「誰かひとりに家督を継がせるのではなく...」三井家・三井高利が死ぬ前に行った驚きの“イノベーション”

「誰かひとりに家督を継がせるのではなく...」三井家・三井高利が死ぬ前に行った驚きの“イノベーション”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2021/06/10

「3カ月間で売り上げ60%増」ドラッカーも絶賛する江戸の商人・三井高利が行った最先端マーケティング4選から続く

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ドラッカーはかつて「マーケティングは三井家によって発明された」と書きました。つまり現代、世界を席巻するビジネスモデルの原型は江戸時代にすでにあったのです。

そんな江戸時代のマーケティング戦略をまとめたのがコピライター・川上徹也氏による『400年前なのに最先端! 江戸式マーケ』。同書から一部抜粋し、三井家(のちの三井財閥)の基礎を作り上げた三井高利のマーケティング戦略を紹介します。(全2回の2回目/#1を読む)

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【5】今までにない「商機」を創り出す――両替商としても大成功

越後屋、両替商に進出する

天和3(1683)年、高利は62歳のときに駿河町(現在の日本橋室町)の店舗を拡大しました。南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店としたのです。これが後の三越百貨店、三井銀行(現三井住友銀行)の元になります。

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©iStock.com

江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銅(銭)の3種類からなる三貨制度で、単位の数え方や呼び名も違い、商品によって代金を支払う貨幣も違うのが当たり前でした。幕府が定めたレート「金1両」=「銀60匁(もんめ)」=「銭4千文:4貫文」はありましたが、相場はその時々で頻繁に変わるので、買い物の時は計算が大変です。また高額取引では、江戸では「金」が使われ、上方(京・大坂)では「銀」が使われるという独自の風習(「江戸の金遣い、大坂の銀遣い」)もあり、とても複雑だったのです。町人の間でも経済活動が盛んになってくると、それぞれの通貨を両替する必要が生まれます。高利はそこにいち早く目をつけたのです。

為替差益に目をつけ大儲け

貞享3(1686)年、高利(65歳)は仕入れ店のあった京でも両替商を開き、東西間の為替業務を行なうようになります。当時は前述したように江戸と上方で使われる貨幣が違うことで、様々な問題が発生していました。越後屋の江戸での売り上げは金貨ですが、仕入れの京・西陣で使われるのは銀貨。両替コストや為替変動リスクが大きかったのです。

この両替商の事業は、のちに経済活動が活発化するにしたがって巨大な富を生むようになります。そして単なる両替にとどまらず、お金の預かり、貸し付け、送金など、現在の銀行の役割を果たすようになっていきます。

幕府の為替御用に

幕府も各藩から上納金を集める際、この貨幣制度の違いに困っていました。全国の各藩から年貢米や産物が集まってくるのは天下の台所大坂。そこでは銀貨で売買されます。それを金貨に両替し、江戸まで数十日かけて現金輸送していたからです。コストもかかるし、盗難の危険もあります。

この幕府のお金の流れは、越後屋のお金の流れとちょうど逆でした。これに目をつけた高利は、自ら幕府に「公金為替」の仕組みを提案します。「公金為替」とは、越後屋が、「幕府の大坂御用金蔵から公金を銀貨で預かり、60日後(のちに90日後)、江戸の御金奉行に金貨で納付する」というもの。この提案は幕府にとってもメリットが大きかったため採用に至ったのです。越後屋は「大坂御金蔵銀御為替御用(おおさかごきんぞうぎんおかわせごよう)」となり、大坂高麗橋(こうらいばし)にも両替店と呉服店を開業することになります。公金為替自体の利幅はわずかでも、巨額の公金を数カ月間無利子で運用できるメリットは大きいものでした。また、京の仕入れは大坂で受け取った銀貨を使い、江戸での納付は店での売上金から行なえることから、現金を運ぶ必要もなくなり莫大なコスト削減に繫がったのです。

【6】自分の死後にもイノベーションを

高利は、自らの亡きあとも三井家の繁栄が続くよう様々な手を打ちました。72歳の時、自分の寿命が長くないという思いから、家法を考え、その腹案を子供に示します。彼らと合議して最終決定を下し、『宗寿居士古遺言』にしました。

