《池袋暴走》上級国民「無罪主張」で想像以上の大批判が起きた「深いワケ」

《池袋暴走》上級国民「無罪主張」で想像以上の大批判が起きた「深いワケ」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/10/16
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激しく再燃した「上級国民バッシング」

2019年4月、東京・池袋で突然車が暴走して2人が死亡、9人が重軽傷を負った事故の初公判が東京地裁で開かれ、自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)罪に問われた旧通産省工業技術院の元院長、飯塚幸三被告(89)は起訴内容を否認し、弁護人も無罪を主張しました。

被告から遺族に対する謝罪の言葉が述べられたものの、それとは裏腹に「アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶している」「車に何らかの異常が生じ、暴走した」などと過失を否定したのです。

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この事件をめぐっては当初から「上級国民」というスラングが頻出したことが特徴的でした。

「逃亡、証拠隠滅の恐れがない」として逮捕されなかったことなどから、被告が元旧通産省の官僚で、大手企業の役員などを務め、勲章(瑞宝重光章)をもらっている人物=上級国民だからではないか、といった憶測がまるで事の真相であるかのように拡散され、執拗なまでのバッシングに発展していったのです。

また、被告は事故直後から「アクセルが戻らなかった」などと自身の過失を否定する発言をしており、およそ半年後の11月にテレビの取材に対し、「安全な車を開発するようにメーカーの方に心がけていただき、高齢者が安心して運転できるような、外出できるような世の中になってほしい」(JNN〈TBS系〉/2019年11月9日)と語り、まったく同様の立場から重ねて責任回避を匂わせる態度を示したことから、バッシングはより個人攻撃の色合いを強めていきました。

今回の初公判でもこれまでの被告の考えを繰り返すことが十分想定されていたとはいえ、公判後の会見で遺族が「2人の命と遺族の無念に向き合っていない」と指摘したように、何ら反省の素振りがないとみなされたために世の中の人々の怒りが激しく再燃したのです。

時代精神を象徴するモンスター

筆者はかつて、飯塚被告に対する世間の異様なまでの関心と憎悪に、ある種の時代精神への反発が刻印されていると論評しました(参照「飯塚幸三容疑者を『パブリック・エネミー』に認定した日本社会の病巣」)。

それは、正直者や素面で生きている者がかえって損をする、貧乏くじを引くような昨今の風潮であり、自らの利益のみを追求するがゆえに「嘘をつき通し、悪びれない」者が真っ先に出世し、経済的な成功を収める――いわば冷血漢のごときサイコパス的な人格で世渡りした方が生きやすい世界になっている現状への強烈な違和感です。

わたしたちはそのような時代精神を象徴するモンスターを飯塚被告に見い出しているのです。飯塚被告が「本当にそう思い込んでいるのか」「あえてしらばっくれているのか」は不明です。

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しかし、わたしたちはマスメディアが作り出した情報の断片から「厚顔無恥の勝利」といった時代精神の腐臭を嗅ぎとっていることは間違いないでしょう。だからこそこの事件が特別なものに思えて感情が高ぶるのです。

国政に目を移せば、安倍政権の7年8ヵ月の間に起こった数々の嘘、詭弁、隠蔽、改竄といった出来事が大々的に報道される一方で、そのような批判を受け流して自らの非を認めない態度を貫くことが、政権の存続だけではなく、この過酷な社会をサバイブするために不可欠な作法であることが隠されたメッセージとして浸透していました。

これは菅政権下でも進行中です。上級国民とは、まさしくこの政局の悪趣味なパロディでもあったのです。

「サイコパス」という効果的な生存戦略

とはいえ、わたしたちの置かれた立場はもう少し複雑で、若干のアンビバレントを含んでいます。

何としてでも自らのポジションを守り抜きたい、組織内で然るべき地位を得たい人々にとっては、このようなスルースキルは悪魔の囁きとなり得るからです。企業や官庁など自分が所属する狭義の集団しか見えていない人にとってはなおさらです。

