手になったらナンボでも来られる!!」と説いた。
そのとき偶然、「男はつらいよ」シリーズの音楽を手がけたことでも知られる作曲家の故・山本直純氏が近くにいて「お~い杉、肩もんで!」なんてやりとりがあり、その顔の広さにもこぶ平は衝撃を受けたという。
そして、もう一つ三木が忘れられないのは、杉田さんが鉄人・金本知憲を支える姿だ。連続フルイニング出場を続けていた当時の金本は、試合前練習に姿を現すとファウルグラウンドの片隅で杉田さんのマッサージを受けるのがルーティン。それを眺めるのが三木の日課だった。
「ギャーッ!と叫び声が響いとったな。杉田さんのもみは強いから。『がまんせぇ、俺のおかげで出られるんや!』というやりとりをいつもやっとった」
一度「こぶ平ももんでやろうか?」と言われお言葉に甘えたが、少し指で押されただけでやはり叫んでしまったという。三木はさらに振り返る。
「金本が骨折しながら試合に出ているときも、『出ろ、出ろ』と励ましとった。普通トレーナーは止めるんだけど…」
令和の時代のトレーナー像とは違うのかもしれないが、強いもみで気持ちの部分も〝押す〟人だった。当時の三木の取材に、鉄人は「杉さんのマッサージの痛みで、体のあちこちの痛いのを消しているんですわ。〝外的痛み〟で消して、それで試合に出ているんです」と語ってくれたという。感謝しきりだった金本が杉田さんにマッサージ券を渡して、「これでマッサージを受けてきてください」とお礼をしたのも有名な話だ。
三木はあるとき球団関係者に「お~い三木!」と大声で呼ばれたことがあった。そして、それを聞いていた杉田さんから「こぶ平、おまえ三木って名前だったんやな。知らんかったわ」と言われた。10年、いや15年ほどたってようやく名前を知ってもらった瞬間だった。
杉田さん、阪神は優勝しました。まさかと驚くでしょうが、こぶ平がトラ番キャップを務めました。この先の戦いも、その手で強く背中を押してください-。