その根本は「一家一本、身上一致」。財産を分割して相続させることをせず、事業体と資本を兄弟の共有財産として一族で経営。それぞれの家が、毎年事業上の利益から定率の配当を受け取る仕組みにしました。要は、誰かひとりに家督を継がせるのではなく、兄弟一致して「三井家」という事業を永続させるようにと考えたのです。嫡男のみが事業を継ぐことが一般的だった時代において、この考え方は斬新でした。

長男・高平は、高利の遺言をもとに、宝永7(1710)年、京に「三井大元方(おおもとかた)」を設置。これは、三井家の江戸・大坂・京都の全事業を統括する最高統制機関であり、三井家の資産を一括管理する機関でした。一族の者が起業する際には、その資金の貸し出しも行ないました。現在でいう、ホールディングス制の先駆けとも言える制度であり、まさに、高利の遺言の精神を引き継ぐものでした。

その後も、この制度を子孫たちが守っていったため、江戸時代はもとより、幕末の動乱も乗り越えました。三井家は明治維新後も、三井財閥(現三井グループ)としてさらに発展していくのです。

【江戸式を受け継ぐ現代のマーケティング戦略】

「傘シェアリング」はこう進化した

越後屋が始めた傘のシェアリングサービスは現代にも受け継がれています。特にここ数年、いろいろな傘のシェアリングサービスが登場しました。大きく以下の2つの方向性があります。

(1)社会貢献活動の一環

(2)ビジネスとして成立させる

どちらの方向性にも大きな問題がありました。貸し出した「傘」が戻ってこないという問題です。

中国では苦戦続き?

中国の深圳を拠点とするスタートアップ「Sharing E Umbrella」は2017年4月、1000万元(約1億5千万円)の予算を投じて傘シェアリングサービスを国内11の都市で開始しました。デポジット(預かり金)を取り、あとは利用料(30分1元≒15円)を取るというシステムです。計30万本のシェア用傘を国内11の都市で開始しました。しかしこの事業は、たった数週間で破綻してしまいます。ほとんどの傘が戻ってこなかったからです。デポジットを取り、傘にロックがかる管理システムがあったにもかかわらずです。

2018年には、「摩傘(モーサン)」という傘のシェアビジネスが上海などで始まりました。基本は「Sharing E Umbrella」と同じ仕組みですが、デポジットを高くして傘の返却場所を設置しました。その後、中国では、他にも数多くの傘のシェアリングサービスが起業されましたが、今のところ、大きな成功には繫がっていないようです。要因としては、(1)天候に大きく作用される、(2)雨が降ると駅前で安価な傘が売り出される、(3)晴れた日に傘を持って返却するのは面倒、などが考えられます。

「アイカサ」はなぜ返却率100%なのか?

日本でも傘のシェアリングは、いろいろな場所で試験的に実施されましたが、その多くが社会貢献的な意味合いが強いものでした。しかも、やはり傘の返却率は悪く、打ち切りになってしまうケースが目立ちます。2016年3月、北海道新幹線開業に合わせて、函館市が傘のシェアリングサービスを実施しましたが、用意した2300本のうち2100本が戻らず、1年間で終了してしまいました。

そんな中、2021年現在、注目を浴びている傘のシェアリングサービスがあります。2018年、丸川照司が大学を中退して創業したNature Innovation Groupが提供するサービス「アイカサ」です。

「アイカサ」はLINEのアプリを使用します。傘のロックや管理システムは、中国のシェアリングサービスを参考にして製造を委託。傘のレンタルは1回24時間70円。使い放題プランで月額280円。課金上限を月420円にすることで、ビニール傘を買った方が安いということを避けるようにしました。アイカサの返却率は99%のことです。これはユーザーの決済情報を登録して、借りっぱなしだと追加料金が発生するためだと考えられます。

ビニール傘の市場規模は約400億円。丸川は、「大手が参入するにはニッチな市場だけど、スタートアップが狙う市場としては十分に魅力的だ」と考えました。また「東京都内だけでも年間2000万本ものビニール傘が購入され、その多くが捨てられるか使われずにオフィスや自宅に貯め置かれていることに、大きな無駄を感じました。傘のシェアリングはその無駄をなくす上に、傘を持ち歩かなくていいという人々の生活を便利にするものです。そこに事業性を感じます」と語っています。「アイカサ」は、鉄道会社、コンビニ、自治体などと提携し、かなりの勢いで広がっています。ここに、越後屋のような企業の広告やブランディングに繫がるものや、持つとステータスを感じる要素が入ると、さらに収益性が高まるかもしれません。

(川上 徹也/ノンフィクション出版)

川上 徹也

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