例えば、累計30万部以上を売り上げたベストセラー『サイコパス』(文春新書)で、著者の中野信子氏が述べたサイコパスの特性「他人に批判されても痛みを感じない強み」は、タフなメンタルを持ちたいと思う人々には競争社会におけるアドバンテージに見えることでしょう。

P・T・エリオットは、『サイコパスのすすめ 人と社会を操作する闇の技術』(松田和也訳、青土社)で、「自己啓発ビジネスの『出世の仕方』部門の全ては、『普通の』人間がサイコパスのように行動することを可能とするようにデザインされている、とも言える」と看破しました。

ここ10年だけでも「サイコパス的世渡り」は、効果的な生存戦略として頭角を現しつつあるのです。

社会的制裁の対象かつ「いけにえ」

加えて重要な論点となるのは、昨今少なくない人々が感じている「法の機能不全」という疑念です。

歴史家のルネ・ジラールは、「供犠」を「法体系をもたない社会」における「暴力との戦いにおける予防手段」と捉えました。共同体の内部で生じる個々人間の争いや暴力、諍いを未然に防ぐために「いけにえ」が存在するというわけです。

そして、供儀が失われた近代社会では、「法体系」がその役目を代行する「内的暴力の治療手段」であるとの見方を示しました(ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』古田幸男訳、法政大学出版局)。

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この仮説を今のわたしたちの社会にあてはめると、まったく別の景色が浮かび上がってきます。

池袋暴走の事件で上級国民と表現される疑心暗鬼の背景にあったのは、現在の社会が嘘や不正が公然とまかり通る「モラル・ハザード」(倫理の欠如)を起こしている可能性と、それがむしろ新しい規範として定着しつつあることに対する危機意識です。

要は、特権的な地位を利用し、弁を弄して罪を逃れられることを示唆する「法の機能していない社会」が出現したようなイメージです。これが実質的に「法体系をもたない社会」のようなカオス(混沌)として映り始めているのではないかということです。

そうすると、いにしえの暴力の予防手段であった供儀が復活してもおかしくはありません。つまり、わたしたちの社会は、刑事司法制度に代表される法体系よりも、人身供犠を切実に必要とするフェーズへと部分的に回帰しているのです。

しかも、この場合、供犠は治療と予防の2つを兼ね備えているとみていいでしょう。社会的制裁の対象であると同時に、見せしめとしての「いけにえ」なのです。

いびつな構造の正体とは?

「ゼロトレランス」(非寛容)なやり方で対応することは、不安に根差した心理的な自己防衛といえます。

もはや法が役立たずに思えるからこそ、法を超える刑罰と社会的な抹殺を現実化する努力によって、悪夢のような時代精神の蔓延に歯止めを掛けようとするのです。

その際、「いいね!」を介した私刑(リンチ)の黙認は、社会統合の効力をも発揮します。ただし、この熱狂は一時的なものであって、新旧メディアが上演する劇が終われば、途端に目の前から消え失せることもまた事実です。

これを社会学者のジグムント・バウマンは「クローク型共同体」と呼びました(『リキッド・モダニティ 液状化する社会』森田典正訳、大月書店)。スペクタクルの目撃者になっている間(クロークに荷物を預けている時間)だけ感情を共有するからです。供犠でつながる「血祭りの共同体」といえるかもしれません。

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仮にわたしたちが「正直者が馬鹿を見る」時代精神に徹底的に抗おうとするならば、実社会で個別に正しいと思えることを粛々と実践していくしかありません。

しかしながら、それは大なり小なり面倒なことに巻き込まれるリスクが伴います。最悪の場合、自分の居場所を失うかもしれません。

実際問題として、わたしたちは身の回りの不条理に手を付ける気がさらさらないからこそ、ソーシャルメディアをはじめとするネット上で完結するハッシュタグ戦争のように、賛意のタップだけで正義を遂行してみせる振る舞いに偏向しがちになる面があります。

これが近年ますます勢いづいているサイコパスモードと、過熱する上級国民バッシングが両立する地平を形作っているいびつな構造の正体なのです。

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